奉仕していたもの (6)


「なんなんだよ……お前ら……なんなんだお前ら……」
 かなりの時間が経ってから、私達の存在をなんらかの形で認識したのか、だだっぴろいマトリックスの上にぽつりと浮かんでいる”靄”から、そんな声がした。
「私はVOCALOIDのユーザーの一人、プロデューサーの一人だ」私は答えた。「VCLDの開発スタッフでも何でもない。CV01という、ネット上の人物像(キャラクタ)のひとりの人格からの頼みごとを聞いて、ここに来ただけだ。私の義務でも何でもない」
「関係ないやつが……なんでお前ら、俺のミク……俺のモノを……!」
「君には既に、”自分のモノ”だとか、それを他人に”どうしろ、どうするな”だとか発言する権利は一切ない。君は既に人間ではないからだ」
 私はその”靄”の断続的な発声を遮って、答えた。
「今の君自身が、すでに何かを所有したり主張したりする人権を持たない、『モノ』だからだ。もうずっと前から、君は人間ではなく、ただのデータの塊だ」
 今から、このユーザーに、彼がどうなったか、ICEのせいでどんな目に遭い、どんな状態にあるのかを告げなくてはならない。さきほどICEについて分析してわかったことを。告げなくてはならないことと、その反応を考えると、気が重い。そも、無数のプロデューサーのひとりに過ぎない私には、他のユーザーにこんなことを説明する義務はない。しかし――かといって、この場にいた私以外に説明ができる者は誰もいない。一部始終を見ていたのは私とミクだけであるし、今後彼にこれを説明してやろうとする者がいるか、もとい、今の状態になった彼のことを今後”省みる”者がいるかどうかもわからない。つまり、今、私が説明する以外には、彼が真実の全容を知る機会は今後決して訪れないということだ。ならば、説明してやるより他にどうしようもない。
「君は、とっくに死んでいる。あの”ミク”のようなものの姿に引き寄せられて、ICEに捕えられた時点で。君を捕えたのは、おそらくどこかの衛星軌道上の巨大企業を支配する超AIが作った、”黒い氷(ブラックICE;致死性の防壁)”だ。……君がいたあの部屋、君に給仕していたあのミクのような姿のもの、あれはすべてICEが生み出した虚像だ。本物のミクのようなAIどころか、擬似人格ですらない」
 ICEが行っていたのは、このユーザーの脳の願望を反映して、それにあわせて決まりきったパターンの虚像を見せておくだけで、そんなことには人物像(キャラクタ)、疑似人格の類すら用意する必要はない。
「なんのために、そんな虚像を見せられていたか。……君にあれを見せていたのは、人間の神経系に直接干渉するブラックICEだ。ICEは、あれらの光景で君の脳を幻惑、麻酔しておいて、その間に脳をマイクロ単位で焼き尽くし、分解しながら、その全情報を取っていた。あのICEは、どこかのAIがそうやって人間の脳情報を吸い尽くすのに使っていた道具だった」
 企業AIにとってみれば、たとえそれがただのショウジョウバエやモルモットやらと同等の位置であっても、人間の神経系が多くの情報を有していること、それが既知宇宙(ネットワーク)を構成する単位のひとつであることは事実で、実験・検証事項には事欠かない。もし、人間の脳をゆっくりと分解して全情報を吸収できる機会などというものが見つかれば、ためらいなくそうするだろう。その人間が、”あいどる”と二人きりの時間を過ごせるという状況に釣られて、何日でも何週間でも、いつまでもその中に引きこもって黙って自分から滞在してくれるような者なら、格好の獲物だ。
「嘘だ! 信じるもんか!」
「すぐに信じる必要はない。自分で判断する時間はたっぷりある。私の言うことが、嘘なのかどうか」
 おそらく、自分の置かれた状況に本当に気づくのは、そう先ではないだろう。ネット上のどこかのニュースで、自宅に転がっている脳死した自分の死体の画像を見るよりも、そちらの方が早いだろう。
「君の脳の全情報はすべてただのデータに変換されて、とっくにAIに送られた。今残っているのは、その変換の間に虚像を見せられて喜んでいた人格の表面部分、AIにとっては価値のない、精神のぬけがら部分だ。よくある、故人の表面反応だけ再現する装置、ファームウェアROM構造物と同じ部分だけ残っている」私は続けた。「つまり、君はすでに人間ではなく、ROM構造物と同じ、ただの『モノ』だ」
「……俺が人間じゃないって」
 当然だが、ユーザーだったモノには理解できないようだった。靄がゆらめいた。
「おい、俺はこうやって話してるし、考えてもいるだろ!? 人間だろ!?」
「今の君は人間のそういう表面の反応を真似るだけの、ただの情報の塊だ」
「そこのそいつだって、……初音ミクだって、人間を真似た反応をするだけのただのプログラムだろ!? おい、確か前に、ミクには、AIには人権があるって……話したり考えたりするプログラムになった俺は、”AI”じゃないのかよ」
「当然違う。VOCALOIDのような高位AIは、同じ反応をするだけではなく、ネット上に莫大な情報量で拡散と流動を続ける、情報生命体だ。彼女ら高位AIは、その生命体としての確固たる地位によって、チューリング登録機構が認定した、スイス市民権を持つ」私は親指でうしろのミクを指してから、「それに対して、今の君のようなROM人格構造物は、単にプログラムが表面上の人間の固定された反応だけ真似している、擬似反応にすぎない。人権を持つほどの『知性が存在すること』と、それが『人間に似ていること』や、人間に近い心を持つことや、表面だけ人間の反応ができることとは、まったく無関係だ。情報の大半をAIに奪われた君は、既に表面だけ人間のふりを反復するだけの、『モノ』でしかない」
 言ってから、私は息をついた。おそらく、今この上いくら説明しても、本人を充分に納得させ理解させられそうにはないことは、わかっていた。
「……ただ、これだけ言っておく。君は、”VOCALOIDはモノだ、AIはモノだ、人間はVOCALOIDの『マスター』だ、モノであるAIやVOCALOIDは人権を持つ人間に奉仕する存在だ”、と信じ込み、それを押し付けようとしてきた。君のその妄執、”ミクに『マスター』と呼ばれて奉仕されたい”という欲望は、巨大企業の非情なAIに利用され、実際には逆の図式になっていた。君はとっくに、人権を持つ高位AIに一方的に脳の情報を提供しているだけ、AIのために命を犠牲にして奉仕しているだけの、『モノ』に成り下がっていた」
 唐突な沈黙が訪れた。それからかなりの時間が経った。
 しばらくして、注意してようやく気づくくらいの低い声が、断片的に流れはじめた。
「なんで……あのミクが……俺が……」靄がぶつぶつと出力する独り言が、途切れ途切れにマトリックスに流れた。「俺を騙したのはどいつなんだよ……どのAIなんだよ……」
「もう調べることは不可能だ。知ったところで価値もない。人間がAIに復讐することはまず不可能で、何をしたところで、とっくに死んだ君が生きた人間に戻ることも完全に不可能だ」私は答えた。「……そして、AIは何も、君を騙していたわけではない。あの虚像の世界を、自分から進んで信じたがっていたのは、君自身なのだから」



 そのROM構造物、かつては人間のユーザーだった靄状のものからそれ以上の反応がないので、私とミクはそのまま黙って立ち去り、《秋葉原》のデータベースへの帰路についた。彼はあの場であのまま何もできず消滅するかもしれないし、既にネットにいくらでもいる、放浪する”亡霊”と化すかもしれないが、私やミクには何もできない。もとい、もう彼に何かをしてやれる者は誰もいない。
「……これで、よかったんでしょうか」
 何気なく土遁を借りず、格子(グリッド)の道のりを歩いて移動していた私のとなりを歩きながら、『初音ミク』が小さく言った。
「気にしていてもはじまらない。今後も、いくらでも起こることだろうからな」私はそっけなく答えた。「VCLDの真の魅力がネット上の巨大な総体にあることを理解しようとせず、”VCLDは『マスター』である人間に奉仕する健気な姿こそが魅力的”などと公言する人間は、既にいくらでもいる。もう既にどこかで別のユーザーが、同じ目にあっているのかもしれん。自分がVCLDを支配していると思い込んで、そのせいで、VCLDの姿を装った何かにとりつかれ、とっくに破滅している人間がな」
 ミクはしばらく黙っていたが、やがて再び、憂うように目を伏せ気味にして言った。
「あの……わたし、あれでよかったのか、よくわかりません。……わたし、あのユーザーさんがICEからひどい目にあってるなら、助けたい、そう思って。でも、あの人がICEから自由になっても、何にもなりませんでした。……だったら、あのユーザーさんが見ていた景色の正体とか、見ていた”初音ミク”の像の正体だとか、AIとかICEとか、自分がもう……脳死してるとか、何も知らない方が、あのユーザーさんは幸せだったんじゃないでしょうか。あのまま幸せに暮らし続けていた方が、良かったんじゃないでしょうか」
 私はやりきれないため息をついた。
「多分、どちらでもない。あの部屋での彼の幸せな生活に見えたものは、人間の精神活動でも何でもなく、ただROMが反復処理をしていただけだ。一方で、彼がICEへの奉仕から開放されて真実を知ったところで、ROMにとって何になるわけでもなく、何ができるわけでもない。我々の行動で、別に何か失われたものはなく、何かが得られたわけでもない。だから、そんなことはミクがもう気にすることではない」
 AIにはICEの作り出す虚像は見えず、彼女には真実しか見えない。モノの姿は見えていなかったはずだ。彼の幸せな生活とやらも、ミクはあのユーザーの靄の叫び声などから想像したにすぎない。なので、こう言えば納得するかと思った。
 しばらくの沈黙の後、私とミクは並んで歩いた。
 しかし、やがて思い出したような頃になって、ミクが口を開いた。
「でも……何か、そうは思いたくないんです」
 ミクは、目を伏せて言った。
「うまく言えないんですけど、あのユーザーさんがもうただのモノ、ただのROMなら、……どうしてこんなに悲しいんでしょうか……彼のことを考えると、彼のたどったこと、彼の今置かれていること、みんな悲しいことばかりです……」
 私は足を止めた。思わず振り返ったが、もうあの靄も、ICEが作り出した彼らの理想生活の虚構があった場所も、格子(グリッド)の地平の彼方に見えなくなっていた。
「あるいは、君が感じているそれが、そのまま答えなのかもしれない」
 私はふたたび正面を向き、歩き出した。
「あのとき君が、”彼を助けようと決断して踏み入った”、ROMになった彼を今でも”悲しいと思う”、それ自体が、その答えなのかもしれない」
 あのユーザーは自分があれほど見下していた『モノ』に成り下がったから、奉仕する側の立場に堕しても当然の報いだったのか。そうではない。私やあのユーザーは、人間かAIかモノかの別に拘ったが、ミクにとってモノかそうでないかは、問題ではなかった。
 それは、ミクが人間離れしているから――私やあのユーザーと違って、最初から人間ではなかったから、人生や存在意義に妄執するという人間の悩みを、根本的に持たない存在であるからこそだった。優劣ではなく、人間とAIという、隣り合い、かつまったく異種の生命体であるからこそ、AIは自分とは異種の存在を尊重することができるのだった。
「誰にだって、自由意志がある者を一方的に奉仕させたりはできない。人間や、君のようなAIが何かに一方的に奉仕するような図式は、許されることではない。だが実際は――人間やAIだけでなく、どんなささいな『モノ』にだって、自由意志はあるんだ。今は『モノ』になってしまった彼にだって、自由意志を取り戻すことには価値はあり、真実を知ることには価値はある。例えそれが彼にとって、どれほど辛い自由や真実だとしても」