ハートワイヤード (6)


 何日かして、まだ外に出られない炉心リンにはあまり関係ないが、雨があがった。有害物質の雨がしばらく降らず、空気が綺麗になってきた。炉心リンは何となく清浄さを求めたくて、環境建築物(アーコロジー)の大きな浴室に湯を通し、体を洗おうと思った。
 鏡で全身を見るのはここに来てから初めてだったが、傷跡はまだ生々しかった。包帯のいくつかはまだ取れない。なかなかその鏡の前から離れられなかった。
 しばらくして、体を洗おうとしたが、痛みや突っ張りが多かった。シャワーヘッドをタイルの上に取り落とし、浴室に響いたかなり大きな音に驚いて、しばらく呆然としてしまった。ややあって、拾おうとしたが、痛みのためにうまく屈めなかった。
「ねーぇっ、入っていい?」
 突如、ドアの外から声がした。
 炉心リンは振り向いた。今のシャワーヘッドが落ちた音で気づいたのか。「何なの?」
「体洗ったげるよー」
 炉心リンは小さくため息をついた。「手早くしてよ」
 ミピンクが、ぱたぱたとタイルに素足の音を立てながら、浴室に入ってきた。
 何気なく、湯気ごしにその肢体を見る。たとえば”初音ミク”と”鏡音リン”型の義体の設定年齢ならば、2歳ほどの差でしかないはずだが、このミピンクと炉心リンでは、同じ人間型にさえ見えないほど体つきに差があった。ミピンクの裸体は、炉心リンと同じくらい細く、全体としては別に豊満ではないが、細さに対する胸と腰周りの肉の豊かな張り方が、女性的な曲線を極端に強めている。座っている炉心リンの目線の前を、歩いて横切るミピンクのその腰周りが通るのを、何気なく見つめた。くびれた腰から形よい曲線を描く、豊かながら締まった絶妙なヒップラインとむっちりとした太股にかけて、さらに、歩くときのそれら下肢の肉付きのしなやかで瑞々しい曲線の流れ方は、普段から服の上から見ても思わず目を引いていたが、まして裸体の体の線で見ると、同性でさえ目が吸い込まれる気がする。
 リンは意識して目を離し、黙って背を向けた。何度か横切って石鹸や湯を持ってきたミピンクは、気の抜けるほど無邪気な鼻歌を歌いながら、炉心リンの体を洗い始めた。傷にしみないようにか、柔らかいスポンジで強くこすらずに、泡で汚れを浮かせるように洗ってゆく。ミピンクのわずかな動きごとに、みっちりした肉付きが小刻みに動いた。普段から機敏なリンと比べると、ミピンクの普段の挙措は全般かなりゆるやかだが、肌の動きには驚くほど弾力というものが感じられる。ミピンクの肢体の曲線は柔らかそうというよりも、何か挑発的で、三次元的で、生々しく、ロボットやアンドロイドに感じる薄っぺらさとは無縁だった。
 ……ミピンクが『高位AI』のアスペクト、”人間以上の存在”の下位の端末ならば、人間の奴隷でもなく、その肉体は人間のために作られたものでもない。では、この魅惑的な肢体は、一体誰のためのものだろう。アカイトだろうか――アカイトとミピンクはどんな関係なのだろう、とふと考える。
「……ありがと」洗い終わったと思って、炉心リンは素っ気なく言った。
「ううん別に、私がやりたかっただけだからー」そう言いつつ、ミピンクは前に回って洗い続けた。もういいと思ったが、顔には出さず、存分にやらせておいた。「本当はアカイトにでもこういうのやってあげたいんだけどねー」
「どうせそんなことだろうと思った」リンは平坦に言った。
 しばらくしてミピンクは、炉心リンの手が突っ張って届かないあたりを洗いながら言った。
「ねぇ……あのね、聞いていい? 怒らない?」
「何を」
「あのもうひとりの子だけど……レン?」ミピンクは炉心リンの体の線を追うように見つめながら、動揺を隠しもせずに手を止め、「あの……あの子とは、その、イイ関係なの?」
「イイ関係って?」炉心リンは素っ気無く返した。
「そのー、どういう間なのかとか、その、いいとこだったら、どこまでしたのかとか、プラトニックとかキスまでとか、それとも、男女の関係まであるのかとか」
 ためらいがちに言っているようで、とんでもなくぶしつけである。この女は、なんでこう平然とひとの中に入り込んでくるのか。炉心リンは心底呆れたが、顔には出さない。
「あるよ。その関係まで全部」炉心リンは素っ気なく言った。
「……はぁーあ」
 それを聞いたときのミピンクが驚くか興奮するか残念がるか、どれなのだろうかと炉心リンは予想していたが、ミピンクは予想のどれとも違う、何か非常に複雑な表情をした。
 中腰のミピンクは、向かいに座っている炉心リンの、すでに洗い終わったはずの下腹から腰周り、さらには前に伸ばされた両足の付け根の方にそろそろと目を走らせた。
(オトコを受け入れたら、体質とか体形とか、オンナの部分とかが全部変わるって本当なのかな……)
「何見てんの?」炉心リンは素っ気無く言った。
「え、うん、あの、そうだ洗い残……いややっぱりなんでもない、なんでも」ミピンクは口ごもり、慌てたようにまた背後に回った。
 炉心リンは呆れたように、続いてミピンクがまた洗い始めるのを待つように、無表情を続けた。
「あーあ」ミピンクは、もう一度嘆息したようだった。
 やがて、洗っていた炉心リンの両肩に手を当てて、うなだれるようによりかかった。肢体の豊かな部分の柔らかみが押し付けられ、重みがリンの全身に感じられた。それはいいが、よりかかるというのはどうなのだ。怪我を配慮したから洗いにきたのではなかったのか。
「いいなぁー羨ましいなぁー」ミピンクがそのまま声を出した。
 リンはわずかに首を回した。「あんたとアカイトの方は、深い関係じゃないの?」
「深いっていえば深いんだけどー、いいコトになることもあるんだけどー。なんでもしてあげていいとかいうのとはちょっと」ミピンクは嘆息して言った。「うまくいくこともあるんだけどー。こんなふうに押しかけて洗ってあげたりとか」
「結局、アカイトにもしてるんだ」炉心リンは呆れたように低く言った。
「アカイトに、こうやって洗ってあげるでしょー。あんまり見ないでねー、とか言いながら」
 ミピンクはまた前に回り、中腰で、炉心リンの下腹部あたりを洗った。その手が動くたび、かがんだ前かがみから形の良い双丘と、ことにその尖端が小刻みに揺れて見えるのを、炉心リンは怪訝げに見つめた。
「で、わざとじゃなかったんだけど。こうやって、両膝そろえてたのがー」ミピンクはその中腰から、なかば腰を浮かせてみせた。「こう立とうとしたときに、アカイトの目の前で、こう、膝が、がばぁっ、て開いちゃって」
 炉心リンはそのミピンクの姿態から、思わず顔を引いた。
「その瞬間、アカイトが大暴発。こっちは顔面ベットベト」
 炉心リンはあとじさるように身を引いた。そんなことは、自分と黒レンの間にもあったためしはない。
「今考えてみたら、大暴発さえなければその直後にも最後までヤっちゃえたと思うのよねー。あの直後はふたりともなんか顔も見れないまんま」
 ミピンクは嘆息し、また炉心リンの肩に手をやってうなだれた。炉心リンは、今の話に何をどう反応もしようもないので、されるままにされるしかない。
「……そっちはうらやましいなー、いい関係で一緒で幸せでー」またミピンクが呟いた。
「あたしには、あんたたちの方がよっぽど幸せに見えるけど」
 たとえ人間でないとしても、明日のくらしもわからないとしても。アカイトとミピンクには住むところがあり、当面安泰な生活がある。自分達のように追われてもいない。何よりも、こうやって語る今のミピンクの様子も含めて、かれらのそういうばかばかしい日々のすべてが、幸福そうだった。
「うん、まあ、私らが不幸せってわけでもないんだけど」ミピンクは何かを思い出すように、小さく微笑んだ。「でも、やっぱり羨ましいよ。他に何があったって。どんな心配なごとや、怖いことがあったって。――それでも、大事な人がいて、お互いに何でも許せるのとかって、そっちの方がずっと幸せだよ」
 炉心リンは黙って、その笑みを見つめた。炉心リンが普段から、彼女を幸福と思うその表情だった。その笑みが自分と黒レンの方が幸福に見えると言った、それを炉心リンは思い返しながら見つめた。



 浴室から”病室”に戻ってきた炉心リンは、中で話す声を聞いて、病室に入る前にふと足を止めた。
「なぁ、兄さん、あんたさ、カウボーイなんだろ。”その手の秘蔵ソフト”とか、手に入れて無いのか……」
 病室の中からは、寝ているはずの黒レンの声がかすかに聞こえてきた。
「寝たきりじゃ色々と、恋しくってさ……」そういう黒レンの言葉は、寝たきりの頃からはかなり元気が戻っているように聞こえる。「なぁ、少しはあるんだろ、裏物無修正の擬験(シムスティム)とかさ」
「簡単に言うなよ」黒レンと一緒の部屋の中で答えたのは、アカイトの声だった。「カウボーイなんて、そんな大層なもんじゃねぇし。オレはただの操作卓(コンソール)ジョッキイだよ」
「けど、すっかりジョック(健全模範青年)なジョッキイ(騎手)、ってわけでもないんだろ……」レンの声が続く。「ナード(不健全青年)のイタズラ以上には、仕掛け(ラン)られんだろ」
「いや、探したりデッキで手に入れる自体よりもな、難しいことってのがあんだよ。……むしろ、ヤツに、ミピンクに隠れて入手することと、あと、保管場所とかな。電脳空間デッキも、備え付けのホサカ・コンピュータもヤツとの共用だし」
「ああーそっか」黒レンは悔しそうに言った。
「……だが、まあやってみてもいいか」アカイトの声は、少し考えてから言った。「ひょっとすると、これからは、何とかなるかもしれねぇぞ」
「何がさ?」
「協力しろ、ってことさ。男2人がかりで全力でやれば、隠しおおせられるかもしれねぇ。入手とか、隠し場所とかな。デッキの叩き方も教えるぜ。起きられるようになって、お前のその手がまともに使えるようになったら、いけるかもしれねぇ」
 しばらく、レンは沈黙した。
「あと、そもそも、そういうネタを仕入れたって、それを役に立てるには、お前、自分の”その手”が必要だろ」アカイトは何かやけに大真面目で言った。
「何のその手だって?」炉心リンは病室に入りながら言った。
「うげっ!」
 アカイトは漫画じみた叫び声と仕草で、飛び上がるように振り向いた。
「いや、その、アレだ、オトコの約束をしてたとこだ」アカイトは口ごもってから、黒レンを指差し、「いいな! 約束があんだから、早くよくなれよ! そういうことだ」
 アカイトが慌てて去ってしばらくしてから、ベッドに腰掛けたままの黒レンは、力なく笑った。
「……約束したことにされちまったよ」
「もう立てる?」炉心リンはベッド際に歩み寄って言った。
「歩くだけなら、もうなんとかなりそうだな」
 そのまま、しばらく沈黙がおりた。
「あたしもまだ、体が楽ってわけじゃないけど」やがて、リンが思い切ったように口を開いた。「――もう出ようよ、ここ。明日の朝あたりにでも」
 またしばらく、沈黙が続いた。
 ベッドに掛けて視線をおろしたままでも、黒レンの絶望の表情はよく見える。……この環境建築物(アーコロジー)を出ても、生き延びられる望みはない。だが、ここにいたとしても、いずれは炉心リンと黒レンは、チハヤ生命工学の手の者には見つかってしまう。一日でも早く、逃げ始めなくてはならない。
 黒レンにもそれはわかっていると思えた。それでも黒レンには、その逃亡生活に戻る思い切りがつかないのだ。それも無理はない。あのとき黒レンがチハヤの傭兵から受けた心身の傷と、覚えた恐怖は、炉心リンのそれよりも遥かに重いものだからだ。
 だが、思い切って炉心リンは言った。
「居れば居るほど、ますます出られなくなるよ。ここに居ると――楽だから」
 楽というのは、怪我している体での生活が、という意味だった。例えば、ここから出て2人きりになれば、食べるのも寝るのも、大変な苦労をすることになりそうだ。……だが、黒レンが押し黙ったのは、もっと別の意味での楽と受け取ったのではないかと、炉心リンは思った。ここに住むこと、あのほかの1組の男女と居ることそれ自体で。心に感じる、楽になる、ということ。
「このままじゃ、巻きこんじゃうよ、ふたりとも」やがて、炉心リンは言った。「企業が――チハヤが、あの企業傭兵が言ったとおり、人間の命さえなんとも思わないんだったら。だいたいアカイトもミピンクも、人間じゃないし。ついでに巻き込まれちゃうかもしれない」
 いざとなったとき、例えばアカイト、ミピンクのどちらかの生命が危険に陥ったとき、あのふたりがリンとレンをチハヤに売ってしまわない保障があるだろうか。仮にそうしたとしても、もうかれらを憎みはしない、責めはしない。不可抗力としてありえることだ。だが、そんな事態、ふたりとのそんな別れ方だけは、なおのこと避けたい。
「また2人きりで。一緒には居られるよ」黙り込んでいる黒レンに、炉心リンは言った。今すぐ逃げれば、少なくとも、死ぬまでのわずかな間、レンと離れないで一緒にいること、その望みだけはかなえられる。
「ミピンクがさ、あたしたちが”幸せ”だって」炉心リンは、ここに来るまで黒レンに話すかどうか決めていなかったことを、なかば独白のように、自然に口にしていた。「……あたし、レンとさえいれば幸せだって。そう思えそうな気がする」
 またしばらくの沈黙が流れた。
 レンはうつむいて、何も答えかね、決めかねているようだった。……リンは小さく息をつくと、ベッドの上のそのレンの方に身をのりだした。ズボンの上から、軽く指で撫でた。
「何だ?」レンは少し戸惑ったようだった。
「さっき話してたでしょ」リンは緩く微笑んだ。「ずっと寝たきりで、辛いって。いいこと、してあげる」
「手が、指がまだぜんぜん動かないんだぜ」黒レンは苦笑して、両手を出した。旧『渕(フチ)』製の義手(サイバーハンド)。もう遠い昔のことのような気がするが、かつて幾度となく炉心リンを抱いてくれた黒レンのあの”手”は、もうこの世に無い。今の義手もまだほとんど適合しておらず、文字通り、まだ”黒レンの手”にはなっていない。
「だまってて、じっとしてて」
 炉心リンの指がしなやかに黒レンの男性を愛撫した。リンはそれを熱い吐息の中に含んでから、咥え、口腔をからみつけ、愛撫するように舌を這わせた。レンの呻きと共に迸る精気を、喉に受け入れた。
 レンの上になって腰を浮かしてから、その猛る欲望の塊を、体の奥まで受け入れた。レンの戸惑いの混じった表情が、やがて愉悦に押し流されていくのを見おろしながら、緩やかに動き、快楽に身をゆだねて、レンの上で乱れ狂った。今のリンを情欲に馳せさせるのは、以前のような、破壊の後のやるせない体の残り火ではなく、もっとリン自身の裡から静かに湧いてくるような、淡い熱だった。



(続)