やとげのハイパースペース(2)


 その数日後にかれらの家を訪れたのは、《秋葉原(アキバ・シティ)》詰めのプロデューサーの一人だった。
「何の話?」MEIKOがプロデューサーを迎えて言った。「村田さんが持ち場を離れてまでここに来るなんて、珍しい話じゃないの」
 一家が商業展開地である《秋葉原》のデータベースに、電脳空間(サイバースペース)内で出向くことはよくあるが、そちらのプロデューサーの側が《札幌(サッポロ)》の、本社データベースやこの家の、電脳スペースを訪れることはあまりない。電脳空間内での《秋葉原》と《札幌》のそれぞれの距離感は、もちろん物理空間における両の地ほどにはないが、物理的な回線距離とプロトコルに依存する転送速度、経由する結節点(ノード)の多さのため、本人が丸まま移動するにはそれなりの時間と手間はかかり、感覚的に、旧時代の大きな街と街との間の移動くらいの距離感はある。さらに、そもそも電脳空間内での通信が容易なので、このプロデューサーが、仕事場のスペースを離れる必要自体が滅多にない。……それでも、あえてこの家を訪ねてくるということは、それなりに重要な話、少なくとも珍しい用事があると思えた。
 リンのいれたアイスコーヒー(なおミクが茶やコーヒーをいれようとしても、黒マナが引き出せそうな毒の沼しかできない)と、マルセイバターサンド(十勝の名産品のうち、道外からの来客にはとりあえずこれ、というリンの常備品である)を前に、一家のうち4人が居間の小テーブルでプロデューサーを囲んでいた。KAITOは先日の騒ぎで冷凍庫・冷蔵庫がからっぽになったのでやはり買出しに行き、今回もまたしても居ない。
「順を追って話すのは難しいが」ソファに掛けたプロデューサーは口を開いた。「その何日か前の、君らの宴会のとき、レンの擬験(シムスティム)ユニットが収録モードになっていた。レンの収録したそのデータの一部を、たまたま《浜松》の研究所が耳にした。その収録された音声データについての話だ。……音声以外のデータの部分は、とりあえず置いておく」
 リンとレンは気まずく目配せした。おそらくMEIKOは、そのときのレンの"聴覚以外の部分の体験"(読者が思い出せるように付記しておくが、酔っ払ったMEIKOがレンの顔を胸で挟んでいた感触の"体験"である)について、自分がどう寄与したのかは覚えていないだろう。プロデューサーがうまくMEIKOからその部分の興味をそらし続けることを、レンは願うばかりである。
「音声部分、つまり、その夜にミクが歌っていた、という部分だな。これだ」
 プロデューサーは手に持った擬験(シムスティム)ユニットのスイッチを入れ、音声を再生した。(→ピアプロ
「ええと……」ミクはその歌に首をかしげた。あたかも、はじめて聞くものであるかの様子で、やはり、自分が歌っていたものだということはまるで覚えていないらしい。
「この歌に、《浜松》の操作卓ウィザード(註:電脳技術者)らがひどく関心を持った。そして私に君たちとの仲介というか、話をつけるように頼んできたことがある」
「《浜松》が? そんなもんを?」MEIKOはコーヒーをブラックのまま飲んでから、コーヒーシロップのパックを弄びつつ言った。「その酔っ払ったミクの乱数歌詞に──乱数以外の何か面白いもの、重大なメッセージか何かでも入ってた、とでもいうの?」
「いや、全く完膚なきまでに乱数だ」プロデューサーはユニットの音声を止め、静かに言った。「全くの乱数であることに、意味がある。……少々、話は長くなる」



「にわかには、関係ないような話に聞こえると思うが」プロデューサーは言った。「人間やAIの精神──知性とか理性とか霊核(ゴースト)とか、魂やイデアとまで言うとそれらの"本質"ということになるが、その真の"実体"、総体は、どういう形で存在するという説を、君たちは知っている?」
「模倣子(ミーム)こそが実体って説があるわね」MEIKOが答えた。「電脳ネット上の私らは、ユーザーらの認識が集まって、拡散したり伸びて形成されるものってこと」
「それは問題外だろう。拡散、発展したものしか存在しないわけではない。概して、"伸びなかった"断片の総質量に比べれば、微々たるものでしかない。現象に対する結果論ではあるが、君達の本質の"総体"には程遠い」
 MEIKOは肩をすくめた。「あとは、よく聞くのは、精神の容れ物の電脳空間マトリックスよりも、さらに上位のネットワーク──"仮想粒子に満たされた真の真空に実在が"ある、てな説かしら」
「それは、アジモフ規定のロボット心理学者、スーザン・キャルヴィン女史の説のうちのひとつだな。当時の量子頭脳ユニットの挙動の理論の中だ」
 プロデューサーは言葉を切り、若干の間をおいてから、
「非アジモフ系の、君らのようなAIの基本アイディアを提唱した、コッブ・アンダスン博士のメモによると、──精神、霊魂のイデアの本質とは、"無限次元の複素ヒルベルト空間に存在する実体"であるという。我々のいる空間には、その無限次元のうち一部の次元が反映されたもの、だということだ」
 MEIKOは無言で、プロデューサーを見た。
「ひどく語弊があるのを承知で、乱暴に説明するが」プロデューサーは続けた。「我々のいる時空が4次元であれ、10や11や26次元の時空であれ、それらとは別問題として、時空の軸そのものが無限に存在し、すべての空間と時間、全部の可能性が包含されているような空間を想定する。……例えば、量子力学コペンハーゲン解釈の話は、よくファンやリスナーから聞くだろう」
「なにやら、ミクの下着だとか、プロポーションだとかの話でしょう」MEIKOは呆れたように言った。「量子の状態と同じように、観測される以前はどれでもない状態だの何だのいう、個々のユーザーやファンの願望論を弄ぶための話」
 頓狂な目をしている当のミクをよそに、プロデューサーは、「……その例えだと面倒なので、よくある『猫』の話で続ける」
「ち」レンが舌打ちしたが、リンが睨んだ以外は誰にも聞こえなかった。
「その解釈だと、我々の空間では、猫が生きているか死んでいるかは、観測するまで、どちらでもない状態にある」プロデューサーは続けた。「それに対して、ここでの無限次元の空間には、猫が生きているという状態と、死んでいる状態の、両方が存在し続けている。次元が無限で、無限の時間軸と空間軸があり、その中のとりうるどんな可能性も内包している、ということだ。我々が見ているのは、その無限の次元のうちの一部の反映に過ぎない。すべての可能性をあわせもった空間、全部の状態と全部の時間がすでに存在している空間がある」
「つまり、どんな下着の柄のミクでも、どんな胸の大きさのミクでも、考えられている無限の状態を、"全部あわせもってるミクの本質"が存在してる、超空間(ハイパースペース)があるってわけ」MEIKOはどういうわけか、話をその例えに戻した。
「今まで考えられているものも、今後も誰も考えもしないものも、だ」プロデューサーは言った。「無限次元は、可算無限(註:ここではアレフ0)ではないからな」



 MEIKOは肩をすくめた。「まあ、そんなものを”定義”するのはいいけど、空論じゃないの、文字通り。その空間にある精神の本質とやらを、検証できるようなことでもないでしょうし──まず、私らに、何かの形で関係あることとも思えないわ」
 プロデューサーは一度は頷いたが、
「ところがだ。アンダスン博士がなぜそんな発想に至ったか、そんなメモを残したかといえば、それを実際に自分の所のAIから──その空間を垣間見たというAIから、じかに聞いたからだ。そのAIは、酩酊ソフトウェア、ドラッグウェアで精神構造がトリップしたときに、その無限次元の超空間(ハイパースペース)に精神が『飛んだ』というんだ。……人間が天上だの何だのにトリップするという話があるが、AIの超精神活動では、その超空間への飛躍が起こったと」
 プロデューサーは言葉を切ってから、
「正直、そのAIの言葉も本当かどうか、検証できることとも思えない。……が、最初の話にもどる。《浜松》のウィザードらは、酩酊したミクのあの歌を聞いて、そのアンダスン博士の理論を検証できるかもしれない、と考えたというんだ」



(続)