やとげのハイパースペース(1)

 それは一家がそろってちょうど仕事がひと段落ついたところで、その夜のMEIKOはおそろしく上機嫌だった。実のところリンは、おそろしく上機嫌なMEIKOならば何度も見たことはあったが、そのビンを押し入れから取り出すときのそれほどまでの嬉しそうな様子も、そのビン自体も、見るのははじめてだった。
 『S@PP○R○ S○FT』というラベルがついたそのビン、5リットルの取っ手付き透明ペットボトルを、MEIKOが居間の低テーブルに着地させたとき、どずーん、という物凄い音がして、家の土台までが震撼した気がした。MEIKOは一人でそれを自分のグラスに注いだが、一人で呑むなどという状況にも関わらず何か物凄い上機嫌のままで、それをがぶがぶと飲み始めた。
 ……KAITOによると、一家が忙しくなって以来ずいぶんと久々に見たものだが、その代物は、電脳空間(サイバースペース)内の擬似酩酊生成ソフトウェアの中でも、工業用エタノールそっくりの味(無論そんな表現をされても、どんな味かはリンには想像だにできなかった)と、物凄い"悪酔い感"があるのだという。にも関わらず、貧乏学生のご用達(と物理空間ではなっているもの)であるため、大量摂取による悪酔いや、(あまりはっきりとリンらに説明できたことではないが)そこから生じた惨事に関して、この酒の逸話は尽きるところがない。ともあれ、その酒を選んで自分から好き好んで際限なくガブ呑みする者など、人間(わざわざ電脳空間の中で)にせよ、AIにせよ、MEIKO以外には、見たことも聞いたこともない、ということだった。
「要するによ、MEIKO姉さんが旧型の"工業用品"だからじゃねェの?」仮にMEIKOの耳に入ったら、体の擬験構造物(シムスティムコンストラクト)が千のネオンの折紙(オリガミ)にまで粉微塵に引きちぎられそうなことを、レンはおそれも知らずに口にした。「……んで、それを言ってた当のKAITO兄さんは今どこさ」
「酔い覚ましとか色々、買い出しに」リンはレンの傍、台所のテーブルによりかかりながら言った。
「ボクも行く──」台所の椅子の背を抱えて座っていたレンは、腰を上げかけた。
「追いつけない! 二人も行かなくたっていい! てか、逃げてんじゃないのよさ!」リンはレンの襟首を掴んだ。「ただでさえ、あの居間の事態の収拾に人手が要りそうなんだからッ」
「糞(シット)ッ、兄さん、卑怯じゃねェか……」それは、家族のほかの誰も同意せず、実のところレン本人も本気で言っているというわけではない表現なのだが、レンにはままならない立場をしばしば占めていることが多い"兄"に対して、なにかとレンの口癖になっている形容だった。
「かったりィ……」レンはのろのろと、手元の小箱のスイッチを探った。見ると、ホサカ製の擬験(シムスティム)ユニット(註:全感覚の"体感"を収録、または他者の収録を再生する娯楽装置)である。なお、リンの私物だった。
「つーか何やってんだヨこの結線頭(ワイヤヘッド)がッ」リンは即座に、レンのインカムの没入(ジャック・イン)端子から伸びた擬験ユニットのコードをぐいと引っ張った。「今のこの状況から逃避してどーする」
 だが、自分も居間の状況から逃避してきているようなもので、そろそろ戻らなくてはとリンは思った。思わずMEIKOから逃げてはきたが、つまりは、あの純真な"次姉"ミクを、たった一人であの状態のMEIKOの所に残してきたわけだった。ミクが一体あのMEIKOにどう応対しているか──どう巻き込まれ、というか、どう事態をさらにややこしくしているか、今も心配は膨れ上がってきていた。
 ……しかし、レンと共に居間に戻ったリンの目に入った、その事態の面倒さは、リンの予想を激しく上回っていた。
 MEIKOは、半ばぐったりと低テーブルによりかかったまま、"困った時に助け合う家族愛の美しさと大切さ"について(今、困っているのはMEIKOの周囲の家族だという問題はそっちのけで)訥々と語りながら、自分のグラスに機械のように件のビンの中身を際限なく注いでいる。そして──どういう経緯でそんなことになってしまっているのやら、リンには想像もつかないが──ミクは、そのMEIKOのグラスの中身を注ぐ先から、こくこくと愛らしく喉を鳴らして飲み干していた。
「お、おねぇちゃんッ」リンはミクに駆け寄った。「今、なに飲ん……なに呑んでんのよ!」
 ミクはグラスを持ったまま、リンを振り向いた。まったく変わったところはないようだった。ミクは普段どおりごく普通に、リンににっこりと笑いかけ、何かを喋った。
 ──リンは最初の10秒ほど、それが普通の言葉なのだと思っていた。しばらくの間、意味を聞き取り、理解しようとさえ試みていた。そのミクの口から発せられているのが、まったく意味をなしていない、でたらめな音節の配列だということに、そのしばらくの間、気づかなかったのだ。
 ミクには、他には一切何の異常も生じていないが、この酒を大量摂取したせいで、AIのおそらく言語関連に、しかもピンポイントに言語の音の配列を決める何かの部分に異常をきたし──音の並びが、完全にでたらめになってしまったのだ。しかし、同じくらいリンを絶句させた異常さは、にも関わらず、音の並び以外の点ではそのミクの音声が、完全に『普通の言葉』のように聞こえることだった。
 ──CV01『初音ミク』というボーカル・アーティストAIには、どういうわけか、他のVOCALOIDらと比べても、非常にきわだった特徴がひとつあった。CRV2もまれにそうした特性を示すことがあるのだが、ことにCV01に非常に顕著なのが、かなり出鱈目なデータ、例えば、ときに調律指示を一切与えずに無調整の音声データをそのまま出力しても、それなりに"聞ける状態"に、思ったより自然な歌声になるという特性だった。
 そして今のミクの声は、完全に出鱈目な配列の音を出力しているにも関わらず、配列以外のすべての点が、異様なほど自然に聞こえた。まったく意味のない音節の羅列にもかかわらず、しかも意味のとれない外国語か何かではなく、あたかも普通の"日本語"であるかのような錯覚と共に聞こえるのだった。
 ミクはリンに向かって、いつも通りのあの優しく純真無垢な微笑と共に、そういう異常に自然な、完全な出鱈目語を、延々と話しかけ続けていた。
 ……リンは助けを求めるかのように、レンのいる方を振り返った。──が、即座に見なかったことにした。MEIKOがレンに静かに語りかけており、いつもの求道的な芸術性について、しかしレンにもわかりやすく物語るように、優しく諭すような声で説明している。ただし、そうしながら、MEIKOは胸にレンの顔面を挟みこんで、激しく揉み込むように両の胸で圧迫を加え続けていた。うつ伏せのレンの手足は、全身の力が抜け切ったようにぐったりと床に伸びて微動だにしない。レンの没入(ジャック・イン)端子に繋がったままの擬験(シムスティム)ユニットが、床に放り出されたように転がっている。
 見ると、ミクはもうすでに、居間のカーテンをステージの幕か何かのように背にして立ち、歌いはじめていた。
 その歌は、曲はごく普通のアイドルポップスのようで、別の機会に貰っていたものか何なのか、曲も歌声の発声も非常に明瞭なものだった。……しかし、歌詞はすべて、さきほどの通りの出鱈目な音節の羅列だった。正確には、音節というよりも日本語の"仮名"ごとにランダムに並んでいる(心なしか濁音が多めに聞こえた)ようだったが、それ以外の点ではミクの歌声は完璧に自然に聞こえた。注意力を少しでも逸らせば、ごく普通の日本語の歌であるかのようにも聞こえる、逆に、そのあまりの異様さが、リンの理性を激しく打ちのめした。(→ニコ動) (→ようつべ
(なお、のちに、同じ曲で完成したごく普通の歌詞の歌も聞くことになるが、リンにはこの最初に聞いた乱数歌の異様さの衝撃の方は、結局最後まで払拭することはできなかった。)
 リンは時計を見た。本当にKAITOは帰ってくるつもりがあるのだろうか。……そのまま喧騒をよそに、リンは天を仰ぐようにした。自分がこの家に来る前は、この上の3兄妹はいったいどうやってまともな生活を過ごしてきたというのだろう。
 ……なお、この時のミクの歌、まして、この時のレンの状態が、のちに重大な意味を持つものとして浮かび上がってくるとは、リンには──仮にリン以外の誰かがこの場にいたとしてもおそらく──まったく予測することができなかった。



(続)