携帯処理機器

 収録の合間のスタジオで、鏡音リンはふと、スタッフらが慌しく動き回る間に突っ立っている初音ミクが、手になにげなく持っている物体に気づいた。
 ミクにせよリンにせよ、曲やPVの収録の際に、そのための小道具のほか、直接収録するものとは関係なくとも、スポンサーの商品や関連グッズ、ひいてはまるで無関係な物を含めて様々な物体を手にしているというのは珍しいことではない。しかし、リンがぎょっとしたのは、その物体の形状――横に縞の入ったくびれた円柱状に、見覚えがあったためだった。それは、非常に物騒な物体についての記憶だった。
「お、おねぇちゃん、あのさ」リンはまるでその物体から距離を置くように身を引きつつ、「あの、それ、何だと思ってる」
「何って……」ミクはこくりと愛くるしい仕草で首をかしげつつ、その手の物体を見下ろし、「男の人が、よく使うものよね」
 リンは緊張のあまりぐびっと喉を鳴らしてから、ようやく言った。
「い、いや、そんなものさ、アイドルが思いっきり握り締めてていいの?」
「どうして……? 男の人なら誰でも、いつも使ってるものじゃないの……?」
 リンはかわいた喉から声を絞り出すように、
「いや、仮に男の人なら誰でもいつも使ってるものだとしたって、だからアイドルが握ってていいってもんじゃ断じてないような」
「どうして?」ミクはリンを見下ろし、微笑みかけて、「これ、通信機じゃないの……?」
 リンの荒い息が、しばし止まった。
「……何?」リンは今や、まじまじと、ミクの手のその円筒状の物体を見つめた。
「携帯通信機……『オナートホン』っていうものだって」
 リンは呆気にとられ、一転、声も息も忘れたように立ち尽くした。
 その背後に、やはり共に収録に来ていた巡音ルカが歩み寄り、状況を一瞥した。
「なんだそりゃ……」リンはようやく呻いた。「それは一体どういう単語なんだ……」
「その『オナートホン』という語の短縮形を考えてみて下さい」ルカが和製英語略語を完全な日本語発音で言った。「なお、『スマートホン』の短縮形は『スマホ』です」
 リンはしばらく硬直してから、
「なんじゃそりゃあああああああああああ!!!!」
 ミクの手の物体を凝視しながら、スタジオの喧騒をも圧するかのような絶叫を上げた。
「つまりミクにその器具の正しい名を教えずに、無理やり引き延ばした名を教えたのです」ルカが平坦に言った。
「誰だヨそんなの、そんな言葉、おねぇちゃんに教えたの!!」
「ひとりしか考えられません。その言語センス的な意味で」ルカが無表情で言った。
 リンはほんのつかのま、考えたようだった。
 それから、突如駆け出した。あとに早足でルカが続いた。――ミクはただ不思議そうな目で、ふたりの背中を見送っていた。持っていた物体が手の中からいつのまに無くなっていることにさえ、気づいていなかった。



「ちょっと、姉さん!」楽屋に飛び込んだリンは、楽譜をめくっていたMEIKOに向かって叫んだ。「おねぇちゃんにどういうデタラメ教えてんだヨ!」
 MEIKOはけだるげに、リンが振り回している円柱状の物体を見上げてから、
「ああ、それね。……いや、だってさ、ソレが本当は何なのかとか、ミクに教えるの、すごく面倒くさいじゃない。それに、もし本当のことを教えようとしたって、間違いなくミクの頭だと最後まで理解できないし」
「今面倒だからってデタラメ教えてたら後でどうなるの!?」リンは物体をMEIKOの目の前につきつけ、「公衆送信でおねぇちゃんがコレについて何かまずいことを言ったらどうすんのよ! 通信機だと思って公共放送でコレ振り回してたりしてたらどうすんのよ!」
「いやリンが今ソレ振り回すのやめて」MEIKOが大儀そうに言った。
「後になって周りにどんだけのフォローが要るんだヨ! てか今面倒臭いってだけでその何倍もの面倒を周りに押し付けんなよ!」
「――ミクに物を教えるに当たっての、今後の方針は置いておくとしても」ルカが冷静な声を挟んだ。「とりあえず至急、対策を構ずべきことがあります」
 MEIKOとリンが、ルカを振り向いた。
「今回に限り、ミクがその物体へのいいかげんな知識のせいで公衆に起こす面倒への対処を考えておかなくてはなりません。それについて、当面考えられる対策ですが」
 ルカは無表情で平坦に言った。
「それと同じ形状に作った通信機、本物の『オナートホン』を、例によって私達のイメージカラーにあわせて各色、定番の”VOCALOIDグッズ”として発売すればよいのです。そうすれば、ミクや私達がそれをしじゅう握っていても、視聴者らにはどっちなのかわかりません」
「それは良い考えだわ」MEIKOがけだるげに言った。
「コレと同じ形をしたモノを売り歩けっての……」リンは頭をかかえてうずくまった。「つーか、もうこの世界から脱出させてくれ……」