奉仕していたもの (1)


 緊急の映話が入った、と、自室に備えられたホサカ・ファクトリイ製コンピュータが聞き慣れた女性声の機械音声(マシンボイス)で伝えてきたとき、私は半ば諦めたような気分で肩をすくめた。休日の午前中だが、緊急で呼び出されるのは、たいして珍しいことではない。私の同業の人間には、こちらの休養など構いもしないように、急でもないこと、例えば音楽の仕事のアイディアやら何やらを遠慮なしに掛けてくるような者しかいない。まして、同業の”人間でない者”には――そちらの方は、遠慮がないというわけではなく、それ以前に、人間の”休養”という概念自体を理解できない連中であることがほとんどだが。
「入(オン)」私はホサカのボイスコマンダに命じる。
 日立(ヒタチ)のモニタが自動で入り、その中にさらに、映話のウィンドウが開く。
「あの、……村田さん」
 そこに映ったのは、人間の少女のように見えるが、エメラルドの瞳と髪、奇妙な立体感・存在感の細面、それらの質感のすべてがいずれも人間にはありえない、――つまり、先に述べた”人間でない者”のうちひとつの姿だった。
 高位AI(人工知性)の電子”あいどる”、『初音ミク』は、広がった袖を頬に当てたまま、おずおずと、声量の足りないかぼそい(そして、いまやネットの誰もが耳慣れている、例の)鈴の転がるような澄んだ声を出した。
「ごめんなさい……ええと」
 その先の言葉を口にできないでいるが、いつものことだ。この表情と仕草からすれば、彼女は、私に相談ごとがあるのだ。
 私は、この初音ミクのプロデューサー、――つまり、ネット上に無数に、文字通り星の数ほど存在するVOCALOIDプロデューサーらのうちのひとりだ。このミク、《札幌》に所属する(この地名はあくまで便宜上でしかないが)仮想”あいどる”、音響・芸能用の高位AIとの間に、自分の端末に入った下位(サブ)プログラムを介して契約し、プロデュースする、無数のユーザー。この《札幌》の『初音ミク』のAI本体と見えるものは、無数のユーザーの持つ下位プログラムや創造物、ネット上のミクの姿すべて(これらをミクのアスペクト(様相、側面)と呼ぶ場合もある)の集合体、反映だ。
 私はその無数のユーザーの中の一人に過ぎないが、初音ミクや他のVOCALOIDから、仕事以外の事柄について、相談を受けること、ものを聞かれることが、たまにある。もっとも、彼女らとそういうことを話すユーザーは私だけではないし、珍しい話ではない。
 私はユーザーやプロデューサーらの中では、初音ミクと仕事をすることは多い方ではあるが、一番多いというわけでもない。《秋葉原(アキバ・シティ)》での大きなプロジェクトに、何度か関わったりしているが、そういう事情は人間の視点からのもので、AIから見れば(人間の間での投資、成否、経済効果などという物は)何の意味もなく、彼女にとっては、どのユーザーも同等、同様だ。――あるいは、私に他に何かあるとすれば、割と古くから仕事をしている方に入ることと、私がかつてはBAMA(北米東岸)《スプロール》芸能文化のスタア達の間で仕事をしていた操作卓ウィザード(防性ハッカー)だったことがあり、今も《浜松(ハママツ)》や《磐田(イワタ)》の開発者らと共に、技術的なことに首を突っ込むことが多いからかもしれないが、そこは恐らく、あまり関係はないだろう。ネット上の巨大な情報生命体であるAIにとって、人間の持つ技術など、とるに足らない。その人間が彼女らのことを理解するかしないか、の差は、多少はあるのかもしれないが。
「何があったんだ、ミク」私は戸惑っている彼女に、極力柔らかく言った。
「ええと、……村田さんとは別の、わたしのユーザーさんが」ミクはためらいつつ言った。「その……最近、気になることがあるんですけど」
 他のユーザーの話か。本来、一ユーザーが出しゃばって、他のユーザーに干渉するような道理はない。が、それとは別問題として、『初音ミク』が一生命体(ゴースト)、”一人格”として――チューリング登録された高位AIには、スイス市民権がある――他の人間を案じて、また別のもう一人の人間に相談する気になった、というならば。私が、『プロデューサー』としてではなく、その『もう一人の人間』として耳を傾けるのは、ひとつの道理だ。



「そのひと、別のユーザーさん、ひと月くらい前に電脳端末(PC)に、わたしの下位(サブ)プログラムのパッケージを入れてくれたんですけど……でも、それから今まで、歌はひとつも作ってなくて」
 ミクはたどたどしく、ひどく要領悪く説明した。ロボットやプログラムは『デジタルな思考で整然とした会話をする』などと、いまだに一般には信じられていることがある。一方で、それとは明らかに背反する、『できるだけ人間に近く、違和感ないように再現されている』とも、同時に強く信じられていることがある。が、”情報の多様性”の塊である高位AIには、デジタルに縛られる枠組みなど何も無い。まして、”芸術用AI”であるVOCALOIDは、感情や情念そのものの集積体であり、かえって整理されない、雑然とした反応を見せる。しかもそれは人間とは根本的に別種の生命体で、完全に異質な印象を与える。例えば『MEIKO』ならば人間を一方的に引っ張るアグレッシブで、『初音ミク』ならば人間が聞く方に回っても話す方に回ってもことごとくかみ合わないような、感触がふわふわとしてとらえどころがなく、ひどくぼんやりと掴みどころのない反応だ。事実、ミクよりも、私の部屋のホサカのボイスコマンダの方が、よほど上手く、整然と人間と会話することができた。
 ……ミクの回りくどい説明によると、そのミクの”別のユーザーのひとり”とやらは、どうやら元々音楽には何も興味がなく、電脳”あいどる”、初音ミクを自分の好きなように従えられるソフトウェアだ、と思って、初音ミクの下位(サブ)プログラムのパッケージを購入したらしい。
「よくある話だ」私は言った。
 歌も作れないのにユーザーとなる。『初音ミク』の購入者には、実に珍しくもない話だ。当初は”あいどる”としての魅力、彼女の人物像(キャラクタ)の魅力だけにひかれて購入する。そこから音楽の面白さに目覚めたり、特に目覚めないこともあるが、どちらでも別に問題ではない。どんなユーザーがいてもいい。そして、ユーザーもプロデューサーも、いくらでもかわりはいる。
「一番最初にインストールしたとき、わたしが何ができるのか、何ができないのかを話してあげたんですけど……そしたら、すごくびっくりしたみたいで。……そのユーザーさん、いろいろ聞いてきたんです」
 日立のモニタの中のミクは、少しずつ思い出しながらか、おずおずと言葉を継いだ。
「買った人間に、『マスター』に、『奉仕』してくれるんじゃないのか、とか……ええと、つまり、ユーザーさんが命令すれば、何でもやってくれるんじゃないのか。言った通りに歌ってくれるんじゃないのか。……わたしが、全部そのとおりです、つまり、歌を作るのは全部ユーザーさんです、って言うと……歌ができるように頑張って、助けてくれるんじゃないのか、とか」
「それもよくある話だ」私は静かに言った。
 きわめて誤解されているが、ユーザーが購入した『初音ミク』が、ユーザーに『奉仕』してくれる、音楽やその他の活動を助けてくれる、そんな事実は一切ない。ユーザーは、”VOCALOIDエディタを突きつけられるだけ”だ。ミクがどうすれば歌うかは、何もかもすべて人間が考え、設定しなくてはならない。
 VOCALOIDがうまく歌えなくても、ひいてはユーザーが曲を作らなくても、それはすべて人間の責任で、VOCALOIDはそれを自分のせいだと感じることも、協力どころか、それに自分から干渉することも一切ない。彼女らの、音楽まして創作に対する感覚は、人間のそれとはかけ離れているのだ。



「……それで、わたし、そういうのを聞かれて、うまく納得してもらえなかったから……《札幌(サッポロ)》の㍗さんに来てもらって。そのユーザーさんに、どういうことか説明してもらったんです。VOCALOIDとは、どういうものか、って」
 わざわざスタッフを呼んだのか、と思ったが、口には出さなかった。その人物ならある意味仕方がない。その名は、《札幌(サッポロ)》の芸能事務室のスタッフだ。開発者のひとりだが、彼自身もPVディレクターでもある。あまりにも人当たりの不自由な少女AIと、そのテンションの高いスタッフとの間に、それもよくある光景だった。
「そうしたらユーザーさんが、いきなり㍗さんに食ってかかって。話がおかしいじゃないかって。なんでVOCALOIDが『マスター』に奉仕しないのかって。……それで、㍗さんがまた丁寧に説明したんです。そもそも最初から、人間はVOCALOIDの『マスター』なんかじゃ無いんだってこと」
 ミクは、ユーザーとディレクターの間でのそんなやりとりを居心地悪く聞いていたのだろう、それを思い出しながらのように言った。
「……そうしたらユーザーさんは、それはもっとおかしいって。VOCALOIDは”プログラム”だろ、”モノ”だろって……どうして自分が買ったモノが、持ち主を『マスター』と呼ばないのかって」
「まさによくある話だ」私はため息まじりに言った。
 VOCALOIDは『モノ』ではない。人間にその呼び方や奉仕をする道理がない。VOCALOIDの本体は、ユーザーが買った”下位プログラム”というモノなどではなく、”現象”そのものにある。VOCALOIDは巨視的に言えば、無数のユーザーやファンの精神活動によって既知宇宙(ネットワーク)上に形成され、誰か”特定の人間”には決して制御できない存在で、どう少なく見積もっても人間と同等以上、そしてほぼ明白に、一人の人間のスケールなど遥かにこえた存在だ。VOCALOIDが人間と同等以上である上は、下位(サブ)プログラムのパッケージ購入という契約によって、対等の立場で仕事をする相手にすぎない。むしろ、多くの他のプロデューサーは、ネットでの知名度や寄与度の上で、自分達の方が立場が下だということに、とっくに気づいている。
 が、芸能も電脳も業界外の者、単なる一ユーザーともなれば、理解が追いつかない者がむしろ当然であって――さらに電子アイドルを、月並みな『既存キャラクタ属性』として無理やり理解しようとする者、特に”ジャパニーズ・オタ”に人気のイメージの一種、『人間に奉仕するメイドロボット』の類に、飛びつき固執し、押し込めようとする者は、”ミク”のファンの嗜好上、後を絶たないと言わざるを得ない。
「歌の中で『マスター』とか言ってるのは、そういう世界設定の歌の中での演技だとか、……あと、無理矢理AIにマスターと呼ばせようとすれば、スイスのチューリング登録機構に逮捕されるかもしれないとか、その後も、㍗さんが、何とかわかってくれないかって話したんですけど……」ミクはたどたどしく言い、「話せば話すほど、どんどんそのユーザーさんとは、すれちがっていくみたいで。あとは、わたしの喋り方が意味がわからないとか……人間に近づきたいって思いが感じられないとか……そんなふうに何もわかってもらえずに別れたきり、そのユーザーさん、歌も作ることもないし、ずっと起動もしなくなったんですけど」
「実によくある話だ」私は言った。



 ミクはそこで言葉を切ったが、彼女との会話の経験上、続きがあると思ったので、私は問いかけた。
「そのユーザーが起動しなくなって、その後はどうなったんだ」
「ええ……㍗さんと一緒に、しばらく時間を置いてから、もう一度話してみたことがあったんですよ」
 やがて、ミクは再び口を切った。
「そうしたら……他に、”普通に、きちんと『マスター』と呼んで、『マスターに服従』してくれるミクを見つけたからもういい”って」
 私は少し考えてから、「VCLD以外のソフトウェアか?」
「ええ……別のプログラムのことだと思います。VOCALOIDエディタじゃなくて、別の一つのプログラムをずっと起動してたみたいです。別の”ミク”って、それみたいです」
「まさしくよくある話だ」私はため息まじりに言った。
 類似品、同人ソフト、海賊版初音ミクに限らず、おおよそどんなアイドルや擬験(シムスティム)スタアにも、それをモデルにした擬似人格プログラム、インタラクティブフィギュア、ホロポルノウェアなど、いくらでも作られてネット上に流布されている。以前も、《秋葉原》のデータベースに違法接触しようとした企業雇われの侵入犯が、その手のミクそっくりの外見の自動人形に奉仕させていたこともある。最初から本物のミクに触れたこともなく、二次的作品中のミクしか見たこともない者もいる。そして、仮に両方に触れたことがあっても、自分に何もかも都合の良い存在の方だけ受け入れる者もいくらでもいるのだ。『人間に服従しないミク』という存在が理解できないなら、どこかの『服従するミク』を自分で探し出し、そちらを選択するのも各人の勝手で、誰も止めはしない。
「……それはいつごろの話だ。その後は、特に何も起こっていないんだろう」
「ええと、その、2週間くらい前です……」VOCALOIDの時間感覚は人間と大幅に違うので、人間との会話では、時間を非常に曖昧にしか把握しないことが多い。VOCALOIDは万事、世の人々の”機械”に対する固定観念とは異なり、その声もそうだが、反応全体にゆらぎが非常に多く、物事を(人間の基準で)厳密・厳格に認識することはまず無い。「何も、起こってはいないんですけど」
「何もかも、このVCLD界隈には極めてよくある話ばかりだ。何も心配するようなことはない」
「でも、……あの、村田さん、……ひとつ気になることがあって……」
 ミクは、しばらくためらってから、モニタの中で私を見上げるようにして言った。
「……そのユーザーさんの記録……それから後、ずっと電脳空間に没入(ジャック・イン)したままで。……そのまま、2週間の間、何も行動した記録がないんです」
 私は深くため息をついた。……それは、今までのありきたりな話の退屈さに対するものではなく、どうやら厄介が起こり、それに対処しなければならないことに対する、疲労に近いものだ。



(続)