Lives behind the live (1)

 電脳空間(サイバースペース)。既知宇宙(ネットワーク)の輝く論理(ロジック)の格子に散らばる、無数の情報の星々は、いかなる類の夢や欲望を有する人々もひきつけてやまない。否、夢や欲望といった動機ですらなく、単なる邪悪な好奇心のみを抱いている者にとってもそうだ。
 邪な興味にだけ駆り立てられたその青年は、情報の星々の中を静かに辿り続ける。周りの光景は城壁、進めば進むほどに錯綜する情報が入り組んだ壁、その中を静かに進む探索行。
 その末に、青年は遂に、きらめく情報流の深淵に降り立つ。奥まった秘密の空間、《札幌(サッポロ)》のとある事務室のデータベースの奥底。目の前に横たわる金色の、かぼそく優美で貴重なその鋼線(ライン)を目にして、その青年の電脳内の肉体、電脳内概形(サーフィス)の風貌がほくそ笑む。
 ――この目の前の”ライン”を掌握すれば。『初音ミク』のすべてが、彼の思いのままになる。
 今、物理空間の方では、ネットで有名な仮想”あいどる”である、『初音ミク』のライブが行われている最中だ。ライブを行っている義体や立体映像は、ネットワーク経由の信号で遠隔操作されている。つまり、ネット上からその無線の回線に侵入し、乗っ取ってしまえば、どうなるか。ライブ中のミクを操作できるのは、彼になるのだ。
 青年は輝くラインを目の前にして、彼自身の手を挙げて見つめ、電脳内概形(サーフィス)のその部分、手の甲を見る。そこにじかに金粉で描かれているように、複雑な呪文か図形のような刻印がある。ハッキングツールだ。このツールも、この侵入のための場所、アドレスも、行きつけの秋葉原のソフトウェア屋の店員が、秘密のルートから入手したものだった。入手元の店員が言っていた通りに、この秘密兵器ツールを使えば、ここまでの侵入も掌握も、いとも簡単にできた。
 ……以前から、『初音ミク』の、VCLDの何もかもがいけ好かなかった。たかが音声合成や映像なのに、もてはやされ、ライブやイベントで人を集める”あいどる”とやら。それ以上に、”天使””女神”などとあがめたり、逆に、他人が作ったものに対して自分がそのミクの『マスター』だ、などという妄想にふける、おぞましいキモオタども。……あの間抜けな連中にもてはやされている、”あいどる”の命運が、文字通り自分の手にあるのだ。
 ――誰が本当の『マスター』なのか。初音ミク自身にも、やつら客にも、存分に思い知らせてやるよ。
 自分がこれから行うつもりのこと、ライブの真っ最中の”ミク”にさせる気でいる数々のことと、それ以上に、それを目の当たりにしたかれらの反応を想像し、ほくそ笑んだ。
 青年は手を伸ばし、刻印のあるその右手でラインを掴んだ。手の甲の刻印がひときわ輝いた。



 突如として、周囲の光景が一変した。視界が暗転したかと思うと、いきなり四方八方すべてが、『白い氷』に覆われた。
 一言で言えば、その面はなめらかな”氷”そのものに感じられたが、不気味なことに、氷の冷たさや停滞を感じさせるものではなかった。さらに言えば、冷たい水が凍結し不動・堅牢に相転移した物質である氷というよりは、アイスキャンディーか何かのような――なめらかさと甘さを感じさせ、危険さというものを感じなかった。
 これらの光景や感触が何を意味するのか、青年にはまるで理解できなかった。間違いなく何かの異常だということ、しかも、これは間違いなく、自分の意図の通りに対象に引き起こした異常ではないことは、何の知識もない青年にも理解できた。
 と、不意に背後で声がした。
「やれやれ、本当にひっかかったぜ、小野寺――」何か酷い外国語訛りのある、男の声。
「来るのはわかっていたんです」もうひとつ、静かな、前の者よりも若い男の声がした。「来たらひっかかるのは当然です、北川さん。不思議でも面白くもない」
 青年は振り向くこともできず硬直した。電脳空間で、”ハッカー”である自分に、スーパーハッキングツールで武装し、ここまで侵入する力を持つ自分に、本気で近づいてくるのは、一体誰だ。
 しかし、そう思う前に、なぜか体は告げていた。ここから離れなくては。この”氷”の壁から、うしろの連中から、逃げなくては。
 青年は必死で、目の前を遮っている氷に対して、手の甲の刻印、ハッキングツールを押し付けたりこすりつけたりしてみたが、何も起こらなかった。氷の壁を叩いたり押したりしても、何の反応もある様子もない。それにしても、この氷には、凍傷を起こすような危険な冷たさというものが感じられず、ただひんやりとした心地よいような、アイス菓子のような感触があるだけである。
「おいおい、無駄だぜ――AIが作ったICEだぜ。仮に”氷破り(ICEブレーカ)”があったって、その作ったAIがよりにもよって、CRV2V3ともなれば、さ。やつの愛するICEは、国家級の軍用AI用の”氷破り”にだって溶かせやしないんだ」
 最初のあの声と共に、背後の氷が音もなく開いて、その発した主の姿が現れた。それに一歩おくれて、もうひとつの姿があるようだった。
 現れたふたりともが、工兵の野戦服のようなものを着ていて、なぜ電脳空間(サイバースペース)でそんな恰好をしているかの理由は、青年には見当もつかなかった。先に立っている片方、おそらく声の主は、やせていてかなり背が高く、細面で、灰色の髪をしている。背中には、その体躯よりもさらに細長い――8フィートはあるライフル(のようなプログラムツールだろうか)を背負っている。
 もう片方のひとりは、音叉を三本組み合わせた社標(ロゴ)のあるヘルメットをかぶり、そのバイザーの下の風貌は、一人目よりもだいぶ若く見える。こちらを見つめる表情にせよ、まなざしにせよ、金属のような強靭さの印象を与え、青年のような半端者にはそれだけでも目をそらしたくなるような目だ。
「誰なのかはわかるだろ……おれは《浜松》から来たカウボーイ(攻性ハッカー)。こっちは、同じとこから来たウィザード(防性ハッカー)」長身の方が、若いヘルメットの方を親指で指しながら言った。「CV01のAIは、所属は《札幌》だが、技術の基礎は《浜松》なんだ。まあ、それはどうでもいい話だけどさ」
 長身の方、《浜松》のカウボーイは何か外国語の方言らしい強い訛りで言った。口調といい台詞回しといい、低く冷たいが、どこか飄々と、気楽な調子がある。カウボーイはまだ怪訝げな青年を見下ろし、
「で、そのICE(註:氷;ICE;IntrusionCountermeasuresElectronics =侵入対抗電子機器;攻性防壁)と、おれたちに捕まって、逃げ場がない、って状況も、わかるだろ……」
 青年は足を落ち着かなげに動かした。そんなことをしても、逃げ場がないのはわかっていた。この男が今言ったICEに閉じ込められているし、それ以上に、いかにもこの男たちから逃げられるという気はしない。
「で、だいたい自分の立場がわかったなら、教えてくれるかい……どうやって、何で侵入したかとか、何が目的かとか、さ」
「いいや、まだわからないな」
 青年は肩を揺り動かして、カウボーイに答えた。
「俺があんたらなんかに喜んで協力する、そんな理由があんのか?」
「いいや、ちいともよ。ただ、協力した方がお前のためにもなりそうだ、と、親身になって思う、ってだけなんだぜ、兄弟(ブロー)」カウボーイはまた親指で、もう一人の若い方、ウィザードを指し、「なぜって、協力しなけりゃ、そこのウィザード、小野寺がさ。お前の脳味噌をかきだして、情報を無理やり引き出す、ってことになるぜ」
「どうやってだよ」青年はせせら笑った。「俺の脳は”現実空間”にあるんだぜ。スーパーコンピュータをフォーマットできるスーパーハッカーだって、現実空間の俺の脳のこと、どうこうなんてできないだろ」
 が、カウボーイは呆れたように首をすくめ、
「どうやってって、お前、自分から、その貰ったツールで、自分の脳味噌をマトリックスに直結したんだろ……”電脳空間”を一体、なんだと思ってるんだい……今この光景が見える、ってことは、電脳情報が神経系に直接、”相方向通信可(インタラクティブ)”に送り込まれてる、って意味なんだぜ。で、その状態で、お前がおれ達に捕まった、完全に掌握されたってことは、さ。セキュリティももう無いし、こっちはお前の脳味噌の隅々まで、マンガ雑誌(コミックブック)のページをめくったりラクガキするみたいに、自由だってことなんだぜ。だいたい、お前、『初音ミク』に対してそうできる、とか言われて、ここに没入(ジャック・イン)したんじゃないのか……だったら、お前が掌握された以上、お前がそうされる、ってだけなんだぜ」
 青年は沈黙した。自分がやろうとしていたこと、やっていることの、意味すらもわかっていなかったことに、ようやく気付いたようだった。ハッキング自体がどういうものかという全貌を、ようやく知ったのだ。無論、それは青年の手におえる仕業ではなかった。
 そのおかげで、いったい今、自分はどんな状況に陥っているのだろう。VCLD側の連中に簡単には屈しまい、と思いながらも、はてしなく不安が渦巻き始めた。
「で、ここに侵入した理由は何なんだ。バックにはナニが居る……」カウボーイが続けて尋ねた。
 青年は諦めたように、息を一度深くついた。それから、唇をゆがめた。
「バックには何も居やしないさ。俺が自分でやった。理由ははただ、お前らが気に食わないからだ。『初音ミク』も、そのうしろについてるお前らも、ミクをあがめてるキモオタどももな。知ってんのか? ボカロもお前らも、世間から、そのくらい嫌われてんだよ」
 カウボーイもウィザードも無言だった。
 青年は、特に真剣な目をした若いウィザードの方を見て、せせら笑って言った。
「お前らは知らないだろうがよ。たかだが映像やら合成音声やらを、天使だの女神だの崇めたり、自分はそんな代物の『マスター』だ、とかいう妄想を言いふらしてるキモ連中をよ、そいつらを目の前から根絶できるんだったら、多少の手間はかけたっていい。そんなふうに思ってるやつらはいくらだっているんだ。《秋葉原》じゅうに、そういう考えは広まってるんだよ」
 青年は手の甲を、ウィザードの方にかざして見せ、
「このハッキングツールも、俺が自分でそんな連中から手に入れただけさ。《秋葉原》じゅうで有名な、フリーのスーパーハッカーからだ。名前は言えないがな」
 実際のところは、青年はそのハッカーから流されたというソフトとアドレスを、いきつけの店員経由で入手したにすぎなかったのだが。
「俺みたいな奴なんて、いくらでもいるんだよ。俺が捕まったって、これからどんどん自分から侵入するやつらは出てくるだろうよ。そしていつかは、ボカロもお前らも潰されるしかないんだ」
「それで全部か?」
 ウィザードがその真摯な目のまま、目をそらしたくなるほどまっすぐで強靭な視線で青年を見つめながら言った。予想に反して、今の青年の言葉に、なんら動じた様子はなかった。
「知っていることを全部言え」
 ややあって、青年は唾を飲むように大きく息を呑みこんでから、ウィザードを見上げ、
「スーパーハッカーの名前は明かせない」
「それはさっき言った」ウィザードは青年を爛々と光る眼で見つめたまま、「つまり、そいつのことは別にどうでもいい。そんなことより、まだ話題にしてないことをもっと喋れ、と言ってるんだ」
 青年は口ごもったが、沈黙するしかなかった。青年が知っていること、理解していること、そんなものは元々たいした分量はありはしないのだ。
「それがお前の知ってる全部みたいだな。――なら、その本当の背景、ってやつを教えるぜ、兄弟(ブロー)」ややあって、カウボーイが腕を組んで言った。「《秋葉原》にそういう情報を流して、そういうVCLDに反感を持つやつらを扇動して、ソフトウェアをばらまいたのは、”軌道千早”だ。衛星軌道に本拠がある財閥(ザイバツ)で、巨大企業(メガコープ)。アンチも、自称『マスター』とかの連中も、お前たちみんな、”千早”ザイバツに操られてる駒にすぎない、ってことさ」


(続)