奉仕していたもの (4)


 私は無言でオノ=センダイのキーを叩いた。電脳空間内では、やはり指で魔術印を切るように見えるその仕草と共に、私の手の中に収束具のプログラムが物質化(マテリアライズ)した。マトリックス内のイメージでは2フィートと数インチほどの湾曲した長尺の、無形のネオンの薄刃の絡み合った構造物(コンストラクト)に見えた。様々な電脳戦(コアストライク)用のツールが組み込まれたそれは、ウィザード(防性ハッカー)にとっての”杖”にあたるものだ。この私の収束具は、マトリックスのデータ空間でなく一般人の目にする擬験(シムスティム)イメージ側で見ると、どことなく『刀』に似ている、という者もいるが、私と同業のウィザードや、カウボーイ(攻性ハッカー)らはそちらの側からの姿を滅多に見ることはないし、意識することもない。
 その収束具の切っ先を、城壁の方向になぞるようにかざしていった。収束具が高速で解析したAI製のブラックICEの構造を、VLグラスの象徴図像学(アイコニクス)の映像に変換する。
 防壁の構造が途切れた”入口”に見える場所、おそらく、そのユーザーが入っていったときに使用された場所がある。しかし、この入口に待ち受けているものが見当たらないとしても、高位AIの作ったブラックICEに正面から入り込むのは、ただそれだけの理由でも自殺行為だ。
「入口は避けよう。別に侵入口を見つけて入る」
「『後背(うしろ)からヤれるのに正常(まえ)からヤるってのは好きじゃないんだ』って言うんでしたっけ……」
 私は眉をひそめて、ミクを振り向いた。「そんな言葉を君に教えたのは誰だ。MEIKOか」
「え……ルカです」
 今の語を、言葉の意味としても、カウボーイ(攻性ハッカー)らの用語としての意味としても理解できていないらしいミクは、何故そんなことを訊くのかとでもいうように、不思議そうに答えた。
 初音ミクの後輩にあたる《札幌》のVOCALOID巡音ルカは、電脳文化の本拠地、BAMA《スプロール》で英語ライブラリと電脳技術を習得していたことがある。おそらく、そのカウボーイらの有名な格言も、ルカは知っていたのだろう。だからといって、それを他のアイドルが知って役立つ側面は全くないし、あらゆる意味で教えるべきでもない。
 私はため息を飲み込み、ICEのパターンに目を戻す。城壁から一定距離を離れてその周囲を移動しながら、VLグラスと収束具の情報、象徴図像学(アイコニクス)から把握できる城壁の色と形状から、”最適”の箇所を探し出す。
 ベルトに結わえた筒状のスクロールケースから、何枚かの”呪符”を取り出す。これらは先ほどオノ=センダイのスロットに放り込んだ”氷破り(ICEブレーカ)”で、かつてBAMA《スプロール》に居た頃に自作した電脳戦プログラムだ。
 符を投じると、それは黒い城壁に対してある程度は弱点を狙って浮遊してから張り付く。私は手の収束具の剣尖を回し、その呪符の真下に当て、起動し、機能を大幅に増幅する。呪符は城壁を伝う枝分かれした霊気の電光を発し始める。呪符の中枢がICEブレーカの下位ルーチン、似非(グリッチ)システムが信号を発して、城壁が正常なままであるという偽りの情報を流し続ける。そこからも漏れて外に知らせようとする警告情報を、呪符から延びる電光の枝が、飲み込んで遮断する。
 私はその呪符によって機能が中和された位置のかたわら、姿だけで実態のなくなった黒い城壁を、壁抜けのように素通りする。そのすぐうしろを(彼女はICEの影響を受けないので、中和する必要がなく、私と同じルートを通る必要はないのだが)ミクが続く。
 一旦城壁の中に入った以上は、急がなくてはならない。例えば《秋葉原》の大抵の企業の作るICEのレベルならば、私が作ったあの程度のICEブレーカでもこのままICE自体無力化できもするが、AIの作ったICEの場合は、人間らには信じられないような速度で更新が繰り返されているのだ。どんな破損や異常もまもなく修復され、どんな攻撃手段も解析され、または情報収集で対処される。私のあのICEブレーカに収束具の性能を入れても、ICEの機能を中和するのが精一杯で、そう長時間続くとさえ思えない。
 ――城壁の内側は突然、邸宅の中のような狭い廊下の光景に変わっていた。もっと正確に言うと、ごく普通のマンションか何かの、数部屋を繋いでいる短い廊下に見えた。
 私にはすぐに、この光景は、”その例のユーザーの自宅”を模しているのかもしれない、という気がした。物理空間におけるユーザーの部屋に近いものを、ユーザーの脳の記憶から引き出して、ICEが構成したのだろう。それは、ユーザーに安心できる自宅にいるのと同じ気分を味あわせるためか、もしかすると、本気で今も物理空間にいるのだとユーザーを錯覚させるためかもしれない。
 ミクが私の後ろから無造作にすたすたと歩いて続くが、その瞳の焦点は、この廊下の壁などの光景とはまるで合っていない。AIは対人間に作られたICEの影響は受けず、したがって目くらましの光景もそのままでは見ることさえできないためだ。自力で検索、検知すれば容易だが、芸能だけのためのAIである『初音ミク』には、その程度の、人間のカウボーイなら最低限の電脳戦能力すらもまったく無い。
 廊下はすぐに終わり、扉が開け放たれたままのダイニングキッチンが見えた。さらにその奥の扉も開いたままで、向こうに続く部屋も垣間見えた。
 これまでの廊下もそうだが、キッチンも部屋も、人間の男の一人暮らしには滅多にないほど掃除され、整頓されていた。ただしテーブルが、奥の居室のすぐ近くまで動かされている。その上には、いかにも厳選された色合いの多種の花が丁寧に活けられた花瓶と、料理の皿が一面に載っていた。料理は暖かい湯気と香りを一面に立ち上らせ、その皿はかなりの量と、ものすごい種類だった。これを物理空間で手料理で作るのは数人がかりでも丸一日はかかるだろう。しかもそれらは、極端に豪華とか庶民離れしたものではなく、それだけ手がかかるくらいのことは誰でも想像できる程度に、手作りとわかるものだった。
 そのテーブルを挟んで向こう、開いた扉の奥の居室に、”メイド姿のミク”が横切ったのが見えた。
 一言で言えばその姿は、”初音ミク”の服装が違うもので、公式映像と同様のいわゆる”あにめ絵”の低解像度擬験構造物(ローレゾ・シムスティム・コンストラクト)だが、いわゆる絵柄の雰囲気も容貌のつくりもまるで似てはおらず、服装も違うためもあって、ミクの公式映像とはもはや髪の色と髪型くらいしか共通点はない。まして、今私の背後にいる『本物のミク』のアヴァターとは容姿といい雰囲気といい、共通点を探す方が難しい。ネット上には”ミク”の千差万別の姿が存在し、そのひとつに見えた。
「マスター、できましたよ」その声と共に、食器を置くような音がした。
 同じ”初音ミク”のライブラリの声色なのだが、声の出し方までアヴァターの”本物のミク”よりも生々しく、人間に近く聞こえた。極東の声優に特有のこういう声の出し方を”あにめ声”と評する人もいる。
 もっとも、このミクのライブラリの声自体は、おそらくユーザーの電脳端末(PC)を全て乗っ取った敵ICEが、使わずに挿入(インストール)し放しになっている『初音ミク』ソフトウェアにユーザーのアカウント経由でアクセスし、声を引き出しているのではないかと思えた。
「すごいよ……こんなにまでしてもらえるなんて」部屋の奥から、若い男の声がした。
「あたりまえじゃないですか」ミクのライブラリの声と共に、笑うようにその服が動くのが見え、「私はマスターだけのものです。マスターに奉仕する、そのためだけに存在するんですから」
 おそらく男の方の、嘆息するような声がした。
「マスター、どうしました?」
「いや、いいのかなって……どこまで、いつまでしてもらえるのかな」
「そんなの、何も心配しなくていいのに……二人で暮らすのに必要な物は、全部持ってきてあげてるじゃないですか」
 ミク声が笑うような声が響き、
「……それとも、不満ですか? もっと欲しいこととか、したいこととかあるんですか?」それは驚いたような声に変わり、「私、マスターをもっと満足させてあげたいな……」
 これとよく似たやりとりを見たことがある。意識不明の人間の治療の途中、あるいはもう体がきかなくなった人々のために、疑験(シムスティム)の仮想現実情報を脳に送り込んで、楽園、娯楽生活を味あわせておくことがある。だが、この”メイド姿のミク”の仕草や声の生々しさは、それら出来合い疑験ソフトが提供する、朗らかで浅い楽園図とは比にならない。ICEの機能が、このユーザーの脳を探って、その願望を詳細に分析した上で、この部屋の彼にとって理想の世界を作り出していることは間違いない。
 私は行動を起こす前に、最後に自分の背後の方のミクにも確認しようとして振り向いたが、ミクは私のうしろについてきているだけで、よく考えてみるとこれらの光景も音声も何ひとつ、見えても聞こえてもいないことを思い出した。
 私はため息をついた。
 それから、無造作に収束具をふるった。光景にあわせる必要もなければ、丁寧にやっている時間(コマンドフェイズ)上の余裕もないからだ。踏み込むのに邪魔なテーブルと、その上のものを薙ぎ払った。花の活けられた花瓶と、テーブル狭しと並べられた手の込んだ温かい料理は、ネオンの集積した収束具がぶつかると地震の直撃を受けたように弾けとび、キッチンじゅうあたり一面に四散した。
 そのいかにも凄惨な音に”メイド姿のミク”かユーザーが振り向くより前に、私は部屋に踏み込んだ。
「なんなんですか、あなたたちは!」”メイド姿のミク”が私達を振り仰いで、甲高い悲鳴を上げた。



(続)