奉仕していたもの (2)


 モニタ内の初音ミクは、そのユーザーの行方を案じている。といっても、そのユーザーの”VOCALOIDは『マスター』である人間に奉仕しろ”などという(彼女にとっては意味不明な)要求を拒否したことを、ミクが別に後悔しているわけではない。彼女ら高位AIの精神構造には、他者に対する支配欲や征服欲とかいうもの(まして、人間などという下等な有機体に対するもの)が、根本的に存在しない。まして、人間に対処することは慮外に作られているAIである初音ミクには、そうした人間が抱く、何かあるいは誰かを『奉仕させたい』『服従させたい』『”マスター”と呼ばせたい』とかいう欲望自体が、一切理解できない。――彼女は単に、行方がわからなくなった、彼女には理解できない行動に及んだユーザーに対して、純粋にその身を案じているだけなのだ。
「話はわかったが、何故、私にそれを持ち掛けてきたんだ。《札幌》のスタッフに相談せずに」
「その……㍗さんが今、なかなか繋がらなくて」ミクはおずおずと言った。
 私は、あの《札幌》のディレクターのテンションの高さを思い出し、もしミクが最初に彼に相談していれば、問題なく解決はしたかもしれないが、《札幌》じゅうを巻き込んだちょっとした騒ぎになっていたかもしれないと、ふと思った。
「……すぐにそっちに没入(ジャック・イン)する」私は少し考えてから、ミクにそう言った。「その後に、そのユーザーの所まで案内してくれ」
 日立(ヒタチ)の中の不安げなミクが頷き、ややあって、映話が切れた。
 ――私が関与する話ではないかもしれない。私は無数のプロデューサーのうちのひとりに過ぎない。ミクの話を聞く義理までは感じていても、他のユーザーに干渉したり、そのトラブルを解決したりするほどのお節介を焼く権利も義務もない。
 早い話が、おそらくそのユーザーは、勝手に何か厄介な違法プログラムに手を出して勝手に巻き込まれたのだろうが、その者自身がどんな目に遭おうが、本人の責任の範疇で、(本家の)VOCALOIDにも、無論私達にも何の関係もない。そんなものは放っておけとミクに言ってもいいところだ。
 だが、そう言ったところで、ミクは悩み続けるだろう。その後、他のユーザーやスタッフに話したり、相談したりすると、話が大きくなったり騒ぎになるかもしれない。酷いトラブルの臭いがするだけに、そうなった場合のさらなる厄介も予想できる。結局のところ、このまま私が行ってみた方が話が早そうだ。



「切(オフ)」ホサカのボイスコマンダに命じて、日立のモニタを切る。
 そのホサカの隣から、自宅では滅多に開けない仕事用のハードケースを引き出し、オノ=センダイ社製の電脳空間(サイバースペース)デッキと、ティアラ状の電極(トロード)を取り出す。BAMA《スプロール》の操作卓(コンソール)ウィザードだった頃に使っていたもの、とうに年代落ちのオノ=センダイ・サイバースペース7だが、今の生活では《秋葉原(アキバ・シティ)》で新品を物色したり、さらに新しい機器、別の電極(トロード)の感触に慣れるような余裕もないので、そのまま使い続けている。
 ホサカとオノ=センダイの挿入口(ジャック)を接続すると、適当な装甲ソフトウェアと”氷破り(ICEブレーカ)”のディスクやROMユニットをいくつか選んで、オノ=センダイのスロットに順に放り込んでいく。オノ=センダイにワイヤレスで繋がるティアラ状の電極(トロード)を額に落ち着ける。
 没入(ジャック・イン)する。
 電脳空間(サイバースペース)の風景(スケープ)が電極(トロード)を介して神経に入力される際の独特のイメージ、すなわち輝く金箔銀箔の薄片が畳まれた折紙(オリガミ)が広がるように、周囲のマトリックス光からの反射角度をめまぐるしく変えながら目の前にかかり、物理空間の部屋の光景から入れ替わってゆく。ネオンの幕と化したそれは一気にあふれ広がって没入する者の周囲の視界を覆い尽くす。
 今や、ログインエリアである《秋葉原(アキバ・シティ)》のデータベースの連なるICE(Intrusion Countermeasures Electronics;侵入対抗電子機器;電脳防壁)の城砦と、そこから輝き出すトラフィックの金線の束が、五感を圧する質量で周囲にそびえている。主要な都市のデータベースを示す電脳空間の側の光景は、意図してかしないでか、物理空間の方のその都市の町並みを、極端に戯画化したものであったり、思い出させたりすることがある。この光景も《秋葉原》の、それも現在の盛況なサブカルチャー都市の美麗な看板が立ち並ぶものではなく、旧時代1980年代の頃の電子街を模したもので、この街とそこに集う情報の依然として猥雑な側面を戯画化していた。
 ……その街路、すでに私の隣には、『初音ミク』の電脳空間内での姿があった。姿も声もそうだが、よくメディアに登場する際の、公式映像の立ち絵を模した”あにめ系”の、すなわち低解像度擬験構造物(ローレゾ・シムスティム・コンストラクト)ではない。今のミクの概形(サーフィス)は非現実的、架空的な電子像ながらも、いかにも虚像然としたものではなく、人間のそれと同等以上の実在感・立体感のあるもので、そばに居るだけ、声を聞くだけでその質量が感じられる。
 今ここにいるミクは、私のホサカにも挿入(インストール)されているCV01の下位(サブ)プログラム、すなわちアスペクト(側面;相)とは別物だ。いわば、《札幌》のCV01のAI本体から直接にコントロールされている、よりAIの本質に近い、アヴァター(化身)だった。パッケージのソフトウェアの方ではなく、いわば、それが集合してネット上に形成されている、”ミクの総体そのもの”が擬人化された存在だ。歳の頃も公式映像や大概のアスペクトの姿よりもひとつふたつ上で、肩までの、量の多い、やや癖の強いシングルアップの髪に、艶の無い黒のビロードを基調とした分厚い服で肌をかなり覆った姿だった。(下位プログラムのアスペクトではなく、アヴァターの方に触れる機会があったユーザーの中には、公式映像とは異なるこの方の姿を、”オルゴールの精霊”と呼ぶ者もいる。
 私を見つめる、そのミクのやや大人びた目が、不安を宿しているのは、問題の解決の期待以上に、私が来たことでこれからその問題に直面を余儀なくされる、その不安かと思われた。これも、今までミクから相談を受けていて、よくあったことだ。どちらかというと、事件に直面したときに、前向きに考えるのではなく、かえって不安を募らせていくような娘だった。私はその目に対しては無言でそのミクを促し、目的のアドレスまで移動を開始した。
 ――私とミクは、今も電脳空間に没入したままという、そのユーザーのいる場所まで移動していった。私はミクの指定したアドレスに従ってデッキを、オノ=センダイのキーを叩く。その物理空間での私の動きが、電脳空間側では指だけ宙を動かしているように見えるので、それこそ魔法使(ウィザード)が魔術の印でも切っているように見えるかもしれない。
 移動短縮化プログラムである”土遁”、渦巻く断片化メモリの散る光が砂埃の旋風に見えるものに乗り、マトリックスの格子(グリッド)の近くを滑走して移動する。一方、初音ミクのアヴァターの姿は、私の土遁のすぐ隣を、単に空中を飛んで移動する。AIのアヴァターはその処理能力上、通常の移動速度自体が、人間の使う”五遁の術”の移動システム以上のスピードがあり、上下方向の移動も自在だ。
 目的地のアドレスがわかっていても、データがひしめく中では配列も移動する者も複雑度に応じて自動的に整理される電脳空間(サイバースペース)のスケール原理と交通原理においては、それ以上の高速で移動することはできない。光速移動、あるいは瞬間移動には、五遁よりも遥かに高度な、仙雲や光遁の術、霊獣に乗るなどの移動手段が必要だ。
 ……私とミクは、例のユーザーのログインしたエリアにたどり着き、ついで、その後の足跡を辿った。通常のネットワーク利用者が通常に利用した、すなわち特に足跡も消しておらず、移動用の術も使わない”足跡”は、(これも特に隠匿されていないキャッシュやログから)簡単に辿ることができる。
 やがて、それらの移動の痕跡、足跡が途切れたエリアに、私とミクは降り立った。
 私は周囲のだだ広い格子(グリッド)空間を見回した。電脳空間内で私が装備している、眼鏡状のディスプレイウェア、VL(ヴァーチャル・ライト)グラスが、周囲の空間とデータの情報を解析し、自動的に視覚化していった。
「その……あのユーザーさんは、どうなっていますか……どういう状態ですか……」ミクが尋ねた。
「この辺りで見つかるだろう」私は答えた。
 操作卓カウボーイ(攻性ハッカー)でもAIでもない一般人に、移動しながら足跡を急に消すことが可能とは考えられないので、そのユーザーはこの周辺のエリアに今も留まっている可能性が高い。あるいは、痕跡が消えるような出来事が何か起こったにせよ、その手がかりはこの周辺に残っていると見てよかった。
 VLグラスが分析を続け、ついで私の目に示したその周辺のエリアの情報は、ここの通常の光景からは想像もつかないようなものだった。そのエリアには、ここを通りかかる一般の人間には見えないように偽装された、巨大なデータ構造物が設置されていた。電脳空間(サイバースペース)の象徴図像学(アイコニクス)に従って変換し表示したその構造体は、緻密かつ堅牢な、フラクタル樹がねじれ編みこまれた城壁と逆棘を持つ城砦となり、そびえ立っていた。城壁は、通常の企業等のデータベースの外観とは明らかに異質の、冷たく光沢のまったく無い漆黒のパターンを放っている。
「何なんですか、これ……」
 見上げるミクのアヴァターのエメラルド色の目は、すでにそのデータ構造物の黒い城壁のパターンに焦点が合っている。一般人には見えないものがミクにも見えているのだが、私のように解析したわけではない。人間用の目くらましの偽装の影響など受けないAIには、自然に真実の姿しか目に入らないのだ。
「”黒い氷(ブラックICE)”だな」私はその解析結果を見て、つぶやいた。
 ミクは身をすくませて、後じさったようだった。



(続)