かまいとたちの夜 第二夜 ワンピースミクと僕のメモリアル (後)


 数時間後、アカイト、ぴくちぃ式、トエト、そして、ワンピミクと件の客の青年は、店のある千葉(チバ)市内からは離れた浦安(ウラヤス)にある、遊園地(プレイランド)を訪れていた。もっとも、遊園地の機能を持っていたのは大戦前の旧時代のことで、今はその残骸といった方が正しい。旧時代に、かつての北米大陸の超巨大娯楽企業が千葉(チバ)に作った、きわめて巨大な敷地を持つ娯楽施設だったが、今では、酸性雨その他の有害物質のために、何もかもが朽ち果て、入り口の看板も『・・・ネズミー・・・』という中央付近のごく一部が読み取れるに過ぎない。幾つもの法人を破壊し尽くした戦後世界経済という名の猛攻に、無残に落城して見える御伽の城、そんなおぼろな遠景が垣間見える。
「さびしいけど、風情はあるかな」客がその光景を一瞥した後、ワンピミクを見下ろしてそんな言葉をかけた。「お姫様の魔法を解いて真の姿を取り戻すには、悪くないロケーションだね」
 不安げだったワンピミクは、はにかむように微笑んだ。
 その光景の片隅に、巨大なプールはあった。まず動物が入る目的のものでないことは確実だったが、何のための水槽(というより、なんとか貯水可能な窪み)なのかを推測する材料は見当たらない。アカイトらがここを訪れた目的、問題のトエトの”友人”とは、その水槽の中を、今、悠々と泳いでいるモノだった。
 ”オオマさん”は、『サイボーグ鮪(マグロ)』だった。3メートルをゆうに超える、きらびやかな鱗に覆われた魚体は、その各所、特に頭部に集中して、鱗以上にまばゆい輝きを放つ鎧のような金属製の部品が埋込(インプラント)されていた。
「前の大戦時に、軍に人体改造、てか、魚体改造されて、動物兵器の一種として使われてたってことらしい」アカイトは、機器を準備しながら、ほとんど喋らないトエトにかわって、ぴくちぃ式、ワンピミク、客の青年に説明した。「電子戦用の装備をめいっぱい埋め込まれて、軍艦だの魚雷だののシステムを妨害したり、操るのに使われてたんだろう。で、戦後は、ここで余生を送ってるわけだ」
 アカイトは、自分の所有の電脳空間(サイバースペース)デッキを水槽の傍らの操作卓(コンソール)パネルに接続しながら言った。アカイトのデッキの筐体は型落ちのオノ=センダイ・サイバースペース7に見え、さきほどの店に備え付けのマースのデッキよりかなり古く、武骨な大型さに見える。しかし、こちらは改造に次ぐ改造を重ねた、正真正銘カウボーイ(攻性ハッカー)のデッキであり、その処理能力は現在でも堅気の使うものの比ではない。
「このオオマさんも埋込(インプラント)されてるのは、『超伝導量子干渉計(SQUID)』だが――その中でも旧海軍のそれってのは、実は、カウボーイ達の間では結構、有名な装備でな」アカイトは、水槽をゆるゆると泳ぐ巨大な魚体を見て言った。「海中で何マイルも離れた小魚の跳ねる音を聞きとるみたいに、どんなに離れた、かすかなメモリの情報でも読み取るのさ」
 アカイトは水槽のパネルを、ワンピミクの髪飾りの没入(ジャック・イン)端子に繋ぐと、
「じゃ、トエト、頼んでくれ」
 トエトは水槽の中のサイボーグ鮪の方を向き、何かかすかに唇を動かした。水中に立つように背を曲げた鮪は、その頭をトエトに向けている。トエトはなんらかの手段で話しかけているのか。というより、オオマさんのSQUIDが、トエトの電脳の働き、すなわち思考を読んでいるだけかもしれなかった。
 その必要があるのかわからないが、オオマさんはワンピミクの方に頭を曲げ、ほぼその方向を保ったまま状態で、ゆったりと水中を真横に浮遊した。
 アカイトのデッキに外付けされた小型の液晶ディスプレイが、あっというまに文字列の奔流で埋め尽くされた。それはオオマさんのSQUIDが読み取った、ワンピミクの電脳内の情報だった。それらは元のメモリ情報の数パーセントに満たないほどきれぎれだが、流れていく間にもどんどん修復されていく。
「消去したメモリは、その後に上書きしちまったら、もう普通は読めないも同然なんだが」アカイトは、ディスプレイをのぞきこんでいるぴくちぃ式に説明した。「上書きしても、断片が残ってることはある。この歴戦兵(ヴェテラン)のマグロ旦那は、どんなささいな断片的なデータでも読み取れるし、どうやら、そこから逆算して、以前の内容を元通り綺麗に作り直すことも簡単にやってのけるみたいだぜ」
 いったん読み取られ修復されたそれは、水槽の操作卓から没入端子を通じて、ワンピミクの電脳に戻され、その記憶を修復していった。
 ものの十分とかからずに、ワンピミクの記憶の修復は完了した。
 ワンピミクの目の焦点が移ろい、表情筋の動きが一定せずに少しずつ変化を続けて言った。取り戻した時間、重ねたはずの年輪に適合を試みているかのようだった。
「思い出したのか?」青年が身を乗り出して言った。
「ああ、3年間の記憶が――」アカイトは続けようとしたが、それが終わらないうちに、青年は歓声を上げて、最初に店に来た時のように、ワンピミクに飛びつこうとした。
 ――が、不意にワンピミクの身体が翻ったかと思うと、飛びつくその青年の鳩尾に握り拳を叩き込んだ。うめいて激しく体を折り曲げたその青年の鼻面に、靴の爪先が深々と埋め込まれた。
「くずめッ」
 撲殺された家畜のように地に転がった青年の、鼻がぐしゃぐしゃに潰れて血だまりになった顔面の真ん中に、ワンピミクは唾を吐きかけた。
「働きもせずに、好きなことだけをして、弱者の持ち物を食い潰して」ワンピミクの口元が、ひきつれたように歪曲した。「世界全部に謝れもしないでまだ生きてたんなら、せめて地獄に落ちろッ」
 千葉(チバ)の裏道なら珍しくないが、店にいれば滅多に見ないで済むようなその暴力の光景から、ぴくちぃ式とトエトを遮ろうとでもいうように、アカイトは後ずさりした。
 ワンピミクが思い出したのは何だったのか。ともかく、ワンピミクのこれらは、この青年の自称するところの『マスター』としてのかつての扱い、それに対して行った行為に違いなかった。
 それ以上暴行を続けるなら、止めなくてはならないと思ったが、ワンピミクはそれ以上は何をするでもなく、見下ろした顔の表情を痙攣させたまま、肩で息を繰り返していた。青年を食い入るように見ながら、しかしワンピミク彼女自身が、突如自分の中に蘇ったもの、わきあがってきたものを、扱いかねてでもいるようだった。



「ねぇ、お兄ちゃん」と、ぴくちぃ式が言った。アカイトの心配もどこへやら、ぴくちぃ式らはちょうど今、そちらの光景を見てもいなかったようだった。「オオマさんが何か言ってるって、トエトが言ってるんだけど」
「ややこしい伝言だな。何だよ」アカイトはいらつきを見せずに、優しくぴくちぃ式の方を向いて言った。
「あのね、トエトが言うのは、オオマさんが言ってるって言うのは、3年前だけじゃなくて、その後にいたパチンコ屋さんのデータも、一緒に修復されてきたって」
「いや、そっちのメモリーは別にいらねぇんだがよ」
 アカイトは修復されてきたそのメモリーの内容を一応確かめようとして、オノ=センダイの小型液晶ディスプレイに目をやった。
「なんだこりゃ」アカイトは、思わず声を抑えて言った。「おい、ちょっと待て、こりゃあ”ヤクザ”の出納表だぜ……」
 ”ヤクザ”は、とうの昔に伊・米マフィアもアジア全域の三幇(トライアッド)も合併している、複合企業(コングロマリット)と抗争するほどの多国籍闇組織であり、世界貿易から小さな街の産業に至るまで、経済との密かなつながりやその影響は計り知れない。
「パチンコ屋が、何か”ヤクザ”と交流があったんだろうな。何か融通してもらったとか、もめ事の調停とか。パチンコ屋がこのワンピミクを手放す時に消去したのが、今、SQUIDとオオマさんのとんでもない能力のおかげで、一緒くたにこのワンピミクの電脳内で復活しちまったんだ」
「その表って、そのヤクなんとかさんに、返した方がいいの?」ぴくちぃ式が尋ねた。
「まさか! やつらの、”闇組織の活動記録”なんだぜ。存在それ自体がヤバい。持ってる奴はそれだけで、”ヤクザ”の暗殺屋が差し向けられて、消されちまう」アカイトは低く言った。「もちろん、今すぐに消した方がいい。オオマさんに頼んで痕跡も残らないように、さ――」
 と、突如、ワンピミクが、倒れている青年のそばにうずくまった。
 アカイトのデッキに繋いだままのコードを、自分の髪飾りの没入(ジャック・イン)端子に繋ぎ、そのコードのもう一本の端子を、青年の首のうしろの電脳化没入端子に接続した。アカイトのディスプレイが点滅した。
 ――今、ワンピミクが何をやったかは、アカイトがデッキでメモリ状態を見るまでもなく明らかだった。
 ワンピミクは今、自分の電脳から、この青年の電脳化された脳の記録領域内へと、今の”ヤクザ”のデータを移してしまったのだ。
「おい、今、あんたがやったことだがよ」
 アカイトはさすがに、ワンピミクを指差して言った。この青年が、この危険なデータを自力で(あるいは、”ヤクザ”に見つかることなしに)処分する、廃棄する技術すらないのは間違いない。そして、”ヤクザ”の仕事の記録を電脳に焼きつけられている人間が、今後どんな目にあうかは想像に難くない。頭に爆弾を埋め込まれて走る方がまだ安全というものだ。
「あんたがその手で直接、コイツを殺したってのと同じだぜ。わかってんのかい……」
「止めるの?」ワンピミクはきっとアカイトを振り返った。「止めるつもりなら、むしろこんな奴のことを私に思い出させた、アンタ達全員だってこの場で殺してやりたいわ!」
 そのワンピミクの形相に、アカイトは思わず、ぴくちぃ式とトエトをかばうように後ずさりした。――オオマさんが水中で伸びあがるように転回する。オオマさんの、接続されない電子流にも干渉するSQUIDのみならず、その電脳技術なら、人型ロボットの電脳(恐らくは人間のニューロンすらも)などいとも簡単に焼き切ることが可能だ。もしトエトに危害が及ぶならオオマさんは躊躇なく、ワンピミクに対してそうするだろう。
 だが、アカイトらのうちだれも、そんな状況と皆の身の危険に持ちこんでまで、あえてこのワンピミクを阻む気までは起こらなかった。
「私はね、チャンスを与えてあげたのよ。この男にね」
 ワンピミクは、ふたたび倒れている青年に歩み寄った。その口調も声色も、店の中で聞くワンピミクのそれとは、まったくの別人同然のものだった。
「このデータで”ヤクザ”を強請るか、それか、このデータをオノ=センダイ社あたりに売り払って、大金を手に入れられる可能性だって、無いわけじゃないでしょう。与えられたチャンスを生かせるか、ただ単に殺されるかは、あくまでコイツの能力次第ってわけなのよ」ワンピミクは地に顔をこすりつけるようにして、血だまりの中の青年のぐしゃぐしゃに崩壊した顔面を覗き込んだ。「ねぇ、カンタンよね!? なにしろ『マスター』は『ミク』よりも偉いんだから!」
 アカイトらと、水槽の中のオオマさんも、凍りついたようにその場を動かなかった。ワンピミクの、ぎらぎらと光るキヤノンの義眼(サイバーアイ)の絞り切った瞳孔を、復讐の悪鬼と化したその形相を、見つめるほかになかった。
 一体、ワンピミクにここまでさせるほどのことは何だったのか。あるいは、かれらは偶然はぐれたのではなく、このワンピミクが自分で青年のもとから逃げ出したのではないのか? そして、以前のこの青年との思い出、そのメモリーは、パチンコ屋が消したのではなく、このワンピミクが自分の手で消去したのではないのか?
「これからどうする」アカイトは、袖を掴んでいるぴくちぃ式の腕を握り返しながら、ワンピミクを見つめて低く言った。「残すか? それとも消すか? 昔の記憶と、今しがたのこの一連のメモリーをさ」
「早く消してよ! ……何も思い出したくない! 私がどうしてこの体、高級義体を持ってるのか! どうしてこの眼、高級義眼(サイバーアイ)を埋め込まれたのか!」
 ワンピミクはかきむしるように頭を押さえ、遊園地(プレイランド)に響き渡るほどの金切声を上げた。
「もう二度と、コイツのことは思い出さなくて済むように! もし、またここに来たとしても、コイツの記憶を修復するなんて、今度はもう絶対できないように! 今すぐ!」
「――オオマさんに頼んでくれ、トエト」アカイトは低く言った。
 ……その後、ワンピミクは何事もなかったかのように店で働き続けている。ワンピミクの電脳からは、遊園地での記憶も、その前のあの青年との記憶も、無論パチンコ屋やそれ以前の記録もその痕跡も、すべて消去された。今回こそは、サイバネティック鮪の電脳技術により、最初からそんな時間は存在しなかったのと同様に、完全に消去された。
 あの青年が、ワンピミクになぜあそこまで嫌悪されたか、何をやったかは、ワンピミク自身がほとんど何も言わないうちにすべて消してしまったし、おそらく、あの青年から聞けることも、――もとい、”ヤクザ”の出納表を頭に埋め込まれ、確実に始末される彼の、生きている姿を再び目にすることも――今後、永遠にないだろう。
 それでもアカイトやぴくちぃ式は、今でも、そのワンピミクを正視するのをためらう。ワンピミク自身に対してではない。ワンピミク自身は、アカイトやぴくちぃ式がそんな視線を向けていることにすら夢にも気付かないほどに、完全に忘れており、元の清楚で温厚な、ややおとなしすぎるほどの『この店の可憐なミクの一体』に戻っていて、その記憶やあの遊園地での体験で射していた影の名残すらもない。新品のロボットと完全に同じである。アカイトやぴくちぃ式の背筋に戦慄が走るのは、そんなワンピミクに対してではなく、『消え失せたメモリーのその内容』に思いを馳せるごとに、だった。
「そりゃ、忘れたままの方がいいことだってあるさ」店長がカウンターで、叶和圓(イェヘユアン)に火をつけて言った。「人間にとって『致命的』なことになる記憶(メモリー)ってやつが、いくらだってある」
 アカイトは少し考えて、「それって、パチンコ屋の、”ヤクザ”のデータのことか……」
「何を言ってるんだよ、相変わらず」店長が煙を吐き出しながら言った。「”女が男について覚えていること”の方が、そんなものよりずっと怖いかもしれないって、わからないかい」