アキバの赤い人II


 《秋葉原(アキバ・シティ)》の芸能事務所の一室で電子機器を直しているエンジニアの背中に、赤い髪をしたリンが駆け寄った。
「ねぇー、小泉さん」赤リンは、無邪気に体を傾ける仕草と共にたずねた。「救急キット無い?」
 その赤リンは、身に着けているのは白いワイシャツだけで、裸足で、耳のインカムもない。つまり、真っ赤な髪以外には、特徴となる衣装その他は何も無い。
 薄手のワイシャツの下に透ける肌色、ぎりぎりの線を隠す裾から伸びる細く白い手足の線がまぶしい。その無防備すぎる姿は、いわゆる少女愛者の類でなくとも、倫理的に直視しにくいものだった。
「ああ、……小野寺なら持ってるんじゃないか」が、エンジニアはそれらの光景を特に気にした様子もなく、飄々と答えた。
 赤リンが立ち去り、しばらく電子機器を操作していたエンジニアのところに、やがて、彼と同期の《浜松》のウィザード(註:防性ハッカー)が歩いてきた。
「リンが救急キットを持っていったが、……誰か怪我でもしたのか」ウィザードは、赤リンの去っていった方向を見て言った。「あの様子じゃ、リンの怪我じゃなさそうだったが……レンか、MEIKOか」
 このいずれも若い《磐田》のエンジニアと、《浜松》のウィザードは、いずれもVOCALOIDの全員とそのプロジェクトに、それぞれハードウェアとソフトウェアで関わっているスタッフだった。……エンジニアは、傷ひとつなかった赤リンの白い手足を、しばらく思い出していたが、
「いや、仮に怪我したとしても、人間用の救急キットじゃ意味はないと思うぞ。バイオロイド系の義体でさえそうだし、しかも、あれはたぶん安物の無機系の義体だろ……」
 ……それからしばらく後、赤リンが、軽々とした足取りで廊下を駆けてゆく姿があった。赤リンは事務室の部屋を次々とのぞきこみ、『鏡音レン』がいる部屋を見つけると、嬉々としてそこに飛び込んだ。
「ねぇレンー! ほら! 見て見てー!」
 赤リンは無邪気に言って、レンの目の前で、いきなり薄いシャツの裾を一気に胸までまくり上げた。
 シャツの下には何も着ていなかった。
 レンは完全に硬直した。その赤リンの姿を真正面から凝視したまま、時が止まったように微動だにせずに、その場にたたずんでいた。
 何分、いや何十分もその光景が変わらず続くかと思えたが、
「何をしていやがる!!!!」
 赤リンの背後から、別の人物の声、しかしやはり『鏡音リン』の声の絶叫が響きわたった。
 続いて部屋に飛び込んできたのは、赤リンとは別の、もうひとりのリンだった。そちらは光沢のない黄の髪と、黄と黒の服の――つまり、『本物』の姿をした鏡音リンだった。
「んー?」赤リンは首だけ曲げて、(本物の)リンの方を振り向いた。その発する声は、すでにさっきまでの鏡音リンの声ではなかった。それは、別のVOCALOID、『MEIKO』の声になっていた。「何って、この義体に対する男の子のファンの反応を、ためしにレンで実験してたのよ」
 ……《秋葉原》の街では、VOCALOIDにそっくりに作られた『義体』や自動ロボットが、正規・不正とわず多数売られている。この赤リンは、そんな義体を見つけた『MEIKO』が、その市場状況や正規・不正を調査するために(という名目だが実際は面白半分に)その一体を遠隔操作しているものだった。VOCALOID(の本物)は、高位AIプログラムの本体はあくまで電脳空間(サイバースペース)ネットワーク上に普遍的に存在し、物理空間の義体はどれもかりそめの物でしかなく、どれほど離れていてどれほど多数でも自在に操作できる。つまり、こちらの赤リンの方は鏡音リンではなく、中身はMEIKOで、彼女がリン型の義体だけを電脳空間を経由して操り、これも電脳空間にある鏡音リンMEIKOVOCALOIDライブラリを駆使して、声を出させているものだった。
「いや、このリン型の義体ってね、あんまり高級品じゃなかったのよ。で、期待したんだけど、結局『そっち方面の目的』で作られてないもんだから、いわゆる肝心の部分が、ぜんぜん作りこまれてないのよ。はっきり言うと、完全にツルツル。肝心の部分には無毛を通り越して割れてる造形さえ無いし、胸には先っちょの部分さえなかったり」MEIKOの声をした赤リンが、平然と言った。「……で、もし年頃の男の子が、せっかく穿いてないところがばっちり見えた! と思ったのに、そこに何もなかった、っていうんじゃ、ファンをものすごくガッカリさせちゃうじゃない。そこで、バンソウコウを貼ってみますた!」
 赤リンはワイシャツをさらに首元までたくし上げて、(本物の)リンの方に体を向けてみせた。両足の付け根の、さっきまでレンが食い入るように凝視していた最も肝心な部分に、絆創膏が貼ってあった。さらに胸にも膨らみの頂点のあたりにひとつずつ、絆創膏が貼ってあった。
「みますた、じゃない! 何も無いところにすごく余計なことすんな! てかわざわざ見せんな!」
 が、――リンはそこで、はたと考えた。『何も無いところ』を見せるのに、どういった問題があるのか。そも、リンに似せて作られた体というだけで、この体はリンのものではないし、駆動しているのはMEIKOであるし、本質的に”この赤リンはMEIKOである”としか言いようがない。あらゆる意味で、『リンの何か』を見せるというわけではないのだ。そしてそれ以上に――肝心の部分に何もないにもかかわらず、いかにもそこに『何か』があるように(申し訳程度に、そしていかにもぎりぎりでもあるかのように)覆い隠したものを見せるというのは、はたして、その肝心の部分の『何か』を見せるとか見せないとかの問題なのか?
 しかし、リンは即座に、振り払うように首を振ってから、
「とにかく、ひとの体で、てか、ひとの体そっくりのやつでやるな! 自分の体でやれヨ!」リンはひとたびは絶叫したが、虚脱したままのレンに目をやり、「……いや、やっぱり自分の体でもやるな」