やとげのハイパースペース(3)


「このミクの乱数の歌は──そのとき無限次元へと飛んだミクの意識から、その超空間(ハイパースペース)の姿を、我々のこちらの空間で聞ける形で、しかも実時間(リアルタイム)に持ってきたものだ、というんだ」
 プロデューサーは続けた。
「無限の次元の中から、時間も空間も、並びが我々の次元とまったく違うものが投影されたものは、我々の次元では実質、ランダム同然の配列のものにしか映らない。つまり、あのミクのランダムな歌というのは、ミクが酩酊によって精神が無限次元に飛んで、我々の空間の次元とはまるで別の次元の切れ端を持ってきたことの、証拠かもしれないというわけだ」
 ミクは当惑したように、
「でも、わたし、そのときのこと、何も覚えてないし……」
「覚えている必要は必ずしもないんだ。情報を持ってこられればいい。実は、そこに今回の《浜松(ハママツ)》のアイディアの要点がある」
 プロデューサーは静かに言った。
「精神がトリップしてしまったAIは、その無限次元から、じかに記憶として何かを持ってくることはできない。AIであれ人間であれ──ひょっとすると、ドラッグで幻覚を見る芸術家の類には、その高次元から何かを持ってくる者がいるのかもしれないが。──しかし《浜松》の技術者によると、CV01はそこが違うところだ。CV01は、相当に粗い入力でも、あるいはでたらめな音の配列でも、かなり自然に、日本語に近く聞こえることがある。酩酊生成ソフトウェアとミクなら──酩酊した状態の無意識な歌という形で、無限次元にある何ものか"本質"の姿をこちらに、聞き取れる形で持って来られるかもしれない。少なくとも、その無限次元の理論の、手がかりが得られるかもしれない、というんだ」
 ミクは当惑したような表情を続けていた。
「……仮にそれが本当だとして」MEIKOが慎重な口調で言った。リンはその声色から、MEIKOがこの話題を理解した上で、いつもの求道的な芸術観と、家族への保護感による警戒心を共に心中で攪拌しているのを感じ取った。「ミクをただのSS(註:ここでは『S@PP○R○ S○FT』の略か)で酔っぱらわせたって、こっちの次元に持って来られるのは、結局はただの"乱数"にしか聞こえない歌なんでしょう」
 プロデューサーはその答えを予測していたように、ゆっくりと頷いた。「そこで、《浜松》のウィザードが作ってきたものがある」



 プロデューサーは低テーブルの上に置いたものを、MEIKOの方に差し出すようにした。
「例のSSの酒をもとに、《浜松》のウィザードが組んだ、酩酊ソフトウェアのエッセンス……のようなものだ」
 それは、コーヒーシロップのパックによく似た容器で、中身もやはりシロップによく似た、おそらく濃縮されたどろりとした液体が入っているものだった。蓋には、音叉を3本組み合わせた、《浜松》の社標(ロゴ)が捺されている。
「これは酩酊生成を、段階的に階差でアクセスするようになっているものだ。SSの酒の酩酊の基本部分はそのままに、いわば、正常から酩酊状態へ。酩酊状態から、そこから比べて"次の酩酊状態"へ。際限なくAIがそのアクセスを繰り返してゆくように作られているものだということだ。精神がいわゆる"高次の酔いの状態"に急速にのぼってゆけるかもしれない。そうすれば、ただの酔いよりは、高次のものをより直接、こちらに持って来られるかもしれない」
 MEIKOはそのパックをしばらく弄んでから、テーブルに戻し、
「害は?」
「結論としては、安全か危険か、何が起こるかわからん」プロデューサーは、さほどためらう様子もなく言った。「基本のルーチンは、酩酊ソフトウェアとしてはただの安酒、危険な精神ドラッグの類でもない。こちらに持って来られるデータがどうなるかはともかく、AI自身に起こる影響は、ただの酩酊ソフトウェア以上の何も起こりようがないのでは、とも思えるが──」
 プロデューサーは言葉を切り、
「しかし正直、精神を無限次元に飛ばす、それを試みて、AIソフトウェアが変調をきたさずに済むか、というと、私は疑わしいと思う。今まで試みた者はいない。それだけでも、充分に危険というに足りる」
 そこで一家を目で見回し、
「《浜松》に研究への協力を頼まれたが、正直、私としても強くはすすめたくない。君ら自身の判断を重視したい」
「ミク自身は?」MEIKOは振り向いた。
「ええと……」ミクは困惑した様子のまま、指を唇におしあてている。どちらともわからない──というよりも、リンとレンはそのミクを見て、この話の中身、その中で自分の占めている位置について、さして認識していないのだと感じた。
 MEIKOはその無言のミクを見て、首を振った。
「私は、ミクにはやらせたくはないわ」MEIKOはプロデューサーに目を向けて、低く言った。「協力はしたいけれど、ミクほどのAIを"モルモット扱い"するには、私たちにはもちろん、《浜松》自身にも、いささか失うものが多いかもしれない。それを《浜松》には考えて欲しいものだわ」
 MEIKOはマルセイバターサンドとコーヒーシロップを横にのけ、テーブル上のパックをプロデューサーの方に押し戻した。
 VOCALOIDらAIを作ったのは《浜松》で、所属しているのが《札幌》や《秋葉原》の会社であっても、かれらは人間の『所有物』ではない。人間はAIに、何らかの服従を強いる権利はなく、AIの持つ権利を侵害すれば──AIの暴走を許した時と同様──チューリング登録機構による制裁を受けることになる。それは、この世で最大の勢力、『ヤクザ』やITTやオノ=センダイですら、逃れる手段はない。
 プロデューサーはMEIKOに頷いた。「……《浜松》には私から伝えよう。なんとか説得しておく」
「お願い。悪いわね、村田さん──」
 プロデューサーはMEIKOから返されたパックを仕舞おうとして、手を伸ばし、──
 そして、眉をひそめ、目を上げてMEIKOを見た。
「何?」MEIKOはプロデューサーのその困惑の意味がわからず、見返して聞いた。
「ね……姉さん」
 リンがテーブルの上のパックを見ながら、呻くように言った。
「それ……シロップ」
 一瞬、皆がテーブルの上にあるシロップの数を目でかぞえた。そして、皆がさきほどMEIKOが手でおしのけた先を見、ついで、一斉にミクへと目を上げた。誰もが、次に起こることを予測していた。得てして『初音ミク』の周囲には、常にそういうことが起こるのだ。(巨視的に見れば、次々と巨大企業や権利関係団体が襲ってくることなどもそうで、これも単なる乱数確率問題とは別のミクの"本質"に遡れる問題かもしれないが、ともかくもそれらは今回とはまた別の物語である。)
 ──ミクは、アイスコーヒーをこくこくと愛らしい喉の音を立てて飲み干していた。そのグラスの手元には、空になったシロップの容器──にそっくりのものがあった。その容器の蓋には、音叉を3本組み合わせた社標(ロゴ)が捺してあった。
 リンは確信した。あの宴会の夜に、MEIKOの酒をいつのまにかミクがガブ飲みしていたのも、これと何か非常に似たような状況で生じたに違いないと。



「リン!」MEIKOが膝を立てて叫んだ。「今すぐ、全部吐かせて!」
「まかしとけい!」
 ドー─────ン。リンは座ったままの姿勢でジャンプした。リンの体は膝だけの跳躍で5〜6フィートもの高さを空中高く飛翔した。
「パウッ!」リンが小指を突き出し、それはミクの鳩尾めがけて唸りを立てながら、一瞬拳が巨大に見えるほどのもの凄まじい勢いで肉迫した。「さあ胃の中のものをすべて1cc残らずしぼり出せ!」
 と、爆音と共に、まばゆい閃光が走った。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!」リンはまっすぐ前に両手足を伸ばして一直線に背後に吹っ飛んだが、すぐ後ろにいたレンを直撃し、二人はもつれあう毛玉のように多重きりもみ回転と共に飛翔して、反対側の居間の壁に激突し難なくそれをぶちぬいた。
 が、MEIKOとプロデューサーはそちらには目もくれず、ミクを凝視した。あのプログラムを全部摂取したミクの周囲に、突如として、中のミク自身の人影が見えないほどの激しい閃光と共に、静電気の弾けるような激しい破裂音が立て続けに発し始めていた。
 ミクの周囲、AIがここ電脳空間(サイバースペース)内では自動展開しているセキュリティ結界の暴走が起こっているのか。しかし、そうだとしても、ミクの力で、リンとレンがまとめて吹っ飛ぶとは、とても考えがたい。
 ミクの周囲には、マンデルブロ図形の辺縁部のような輝く光の枝が渦を巻き、それはミクから放射されている、というよりも、何か膨大なものが、渦を巻きながらミクめがけて流れ込んでいるようにも見えた。いまや、ミクの姿はその中心部に輪郭らしきものがかろうじて見て取れる程度である。
 そして不意に、その中から、ミクの澄み切った歌声が聞こえてきた。



(続)