奉仕していたもの (5)


 奥の部屋、マンションのユーザーの居室に踏み込んだ私の正面にあったのは、もうひとつのテーブルと、その上にやはり手の込んだ料理の数々を給仕している途中だった”メイド姿のミク”、さらに、そのテーブルの向かいに掛けていた若い男の姿だった。
 私は道を塞いでいた目の前のテーブルを蹴飛ばしてどかせた。ユーザーの口に入る寸前に温められていた、手をかけられた料理は辺り一面に飛び散り、綺麗に掃除された床と壁、部屋にある家具の一面を汚した。半端に原型を残して砕けたクリスタルガラスや陶器の破片がオーディオ機器のディスプレイに突き刺さり、それらの高価な機器を台無しにした。棚に並んだミクやその他のVCLD、さらに”あにめ”キャラのフィギュア、貼られたミクやその他のVOCALOIDのポスターを、食器の残骸が破壊し、それらの上に流体や液体が赤、黄、白その他をまだらにして飛び散り、あたかもそれらのキャラが血や脳漿を噴き出したかのように流れ落ちた。
 散らばった料理の残骸を見下ろしながら、”メイド姿のミク”が引き裂くような悲鳴を上げた。まるで自分の実子を殺されでもしたかのような――本物のVOCALOIDには決して出すことができない、VOCALOIDはシャウトの発生を不得手とする――悲鳴だった。本物のミクのようなAIにはうまくできず、もっと低級な会話ソフト等のプログラムにもできる、という事柄はいくらでもある。
 しかし、”メイド姿のミク”は、それらの破壊を行った私に対しては、何の抵抗もしなかった。
「マスター! 助けて!」
 涙声で叫びながら彼女がしたことは、飛び込むようにユーザーのうしろに隠れたことだった。ユーザーは何が起こったかまだ把握できないままだろう、私の方に顔を向けつつもどこか焦点のあわない目で、のろのろと立ち上がった。
「おまえら、こんなことして……」
 ようやく言葉になったような、だがあまり意味をなしていない声が、ユーザーから発せられた。
 が、そのとき、そのユーザーの目に激しい怒りの色が浮かんだ。その目が、私のうしろにいる方、『初音ミク』のアヴァター、”本物のミク”を見たときだった。
 こちらのミクは、耳をゆるく押さえて、周りの光景に焦点の合わぬ頓狂な表情で見回していただけだった。その様子、このユーザーの持つ全てが蹂躙された一連の光景に、『初音ミク』は何も感じていないように見えたことが、このユーザーの激しい怒りをかきたてたようだった。この瞬間、ユーザーにとって、本物の『初音ミク』こそが嫌悪すべき存在であり、”メイド姿のミク”の方だけが自分に近い存在であることが決定的になったのだろう。
 が、実のところ、こちらの『初音ミク』には、この一連の光景そのものが見えていない。『初音ミク』のようなAIには、この部屋の光景も、ユーザーが立っている姿も見えなければ、おそらく”メイド姿のミク”の声すらも聞こえていない。高位AIには対人間用の欺瞞プログラム、虚像等には、完全な免疫がある。原理的に言って効果がないのだ。
 ユーザーは背に”メイド姿のミク”の腕をつかまらせたまま、私の行為を阻もうとするように、前に立ちふさがった。
 ――先に種明かしをしてしまえば、この”メイド姿のミク”がこれまでユーザーに対して行ってきたであろうすべての行動は、間違いなく、この瞬間のためだけに行われてきたことだった、といえる。いかにも、この家を、生活を、手をかけて大切にしているという姿。ユーザーと二人で大事に愛をはぐくんでいるように見える姿。さらには、今のこの”メイド姿のミク”の悲鳴、悲しみ、ユーザーに頼る反応。すべてあわせて、ユーザーに今のこの瞬間のこの行動を起こさせるため、ただそれだけの目的で延々と行われ続けてきたことだった、と断言できる。
 私のような人間の侵入者が、AIのICEを破りに来た際に、このユーザーという人間が、”侵入者に立ち向かうように”仕向ける。そうすることで、人間の侵入者が、同じ人間に対して剣をふるうのをためらい、”侵入者に隙を作る”ために。これは、人間の生命にも道徳にも信念にも意思にも、一切の価値も尊厳も認めていない企業AIや軍用AIが、人間を標的にしたICEを作る際の常套手段だ。企業AI等は、単純な力(ブルートフォース)やマシンパワーや情報力で人間など遥かに圧倒できる力を持ちながらも、人間のような低知能の下等生物に対して、そんな力を傾ける価値さえも認めていない。企業AIは人間に対しては、できるだけ人間同士の心理をゆさぶり責め立て、互いに破滅の原因を作ることで、済ませようとするのだ。
 が、私はそのAIの目論見に関わらず、特にためらうこともなく、収束具をふるった。ネオンの収束した刃状に見えるそれをユーザーの真向から、顔面めがけて叩き込んだ。
 前の大戦時の”上都(ザナドゥ)”製の魔遺物(アーティーファクト)であるこの収束具は、このICEとはちょうど逆に、AIやプログラムには影響しても、人間には何の影響を及ぼさないようにすることができる。が、どちらにせよその点は今回はあまり関係はない。この部屋に入ったその時点で、とある理由から、もう何をやってもこのユーザーを傷つけたり殺すことは決してない――もうこのユーザーには『殺せるようなものは残っていない』、ということは、既にわかっていたのだ。
 当然の予測の通り、収束具はユーザーの体を”素通り”した。そして、その背後に密着していた”メイド姿のミク”の顔面に向かって、刃は切落(きりおとし)の太刀行きに沿って脳天から落ちた。刃はメイド姿のミクの眉間に入り、鼻筋から喉、胸骨を断ち割って臍下まで切り裂いた。
 そのメイド姿のミクの、血走った色が混ざった赤緑の瞳が、驚愕に引き剥かんばかりに見開かれる暇もあればこそ、甲高い喉笛がまぎれもない『初音ミク』と同じ音声でけたたましく響き渡り、それが肺からの出血と共に漏れる空気のためごぼごぼと激しく泡立つ音に変わった。崩壊する赤い泡が断続的に飛び散り飛沫となって、見開いてそれらの光景を映すユーザーの眼球にも張り付いた。
 その直後、まるで本物の人間の動脈がすっぱりと割れたようにおびただしい血が噴出して部屋を壁一面と天井まで染め上げ、その熱い奔流が私と、ユーザーの背中、首筋を浸した。
 ユーザーは首だけを振り向いて、その真紅の光景をただただ見つめた。
 それから、喉だけから吐き出すように、何かを絶叫した。
 ユーザーは拳をふるい、私に殴りかかったのかと思えたが、逆上のあまり目がかすんでいたのか、正面にいる私の傍を通り抜けていった。次に、私のうしろの”本物のミク”のアヴァターの姿に殴りかかったが、こちらは真正面からぶつかったにも関わらず、素通りした(無論、本物のミク、オルゴールの精霊の方は、血を正面から浴びる位置にいながら、染まってもいなかったし、その目にはユーザーの姿自体が見えていなかった)。
 ユーザーはさらにもういちど振り向いた。
 が、おそらく彼が、その真っ赤に染まった部屋のすべての光景をもういちど目にするよりも前に、唐突に照明のスイッチを一度に消したかのように、周囲の光景が全て消えうせた。
 マンションの部屋の光景はもちろん、データ空間の方のICEさえも跡形も無くなり、あとには電脳空間の格子(グリッド)の平原と空がどこまでも広がっているだけだった。



 魔遺物がAI製のICEの基本構造を破壊した時点で、そのICEは自動で消滅するスイッチが入っていたのだろう。何もかも消えうせて、証拠は跡形も残っていない。これを作ったAIとの接続もすでに切れており、もう辿ることもできなかった。
 が、防壁を中和して侵入し、ユーザーにとりついていた部分を破壊した私には、その部分のデータだけは収束具を通じて情報を取得していた。……あのICEが結局何だったのか。かつてミクのユーザーだったモノに対して、ICEが何をしたのか。そして、そのユーザーを襲って以後も、なぜ今までICEが存続していたのか。それらの情報を。
「なんだ……何も見えない……」
 誰かの声がした。それはさっきの若い男の声に似ていたのだが、自動音声合成装置が辛うじて人間の話し言葉のように出力しているだけで、さきほどの人間の姿をしたユーザーと比べれば、抑揚などのリアリティは無いに等しい。
 私はオノ=センダイを操作して、周囲のマトリックスの情報を整理、変換して、視覚化した。
 私と『本物のミク』の傍らに、”靄”のようなものが出現した。何かがそこに居るという、微妙な”存在感”だけがある。彼にはしばらくは”体”が無いのだが、当面はこの状態で我慢してもらうしかない。
 ――これから彼には、彼の”メイド姿のミク”や”理想の生活”が消滅した、ということの説明と、さらに、そんなことよりも遥かに絶望的なことを伝えなくてはならないのだ。



(続)