温もりの先は塵の平原

 研究所の一室に住むレプリカント(人造人間)の、僕と”鈴”が、いつも話すのは他愛も無いことばかり。他の部屋のレプリのことや、ここの研究員(僕らの場合、出会うほとんどたったひとりの人間)のこと。部屋の自動設備が清潔にするシーツの日ごとの硬さの違いのことも、他愛なく話す。
 でも”そのとき”は無言で――互いに”寒さ”を感じた時には、僕らはほとんど言葉を交わすことはなく、ただ黙って体を寄せる。僕が鈴の体温を求めるというのは、鈴の肌をかたときも離したくないのを何か言葉にしているだけで、本当はもっと別の衝動なのかもしれない。ただ、鈴は本当に寒がっているように、震えるように身を寄せてくる。僕が自分の中にある熱を駆り立てて、鈴のひんやりした肌、あんまり柔らかくて、手に吸い付くようになめらかなのでそう感じられる肌の、隅々すべてから、温かみを探り当てようとする。鈴の中の熱く濡れた場所を探り当てて、自分の体温の熱い塊で分け入り、熱さを交わそうとするとき、鈴の白いおとがいが反って、腕がからまり、唇が、寄せ合う頬が、滑らかな肌のすべてが、吸い付くように僕を激しく求める。その間、僕らはやっぱり殆ど喋らずに、ただ、互いののぼりつめた体温が交わされるたびに、鈴の言葉にならない声、喘ぎや僕を呼ぶ名が通り過ぎる。そして、ふたりで眠りに落ちて、ふたりで目覚める。
 鈴の無邪気な笑い声、かわりばえのしない言葉だけを日々耳にしながら、僕は夢うつつを過ごす。わずか4年かそこらしか与えられていない僕らレプリカントの寿命が、そんな日々で削れてゆく、そんな事実を忘れて過ごそうとでもいうように。
 そんな鈴が、今までとは違うことを言った。”連”、外に出てみようよ、ちょっとでも外の世界を見てみたい、と。
 外の世界、研究所の外のこと。今のこの惑星の上の、地表の自然のことだ。僕は、もちろん鈴もそうだけど、これまで一度も研究室の外に出たことはなかった。特に、僕らがそれを誰かに禁じられてる(例えば、人間の誰からとか)わけじゃないけれど。鈴がふと外を見たいと言うのは、単に今まで見たことがなかったからという、きっと深く考えない、ただの無邪気な好奇心だ。……でも僕については、少なくとも今まで外に出ようとしなかったのは、そんな必要を感じなかったから。今の時代、地表には、もう人間たちは誰も住んでなくて、面白いものは何も無い、と聞いていた。だったら、研究所の外の世界、それを見に行く価値があるだろうか? 世界が広がったところで、しょせんは僕らの世界は4年かそこらしか続かない。なら、それよりも僕にとっては、鈴と一緒にいる時間が惜しい。一秒でも長く、笑いあったり抱きあう時間が。外はきっと寒い。ただでさえ、ぬくもりが欲しいために鈴と居るっていうのに――
 だけど今回は、僕は鈴と、外の世界を見に行こうと思った。その理由のひとつは、僕が最近、与えられた4年を削り続けるだけじゃなく、与えられた時間の意味、この鈴と一緒にいられる残された時間を、”どう使うか”の意味を、よく考えるようになったからで――ふたりの時間がわずかしかないなら、何でもできるだけ広く多くのものを見て、できるだけ多くの思い出を作るべきかもしれない。もしかすると、この殺風景なレプリ研究所では見られない、今まで見たことがない風景や自然だとかを見つけることができるかもしれない。もしそうなら、それは僕にも鈴にも、幸せな思い出になるかもしれない、そんなふうに考え始めていたから、だと思う。理由のもうひとつは、僕が前から何となく、こう思い始めていたことがあった。もしかすると万一、――レプリカントの能力からは、本当に万のひとつもないことだけれど――僕と鈴の間に、新しい生命が宿った場合。僕らが残していく生命がこれから生きていく世界、僕らがその生命のために残していく世界、それを、見ておかなくちゃいけないだろうと。
 だから僕は鈴と一緒に、別の観測施設を目的地にして、研究所をあとにした。



 だけど、僕らの目に入った世界、今のこの惑星の地表は、まさに死の世界だった。
 どんなに歩いても、観測施設の機器で見ても、移動用車輌で動き回っても、生き物の姿も、人工物の姿も、かつてのそれらの名残さえも、何も見当たらない。見渡す限り、真っ黒い岩くれと、真っ黒い空。車輌のモニタパネルに表示されている、人間用のガイドによると、決して近づいてはいけない地帯の表示で、地図の半分以上が真っ赤になっている。どんなに移動しても、地図の赤色の面積は変わらない。窓から見分けられる風景には、その警告表示の理由だと思わせる、岩くれの合間の死の色をした霧や沼ばかりが見える。
 車輌の走れる平地が崖で途切れ、同時に地図上の真っ赤な警告表示がしばらく途切れた頃に、僕らは車輌を止めて、崖の高みから見える地上の風景を見渡す。大地に走った亀裂のために起伏が烈しい、岩と沼と霧のかかった土地。空は雲を通してわずかに透ける日光の他には恒星の姿も見分けられない。車輌のメモリに入っている説明によれば、空にかかっている分厚いそれらの雲は、一息でも吸えば肺が血であふれかえったり、あるいは漬かっただけで手足が溶けたりするものらしい。それらの雲から地上のそこかしこに、死をもたらす雨や霧や、塵が降り注いでいるのが見える。
 今まで、地上の風景を写したものには、レプリ同様わずかな居住区にこもっている「人間」たちのための映像がある。僕らは特定の人間に使役されてはいないけれど、そういう映像を見る機会ならあった。それらの映像でも、今のこの惑星の上は、かなり荒れているものとして描かれていた。けれど、それらでさえ、かなり編集されたものでしかなかったらしい。……人間たちは、これほどまでにこの星を壊して、自分たちも住めない状態にしてしまった。それを編集された映像のようにごまかし、自己欺瞞している。そればかりか、僕らレプリカントを、こんな世界に生きていく未来しかないにも関わらず、生み出してしまった。自分たちの破滅の運命をまぎらわす、ただそれだけの目的で。
 僕は車輌のかたわらに立ち尽くしたまま、一言も発せないでいる。僕らが住んでいる惑星が、一歩研究所から出ればこんな場所だったという事実、あんまり寒々しいその光景に。そこには自然も生命も、思い出も、幸せも、これからの未来を思わせるものも、かけらも無い。
「ふぅん……」
 だけど鈴の方は、ただ不思議そうにその光景を見つめるだけ。
「何もないね……」
 そっけない言葉で、特に心を何か動かされた様子、例えば怖がる様子や、残念そうな様子も何もない。
 どうして、平気でいられるんだろう。……僕はその平然とした鈴の横顔をしばらく見つめてから、やがて、その理由に思い当たる。これまで鈴と話してきたこと、他レプリの噂や部屋のシーツや肌のこと、他愛ないことだけ。鈴は、きっと僕ほどには悩んだことがない。レプリの寿命、僕らふたりの先に横たわる未来について。……そして、新しい生命の可能性についても、僕は、まだ鈴に話したことがなかった。無邪気な鈴には、重すぎる話だと思っていたから。
 今、その鈴の、いつもの無邪気さは、羨ましいと思ったけれど。その一方で、この重苦しい地獄を前に、それを気にもとめない鈴に対して、僕はちょうどあの岩場の光景の虚ろさみたいに、ぽっかりと空いた空間、切り離されたものを感じた。しょせんは鈴は、以前に僕がそうだったのと同じ、何の疑問も持たずに短い寿命を浪費するだけで、そして鈴にとって僕の存在も、一緒にこの世界、これからの未来を生きていく者じゃなく――自分が寒さを感じたときに、ただ体温を補うだけの存在に過ぎないんだろうか。
 僕はその光景を前に、立ち尽くしていた。ひたすら、後悔の念が大きくなってきた。……最初から、こんなところに来なければよかったんだ。ここに来たせいで、この不毛な光景と世界に何もかも全部が、鈴も、彼女と一緒の未来も、色あせて覆いつくされていくような気がした。



 ……あたりがもう暗くなっていることにも、そして、鈴の姿が見えなくなったことにも気づかなかったのは、僕がそうやって、上の空だったからだろう。
 ようやくそれに気づいてあたりを見回したけれど、薄暗い中に鈴の姿はない。……鈴とはぐれたことに気づいて、次に、この場ではぐれるというのが、どういうことを指すかに気づいた。こんなひどいところに、ひとりで取り残されるのを想像する。車輌のモニタの情報を信じれば、辺りは有害物質だらけ、猛毒の沼地や霧、塵だらけで、そこに入ればとてもひとりで生き延びられるような、助かるような世界じゃない。
 僕は車輌から持ってきたライトで、でたらめに、がむしゃらに辺りを照らす。
「鈴!」静まり返った荒野の中で叫び声を上げた。それが辺りの闇に吸い込まれて、息が詰まるような長い沈黙だけが続いた。
「……連!?」しばらくして、その返事はずっと遠くに聞こえた。「どこにいるの……!」
「動いちゃだめだ!」僕は声を荒げる。「そこにじっとしてるんだ! 一歩も歩いちゃだめだ!」
 僕は小さなライトで足元を照らしながら、急かされるように進む。
 だけど、岩場の裂け目、その下の猛毒の奈落が口を空けているのを見て、思わず足が止まる。深い急流や底なし沼で溺れた人間を助けようとして、自分が引き込まれる話が頭をよぎる。――いつだったか、”神威”という名の同族のレプリから聞いた話だ。底なし沼から逃げられないかのように滅びに向かっている人類は、この惑星や、その他全てのものを、道連れに破滅へと引っ張り込もうとしている。そして人間に奉仕するために作られているというレプリは、勝手にそんな者達に手を差し伸べて、勝手に一緒に破滅しようとしているのだと。差し伸べちゃ駄目だ、運命を共にしちゃ駄目だと――この進む先は、救う価値のあるものなのか、救う価値のある未来なのか――
 ――だけど、ふたたび襲った静けさと、じわじわと迫ってくる闇が、他の何もかもすべてを押しやって、僕をひとつの衝動に駆り立てる。さっきの光景の絶望も、その中で鈴に感じた失望もすべて押しやって、駆り立てる。危険を秘めた真っ暗のこの世界は、奈落の底そのものだ。こんな場所で、たったひとりで残される、誰にも見守られずに、おしまいになるなんて。僕はそうなるなんて耐えられないし、鈴がそうなるなんて僕にはもっと耐えられない――
 僕はさっき聞こえた鈴の声の来た方向だけを思い出そうとしながら、ライトをかざして、もつれるような足で必死にそれを辿る。
 ……鈴がいたのは凹凸が激しい岩場の合間だった。鈴はそこに、ひどく震えながらただ突っ立っていた。そこは、何も危険そうな場所じゃなかった。一帯をライトで照らせる限りの範囲、危なそうな岩の裂け目や沼とかがあるわけでもなかった。僕と鈴は、危なくもない場所でただはぐれただけ。薄暗くなりはじめた中でほんの少しの間、たまたまお互いの姿が見えなくなった、本当にただ見失っただけだったんだ。
「……連ー!」鈴がひどい泣き声と一緒に、別に足場に不安定なところは何も無いのに、倒れ掛かるようにして体をぶつけてきた。そうされて足がふらついたけれど、気にもせずに、僕は鈴を受け止めた。もし倒れたって危ないような場所じゃなかったから。
 僕は鈴の肩を抱きながら、その肩が震えるのと、やわらかい髪とその上のリボンが小さく揺れるのを、やさしい気分でいつまでも見つめていた。安全な姿を見つけて、僕と鈴の、いったいどっちが安心したものか、わからない。
「……さっきは、あんなに平気にしてたのに」僕はその鈴を見下ろして、静かになだめるように言った。今までの光景に打ちのめされていた僕ならともかく、さっきまではあんなに平然として怖がってもいなかった鈴が、なんで急にこんなに恐慌を起こしたんだろう。
「怖くなかったのは、……連がいたからだもの」
 鈴は震えながら、泣き声まじりに言った。
「ここに来たの、外に出たいって思ったのは、今だったら、連と一緒なら、きっと何があっても怖くないって思ったから。……ひとりでなんて、いられないよ」
 僕が鈴の背を撫でたまま黙っていると、
「ねえ、もう……何があっても一緒に、いてくれる?」鈴が僕を見上げて、小さくとぎれとぎれに言った。「こんな星の上で、ひとりにしないでくれる……? 最後のときまで、一緒にいてくれる……最後まで、離れないで」



 夜が明けて、観測施設の生活スペースのベッドの上で、僕は目をさます。夜があける、なんて言っても、暗い雲と霧に覆われた景色には変わりないけれど。
 起き上がって、同じベッドのかたわらの、毛布の下でまだ眠っている鈴を見下ろす。布一枚の下に身を縮めるようにうずくまっている鈴の裸体の線は、ひどく弱々しく、その寝顔の表情も今も不安に覆われているように儚げだった。
 僕は指でその鈴の寝顔の上の、柔らかい髪をそっと除ける。昨夜は、まだ震え続ける鈴と一緒に結局この観測施設までたどり着いて、一夜をともにした。隅々まで暖めあって、一体と化して、つめたい肌が互いに熱をとりもどしたのも、確かに感じた。僕は自分のその熱さをすべて、鈴の中に注ぎ込んだのに。それでも、一夜が明けた鈴の身体、白い小さな肩のかよわい丸みの線は、まだ暖かさを求めるようにうずくまっている。
 どうして寒がるのか――それは、どこに居たって、この施設でも何をしていても、外の死の世界との間には、ただの壁一枚で隔てられているだけだ。その壁がいつ崩れるのか、あるいは、壁の中でも生きていられないようなもっとひどい地獄が、いつ地上に吹き荒れるのかもわからない。それは僕らの、レプリの寿命と同じような、儚い世界だ。
 それは、鈴にもとっくにわかっていたことだった。そんな世界でも、今こうして生きていられる、生き続ける勇気があるのは、二人一緒だからだった。鈴の方はとっくにそうしていた。毛布の下で寝息を立てている鈴は、今も両掌で、僕の手を握り締めている。
 ――外の地表に来て、この死の世界を目にして、ただひとつわかったこと。僕に、この死の世界でこれから生きていく、何かの生きがいがあるとすれば。それは、この鈴を守っていくことしかない。外にあるのが、未来にあるのが、あとに続く生命に僕らが残していかなくてはならないのが、どんな世界だったとしても。鈴を、あるいは鈴との間に生み出されるかもしれない命を、その希望を、守っていくこと、この世界の、僕らの命の、最後のときまで守り続ける、それを僕の生きていく目的にする他にないんだろう。僕らはどうやってもこの死の世界から逃れることはできないし、それ以上に、僕には鈴と共に生きていくこと以外には考えられないから。