ハートワイヤード (7)


 炉心リンはとぼとぼと、環境建築物(アーコロジー)の廊下を歩いていた。さきに倉庫の廃棄物の中から見つけたナイフを見つめる。ホサカ・ファクトリィ製の高周波震動ナイフだ。……再び黒レンと共にさまよう生活に戻れば、補給は何かと期待できないので、できればこれよりもさらに原始的な道具の方がいいのだが、今の弱った自分の力で有効な武器として使えそうなものは、これしか無かった。
 ベランダに出た。風景をしばらく見つめてから、ナイフをブーツにしまい、外を見下ろした。雨こそ降っていないが、空は暗く、濁りきっていた。その下にある薄暗い地上が、今日、これから出て行く光景だ。炉心リンはその《千葉(チバシティ)》の街並みと、あてもなく歩くだろうその彼方の道を、下に探そうとした。
 ……しかし、その視線が地平近くまでさまよったとき、炉心リンのニコン製の義眼(サイバーアイ)がとらえたものがあった。明らかに、こちらに向かってくる物体がある。
 サイバーアイがその大きさと速度を割り出し、炉心リンの電脳がそれが何かの推測に至ったとき、リンは愕然とした目で、それが近づくのをしばらく見つめ続けていたが、不意に、廊下に向かって駆け出していた。
「何が来たって!?」息を切らせてアカイトとミピンクの居室に飛び込んできた炉心リンに、アカイトは驚愕して言った。そのリンの慌て方と、怪我を押して、自分達の方にそこまで急いで走ってきたことに、心底驚いているようだった。
「あたしたちを追ってきた連中」炉心リンは息を整える間もなく言った。「大型ガンシップ(攻撃ヘリ)。3機」
 アカイトとミピンクは思わず窓の外を見た。かれらの方の義眼(サイバーアイ)がどれほどの性能でどこまで判別できるかはわからないが、人間の肉眼だとしても、何かの飛行物体は判別できる距離まできていた。
「どこのだ、ありゃ!? あんなものを寄越すような追っ手なのか!?」アカイトは叫んだ。「教えろよ、どういうこった! 一体なんてもんに追われてんだよ!」
 炉心リンは答えなかった。知らせたくない。巻き込みたくない。アカイトが『チハヤ生命工学』のことを知ってしまえば、リンとレンが逃げた後も、関わった、として狙われるかもしれない。
「……逃げて」
 炉心リンはただ、低く言った。
「ミピンクと一緒に、先にここを逃げて。きっとあいつら、あたしたちだけじゃなくて、あんたたちも平気で殺すよ」
 ミピンクがびくりと身を震わせて、アカイトの手にすがりついた。炉心リンたちを拾ったときと同様に怯えていた。
「だから何なんだあいつらはよ……」アカイトが戸惑って呻いた。
「ねぇ、リン、一緒に逃げなきゃ」ミピンクがアカイトの手を抱くようにしたまま、炉心リンに言った。「みんなで一緒なら、レンを運んで逃げられるよ」
「……いや、みんな、今から逃げてたってきっと無駄だ」アカイトはうめくように言った。「どこに逃げるってんだよ。兵装を満載したガンシップだぜ」
 アカイトは窓ぎわに隠れるように、まだ遠い外の飛行物体を見た。満載の武装パイロンと、そのうちひとつに武装のかわりに3機ともが積載しているコンテナが見える。コンテナひとつごとにおびただしい数のオートマトン(自動殺戮機械)を搭載しているものだ。
「ありゃ、この辺りの生命反応をまるごと消すとか、そういうつもりだ。なんでそこまでしてくるかわからねぇが……並の破壊力じゃ、このホサカの環境建築物(アーコロジー)は壊せねぇが、どのみち、オートマトンをこのへんにばらまかれたり、建物に侵入されたら、防ぎようがねえ。お前とレンも、オレ達も、今から全力で逃げたって、逃げられやしない」
 黒レンを連れていこうとすれば、炉心リンが逃げるのは困難だ。それは、昨日までの炉心リンにもわかっていた、うすうすは予期し、覚悟していたことだ。……だが、炉心リンが覚悟すらしていなかったのは、あんなものが来れば、レンがいないとしても、一人ずつ逃げようとしてさえ、決して誰ひとり逃げられないということだった。アカイトとミピンクが生き延びる方法さえ、もうない。巻き込みたくない、などと、昨日になって気づいても手遅れだったということなのか。炉心リンはどこで、どの時点で気づけば、決断すればよかったのだろう。
「――最初から、助けなけりゃよかったんだよ」
 その声に3人が振り向くと、黒レンが居室の扉によりかかるように立っていた。炉心リンの様子に気づいたか何かで、病室からここまで歩いてきたらしい。
「全部手おくれだよ。……最初からおしまいなんだよ、オレ達」
 黒レンはまだ痛みと衰弱の激しい荒い息の中から、弱々しく言った。
「最初から、そんなオレ達に関わったのが間違いだったんだよ。見ろよ……そのせいで、あんなのが来たんだぜ? ……オレ達を助けた時点で、アンタたちも一緒にまきぞえに死ぬって決まったようなもんなのさ」
 アカイトは、その黒レンの言葉に愕然としながら、ミピンクを見下ろした。ミピンクは顔を覆っていた。
「私のせい……?」嗚咽の中から言った。「私のせいで、みんなおしまいなの……?」
「違うよ、レン」
 そのとき、炉心リンが低く言った。
「今、レンがこうしてるのだって全部。生きてるのだって、助けてもらったおかげでしょう」
「たしかに、今生きてるよ……けど、だからって、どっちでも同じだろ……?」レンは力なく窓の外を見上げた。「今生きてたって、すぐに死ぬんだぜ、オレ達……」
「違うよ、レン」
 炉心リンはさびしく目を伏せて言った。
「すぐ死ぬかもしれないから。明日も無いかもしれないから。……だからこそ、今は、今日は生きてること。今日できることをすること。それに値打ちがあるんでしょう」
 たとえ次の瞬間に死ぬとしても、今を後悔しなくて済むことをすること。
 ミピンクも、そう考えて自分たちを助けた。それが無駄だった、誤っていた、そのせいで彼女とアカイトと全員の死を招いた――そんな結果で終わらせはしない。決して終わらせてはならない。
 なぜ、炉心リンはミピンクのその言葉を守りたいのか。それは自分でもよくわからないが、おぼろげに、そのミピンクの言葉の中に、こんな炉心リンがこれから生きるための光が見えると思うからだ。
 炉心リンはまだ死んではいない。心も死んではいない。黒レンの方は深い傷がすでにその心を殺していたとしても。そんなふうになってしまった黒レンを守ることも、黒レンにはもう見えない光を見つけることも、炉心リンにはまだできるのだ。できるものが残っていた。



「ねえ、兄さん」炉心リンはアカイトを振り向いた。「カウボーイなんでしょう……格子(グリッド)から、電脳空間(サイバースペース)からやつらをあしらえないの」
「いや、オレはカウボーイなんかじゃねえし」アカイトは戸惑って言った。「だいたい、格子(グリッド)で追おうにも、奴らが何者なのかさえもわからないんだぜ」
 そのとき炉心リンは、ためらいもなく言っていた。
「あれは、『チハヤ生命工学(バイオラブズ)』の連中。あたしらが逃げてきた相手はそれ、財閥(ザイバツ)よ」
 ……アカイトは目を見開いて、炉心リンを見下ろした。その驚愕は、リンが言ったことのあまりの重大さ、財閥(ザイバツ)を敵に回して追われているということのあまりの重さに、そうせずにはいられないものだった。
「あたしたちは、チハヤ製のバイオロイド」炉心リンは、そのアカイトの疑念に答えるように淡々と言った。「『自称マスター』の人間のひどい扱いから逃げてきて、その『マスター』と警備の人間を皆殺しにしてきたの。たぶん、チハヤは製品の回収処分とか、あとあとの製品の評判のために、まだ追っかけてきてる。あたしたちの始末、処分に」
「……それはわかった」アカイトは、しばらくして口を開いた。「だが、なんでそれだけで、2人バイオロイドを始末するだけのために、あんなのを3機も持ち出すんだ? いくら財閥が容赦しないっていってもだぜ。……それに、チハヤってわかったところで、ますますどうにもならねぇ。財閥に、怖いものなんてないぜ」
「ううん、やつら、怖いものがあると思う」リンは淡々と続けた。
「何だ……」
「『ホサカ』」
 黒リンは目を伏せて、その言葉と共に思い出す痛みを感じながら言った。
「あたしとレンをこんなふうにした、チハヤの企業傭兵――全身改造した特製(スペシャル)が、――『ホサカ』のスピナーが通るのを見たとたんに、退却を命令されて、あたしたちを放って帰った。……きっと、チハヤ生命工学は、ホサカだけは怖がる理由があるんだと思う」
 アカイトは少し考えてから言った。
「企業抗争中なのかもしれねぇな。……千早(チハヤ)一族グループといや、世界でも中位以上の帝国だぜ。チハヤの連結を全部あわせれば、一時のテスィエ=アシュプールや、アラサカ・カンパニーや、分裂前の渕(フチ)くらいの規模はある企業だ。だけど、こいつらも、ホサカ・ファクトリイから見れば、一部門の年間投資くらいの規模でしかない。本気でホサカが拳を振り下ろせば、相手にならねぇ。チハヤが、何かホサカの機嫌をそこねてる事情があるとすれば、やつらの拳を今なにより怖がってるだろうな」
「ここ、元々、ホサカ・ファクトリイの建物なのよ……」ミピンクが、かすかに嬉しいことを打ち明けるように炉心リンに言った。
「だけど、そのホサカに廃棄されてるんだろ……」椅子に半ば横たわっている黒レンが言った。「見捨てたんだよ。ホサカが助けに来てくれるとかじゃない」
 アカイトは黙り込んだ。だがそれは、今取れる策を考えているというよりも、すでに思いついているが、それを口に出すのをためらっているように見えた。
「いや、……手はあるかもしれねぇ」
 やがて、アカイトは口を開いた。
「今、リンが言ってた格子(グリッド)だ。この環境建築物(アーコロジー)の電子システムをごまかして、今もここに残ってる、ホサカの防御システムが起動すれば。抗争中のチハヤがあれだけ武装して介入してきてるって、ホサカの社の片隅にでも勘違いさせれば。ホサカをだまして動かせるか、チハヤを誤解させられるかもしれねぇ」
 アカイトは喋りながら決心を固めたのか、すでにためらいもない様子で、机の下からオノ=センダイの電脳空間(サイバースペース)デッキを引き出した。
 炉心リンはその姿をしばらく見つめてから、黒レンの横たわる椅子のそばに寄った。黒レンは、なかば横たわるような姿勢で居室の長椅子に深く掛け、諦めたように目を閉じている。炉心リンはただ、その黒レンの腕に手を置いた。



「ねぇ、アカイト……」ミピンクが、オノ=センダイの前に座って操作を始めているアカイトのそばに歩み寄り、やがて、動きの少ないその肘のあたりの袖を掴んだ。
「あらかじめ言っとくぞ、よく聞いとけ」アカイトが自分のインカムの没入(ジャック・イン)端子にコードを繋いで言った。「これからオレは、電脳空間(サイバースペース)側から、この建物のホサカのシステムを欺瞞する。成功すれば、ホサカがチハヤを敵と認識して、追い払ってくれるかもしれない。失敗すれば――」アカイトは言葉を切り、わずかに息を飲み込み、「ホサカの企業ICEに捕まれば、オレは脳死(フラットライン)だ」
 ミピンクは無言で、そのアカイトの横顔を見つめた。
「そのときにICEには捕まらなかったとしても、それが原因でホサカに見つかるかもしれねぇ。そうなったら、あのホサカの”さらりまん”がここにやってきて、オレは消されるかもしれん。……そうなりそうなときはさ、おまい、すぐにあのふたりと一緒に、ここから逃げろ」
 ミピンクは黙って、首を振った。涙が落ちた。逃げたとしても、おそらくその後の望みはない。どちらにせよ、アカイトが死にかけたときに、置いて逃げるなど、ミピンクにはできはしない。
「泣くなよ」アカイトは首だけ振り向いてから、ミピンクの頬の涙をぬぐった。「おまいが決めたんだろ。あいつらを拾ったときに。あいつらを守るって、死なせないって。そのときに決めたんだろ。――なら、後悔だけは無いようにしようぜ」
 ミピンクは無言で、ふたたび背を向けたそのアカイトの背中に、子供のように腕を回した。ただ、じっとアカイトの背に顔をうずめて、頼り切ったような、「……んぅー」というような声を出すだけだった。
 アカイトの操作で、環境建築物(アーコロジー)の緊急用の窓のシャッターがおりた。室内は、昼間省電のために明るくできない薄暗い照明と、空調の音だけになった。
 机の引き出しの奥のテープをはがす。そこに止めてあるのは、軽機関銃の弾倉のような、黒い塗装の小さな金属製のROMユニット。ずっととってあった、アカイトのなけなしの、はかなく無力な、だがとっておきの幸運のお守り。たった1回限りの、中国製”砕氷兵器(ICEブレーカ)”プログラム。その塗装の剥げた縁を、指で手で一度なぞってから、オノ=センダイのスロットに放り込む。
 没入(ジャック・イン)した。
 おしよせる銀色の潮が居室の風景を押し流し、それはマトリックス空間の格子(グリッド)の完全な青の天地(あめつち)にとってかわる。アカイトの前には見慣れたホサカのICEの電脳防壁、恐ろしげな逆棘を伸ばした堅牢強固な氷の壁が不気味にそびえ立っているが、今は、目の前のその距離は急速に近づいていた。今のアカイトは、氷破り(ICEブレーカ)プログラムの突入機関(ブレイキングエンジン)、巨大な幾何図形でできた弾丸のように飛翔する物体の上を、サーフボードのように操って突進していた。バイナリ数学のヴードゥー魔術、氷破りプログラムの展開する似非(グリッチ)システムが、波濤のようにその先端で渦巻き荒れ狂い、ICEが周囲に帯びている情報流の障害を逸らし疾走してゆく。
 おびえて近づきもしなかった、見るだけだったホサカの致死性のICEに向かって、アカイトはいまやためらいもなく突き進んでいる。なんで、あんなものをこわがる。いくら危険だろうが、動きもできない、廃棄された氷じゃないか。
 氷破りプログラムの与える恐るべき機動力は、目の回るような旋回を立て続けて氷の結晶の逆棘の外壁の守りをやすやすと潜り抜け、ホサカのICEの氷の中枢めがけて突き進んだ。その電脳空間内のアカイトのどこか遠くにある物理の肉体が、身じろぎもせずに勝負の一時、破滅の瞬間を待っている。



(続)