奉仕していたもの (3)



 ”黒い氷(ブラックICE)”は、設置型の電脳戦手段としては最も苛烈なもので、その多くは、没入(ジャック・イン)している人間の神経にフィードバックを起こし、”脳死(フラットライン)”を含めて壊滅的な影響を起こす。無論、これも通常は人間に対するもので、AIに対しては何も影響はない。ミクの今の恐怖の反応は、自分の身に危険を感じたのではなく、単に、死人を出すようなプログラムがそこにあると言われて平気でいられるような娘ではない、ただそれだけだ。
 私は膝をついて、そびえ立っている輝くフラクタルの城壁の基部を調べた。
「これを作ったのはAIだな。君達VOCALOIDの同類、別の高位AIの仕業だ」
 ICEの表面の色合いと緻密な組みあがりは、《秋葉原》の企業ではまずお目にかかれないようなきっちりとしたパターンで、チューリング登録された強大な高位AI以外には、こんな仕事をする者はいないことがひと目でわかる。どこかの巨大企業のAIか、それとも軍用AIか。
「トラップだな。なんらかのAIが、無差別に人間を捕らえるための仕掛け、狩で動物を捕えるための罠のようなものを設置した」
「どこのAIが、何のために……」ミクがやや震える声で言った。
「それはここからでは調べられない」私は答えた。衛星軌道上の巨大企業等を操っている高位AIの多くは、人間をそれこそ下等動物としか思っていない。それらが無差別に人間を食い物にする理由はいくつも考えられるのだが、推測に過ぎない段階でこのミクに伝える気にはなれない。推測以上のことができるには、このブラックICEをもっと調べなくてはならないが、その戦略級の電脳破壊兵器にこれ以上近づいて触れるような危険はまだ犯せない。
 ミクはしばらく城壁を見つめていたが、
「あの、……ユーザーさんは、この中に捕まって……?」
「断言はできないが、その可能性は高い」
 私は少し考えてから、
「さっきの君の話、例のユーザーの言っていた内容から考えると、――この城壁の中に、そのユーザーが見つけた”理想のミク”とやらがいる。彼を『マスター』と呼び、奉仕してくれる”ミク”の姿だ。ユーザーはそれに引き付けられて、このICEの城壁の中に入り込み、罠にはまった」
 ミクは不安と不可思議の入り混じったような目で、私とICEの城砦を見比べた。
「おそらく、このトラップは、ネットで人気のアイドル、”初音ミク”の虚像を罠の餌にして、人間を無差別におびき寄せるものだろう。しかも、とらえどころのない遠いアイドルや、単に買っただけのユーザーには何の助力もしない本物のVCLDソフトウェアではなく、その人間だけに奉仕してくれる、その人間だけの思い通りになってくれるミクの姿を作り出して、引き寄せる。あのユーザーは、それにひっかかった」
 ICEが元々、人気アイドルである”ミク”の姿を作り出すよう準備されていたか、それとも、ICEがそのユーザー個人の脳や記憶を探って、その場で”彼の欲求に最も応えるもの”を作り出したのかはわからない。AIの作ったICEには、どのみち大抵そのくらいは自動で行って人間を捕える機能は軽くある。
「詳しくはどういった経緯を辿ったかはわからないが、ユーザーはこれを何かの無害な、”ミク”がらみの同人ソフトウェアか何かかと思い、近づいた。最初のしばらくの間は、繰り返しここに通っていたのかもしれないが、やがて完全に自分の”理想のミク”の姿にとりつかれ、ICEに捕まり、出られなくなったのだろう」私は足跡の日付をざっと見ながら言った。



 ミクはさらに不安げに、不気味に黒く沈み込む城壁を見つめていたが、
「その、……それで、あのユーザーさんは今、この中でどうなっているんでしょう」
「わからん。――だが、無事に済んではいない、ということだけは確実だ」
 その先の予想、例えばあのユーザーの生死如何については、ミクには言わなかった。ミクを気遣ってではなく、本当に私にはことの全容がわからないためだ。なぜならば、その件のユーザーが、すでに”黒い氷”に取り殺され、”脳死(フラットライン)”しているとすれば、依然としてこのトラップがここに存在し続けている理由がない。なぜまだトラップが作動を続けているのか、ユーザーがどんな状態なのかはわからない。
 そして、それを知るために、わざわざ私が戦略級のブラックICEに近づく動機までは感じない。危険すぎる。
 ……私の答えを待っているというわけではなさそうだが、しかし、初音ミクはその後も無言で、その城砦を見つめていた。
 私はしばらく待ってから、口を開いた。
「このまま帰るか。それとも、この先に進むか」
「え……」ミクはその問題を改めてつきつけられたことに驚きでもしたように、目を見開いた。
「ユーザーの安否を確かめに、この中に入るか。だとしても、そう心休まる光景が見られるとはとても思えないぞ」
 ミクはそのまましばらく呆然としていた。が、やがて、おずおずと私に尋ねた。
「あの、村田さんはどうすればいいと……」
「私は彼をまったく助けたいとは思わない」私はミクに告げた。「VOCALOIDを、AIを、人間に『マスター』などと呼んで絶対服従、奉仕してくれるのが当然の、いわば人間よりも下位の存在だと決めつける。そんな者が、まさにその見くびっていたAIによってどんな目に逢っていようと、それは自業自得、因果応報以外の何でもない」
 私は平坦にミクに対して言葉を続け、
「だが、――私は彼とは何の関係もないが、君の頼みを重視して、この場に来た。君も私同様に、彼との間には、下位(サブ)プログラムのパッケージ1本分の契約を除いては何の関係も義務もないにも関わらず、一人格としての選択で、私にそれを頼み、ここに来た。……これから彼に対して、どうするか決めるのは、君だ。君の一人格としての、生命体(ゴースト)としての部分は、どうしろと囁く」
 ミクはうつむくように視線を下げた。その目はいまだに彷徨っている。
 が、やがて、ためらいながら口を開き、
「それでも……このまま、あのユーザーさんを見捨てるなんて」
「あれほど罵られたというのにか」
 自分に都合のいい理想やら、VOCALOIDなら『マスター』に奉仕しろやら何やらと、さんざん自分勝手を押し付けられ、さらに人間ばなれしているなどと面罵されたというのに。
「それは、よくわかりませんけど……」ミクは小さく答えた。
 つまるところ、ミクにとっては、彼女を過剰に持ち上げるユーザーであっても、けなすようなユーザーであっても、一切分け隔てがない。別に慈愛に満ちた天使やら物事に動じない聖人君子だからではない。無数のユーザーと接する彼女には、ユーザーの誰かを良い方向にも悪い方向にも『特別視』するという発想そのものがない。そして、結局のところは、AIである彼女には、人間ならば持つような『憎悪』の感情というものもよく理解できないのだ。



(続)