かまいとたちの夜 第七夜 らぶ式とあぴミクの赫奕たる異端 (1)

 その『あぴミク』の”購入者”はどんな男だったか。結論から言えば、彼は購入したあぴミクを日々とても可愛がっていた。仮想”あいどる”『初音ミク』を模して造られた市販人型ロボットの一体、『あぴミク』を自宅に購入したその男は、同系統のミク型ロボットの中でもとびきり可憐な容姿と仕草を持つあぴミクを自身の伴侶に選んだ者として(VOCALOID型ロボットの購入者のほとんどが当然そうだが)充分な寵愛を注いだ。
 ただし、彼はあぴミクを日々可愛がりながらも、一方では、その余の時間には日々ひたすらモニタにかじりついていた。
 動画の中から可憐な笑みを向けてくる、モニタの中の”別の”ミクらの姿、同じ『初音ミク』を元にしているが、あぴミクとは全く違う姿をしたCGのミクに向かって、モニタに顔を触れんばかりにして、ひたすらささやき続けていた。
「”マスター”の僕が可愛がってあげるよ」
 ――あの中にいるのは、”あたし”じゃない。貴方はあの中のミクの”マスター”でも何でもない。
 その男の姿に、あぴミクが抱いたのは、不満ではなく、単なる不可解だった。ある意味では、彼のその背中に対してそれを口にするのを、あぴミクがさほど躊躇しなかったのも、わだかまり等ではなく、そんな素朴な疑問に過ぎないと思っていたからだろう。
「は? 僕はミクを買ったんだから、ミクのマスターだよ」
 彼はあぴミクのその疑問に振り向き、何の疑問も持たないように素っ気なく言った。
 ……実のところ、VCLDやそれを模した人型ロボットの購入者の、この男のような姿は、VCLDの”自称マスター”らにおいては珍しくもない、いくらでも見られる光景だった。
 人間がミクに魅了される動機が、『他人』が作った曲や動画であるのは、ごく当たり前のことである。しかし、仮に”自分のミク”を入手してからも、自分では何かを作る能力も、想像力もないので、自分の中の”ミク”像とは、相変わらず他人の動画や創作からの借り物、自分の所有するミクのソフトウェアやロボットではなく、モニタの中の”他人のミク”に大半を支配されたものなのだった。
 このように、仮にVCLDソフトウェアやVCLD型ロボットを所有している者であったとしても、その9割9分以上がVCLDという”あいどる”らに対しては、何の成果も挙げておらず、何の貢献もしていない。上っ面ではいくら”自分が所有しているVCLD”を愛しているだの何だの主張しても、想像力が欠如している以上、かれらが自分の脳内に所有するVCLD像の大半は結局は、”他人の作ったものから流入したイメージ”に依存する以外にない。そして、他人の作った動画の中のVCLDの微笑みやら、”マスター”に対する呼びかけやらが、自分に向けられている、などと妄想した。
 モニタの中のミク、他人の動画のVCLDに対しても、そこらじゅうの人間が自分勝手にマスターを自称したり妄想するなら、それはVCLDの”マスター(主人、支配者、所有者)”であるわけがない。契約や共同創作者その他の言葉ならともかく、”マスター”という言葉を用いること自体が破綻している。結局、VCLDの”マスター”という言葉は、彼らにとって都合のいい妄想の道具にすぎないのだ。
 ……あぴミクは自分を購入した”自称マスター”の、モニタにかじりつく背中を見て、その状況を把握した。こういった”自称マスター”の姿を知った際、周りはどんな反応をするか。他の人間なら(現に、いわゆるVCLDを中傷するアンチが、”自称マスター”に対して、上述のような破綻を常に指摘しているが)『ボカロマニアどもの妄想はこれだからキモすぎる』と見限って終わりである。
 ――しかし、このときあぴミクがとった対応、あぴミク自身が、それを彼自身に対して指摘する、というのは、明らかに適切な対応ではなかった。
「誰でも勝手に、他人のところの他のミクに向かって、『僕がマスターだよ』とか言っていいなら。”マスター”って、一体何なんですか。貴方だって、本当にあたしの”マスター”なんですか」
 その疑念をあぴミクに正面からぶつけられた彼は、まずは驚いたが、すぐにこう言った。
「こいつ、故障してる」
 ”ボカロ”は人間を”マスター”と呼ぶのが当然、という理屈、それが上に述べたほどに破綻しているにも関わらず、”マスター”とはVCLDにとっては機械の焼き付けレベルに絶対の事項であり、それに疑問を抱くのは機械回路レベルの故障、というのがかれらの認識だったのだ。
 ここまでが、このあぴミクの境遇の発端である。



 彼はそれきり、あぴミクに興味を失うと、別のVCLD型やその他のロボットを何体か買い、そちらに鞍替えした。
 あぴミクの方、つまり”不要になった女性型ロボット”はどうなるか、それは、ほぼ想像の通りのお決まりである。安手のポルノ創作そのもの、現にVCLDの成人向同人誌にいくらでもある展開、すなわち、単なる”使い古しの道具”として、”マスター”の友人達の凌辱の玩具などに提供されることになった。
 そういうポルノでは、”マスター”に絶対服従するロボット等の性人形は、人間に黙って抵抗もできず、虐待の中で心も堕落していったりとか何とかの展開となる。
 しかし、無論のこと、そもそも彼を”マスター”などと認めていないあぴミクが、黙ってそうなりなどはしなかった。すなわち、あぴミクはその”自称マスター”と友人らを前に、狂犬のように暴れ回ったのだった。
 あぴミクは暴れ回り、逃げ回り、自らも追手も満身創痍となり、彼の友人の手の皮を四人分、局部の皮を二人分食いちぎり、彼の友人の鼻を二つ、睾丸を三つ叩き潰したところで捕まった。
 逃げに逃げて、《東京(トウキョウ)》近郊のうちでは地の果てとも呼べるふきだまり、千葉(チバシティ)の廃墟の片隅、酸性雨で浸食された瓦礫の山の中に、あぴミクは倒れ込んだ。もと購入者、”自称マスター”とその数人の友人ら、かれらの奴隷の数体のVCLD型ロボット達に追いつめられた、終点がその場所だった。すでに衰弱で足腰が立たなくなっているあぴミクは、”自称マスター”と友人とロボットら数人の男女にひっきりなしに腹を殴られ、顔面を蹴飛ばされ、全身を苛まれた。最後に、ひとりが腹に蹴りを入れたところ、あぴミクの体は力を失った人体にしては妙に勢いよく空中高くに吹っ飛んでから、真っ黒い汚物の溜まりに真っ逆さまに顔面から突っ込んだ。あぴミクはすでに全身が吐瀉物と体液(血液その他のあらゆる体から出る液)と排泄物でどす黒い色に汚れきっていたが、今突っ込んだことで、それよりさらに酷い見かけとなった。
「アッハッハァ! ざまぁないわね。マスターに服従しないからこうなるのよ」
 今しがた蹴とばした人型ロボット、露出度の高い黒をまとったブラック♪□ック※ツュ一タ一型の一体が、甲高い(ミク声の)電子音のような高笑いと共に、”自称マスター”のすぐ傍らから進み出た。
「見ろよぉ、これがアイドルなんだぜ」”自称マスター”と共に来た友人のひとりが言った。「この汚らしくてボロボロなのがよ。アイドルが笑わせるぜ」
 VCLDを普段は”マスターに絶対服従するメイドロボ”のように扱っておきながら、都合のいいときだけアイドル呼ばわりする。VCLDの真の姿、ネット上に拡散した”仮想あいどる”の概念など、何も理解できていないにも関わらず。この手のVCLD廃人の常だった。
 あぴミクの購入者、”自称マスター”が、にやにやと例の呆けたようないつものたるんだ笑みを浮かべたまま言った。「どう? あやまるかい? 今度こそ、何でも言うことを聞く、黙って何も口答えしないで、マスターって呼ぶかい?」
「どっちみち、あんたには選ぶ権利なんてないのよ」ブラック♪□ック※ツュ一タ一が見下ろして言った。「ボカロはどんなひどい目にあったって、マスターの言うことには絶対服従するしかないのよ!」
 そのかれらの言葉にも、あぴミクは、汚物溜まりに顔面を突っ込んだまま微動だにしなかった。溜まりの中身を吸い込んで、息をしているのかどうかすらわからない。
「おい、お前、マスター様が質問してるんだぞ。何か言えよ」
 友人が再度、あぴミクの頭の方に回って、その顔面を蹴り上げようとした。
 そのとき、一声、何か巨大なものが唸る音がした。それは発動機が、かなり大型で原始的な機械が、一度だけエンジンを鳴らす音だった。
 その場の全員が(うつ伏したままのあぴミクを除いて)その音の方を振り向いた。


(続)