ハートワイヤード (5)


 降り続いていたじっとりとした雨が途切れたその日、炉心リンは環境建築物(アーコロジー)の途中階の廊下から、続くベランダに出た。どれだけ動けるようになったか、歩いてみた。だが、外気を感じられるところまで出たところで、足もとがふらつき、すぐに手すりによりかかった。脇腹の痛みがまだ耐え難い。
 一日でも早く、ここから逃げ出さなくてはならない。いつまた『チハヤ生命工学』の手のものが追いついて、襲ってくるかわからない。……しかし、自分がまだこの有様では、黒レンの方はなおさら動けないだろう。炉心リンは手すりにつかまったそのままで、しばらく無言でいた。
 と、廊下の方、階下から上がってくる足音がした。
「ねーぇっ、やっぱりスティムとか買おうよっ」例のピンクの女の甘ったるい声。
「擬験(シムスティム)ソフトが何になんだよ」例の赤い男の呆れたような声が続いた。
「えー、あのふたりのためー。前にアカイトが教えてくれたでしょー? たしか、スティムって元々、動けない入院患者が、いろんな『擬似体験』で楽しめるように作られたのが最初、だとか」
「そりゃわからんでもないが……明らかに、単におまいが暇にまかせていろんな擬験ソフトを欲しいだけだろーが」
「違うってばぁー」反駁する声は、猫なで声になり、「私はアカイトさえいれば、いつも楽しいし、いつも退屈なんてしないもんっ」
「……”退屈しない”のあたりがちっとも嬉しく聞こえないのはなぜなんだぜ」
 声が近づくと、大またに歩くアカイトと、その腕に甘えるようにしなだれかかりながらぺたぺたと小またに歩いてついていくミピンクの姿が、廊下に現れた。
 と、ミピンクはベランダの炉心リンの姿に気づくと、いきなり駆け寄った。
「立ってる! 駄目よ、まだ寝てなさいよ――」ミピンクは炉心リンを助け起こそうとでもいうのか、手をさしのべた。
「うるさい」炉心リンはとげとげしく言った。「命令するな」
 ミピンクは少し驚いて、手をひっこめるような仕草をした。
 ……しじゅういちゃついているこの人間たちは、炉心リンは見るほどに、いや、一緒の建物に居ることを考えるだけでもむかつく。
 それ以前に、かれら”人間”というものに対しては、信用できる要素がひとつもない。炉心リンも黒レンも、人間といえば、『マスター』などと自称して”人間の持ちモノ”の立場を強制してくる手合いか、殺しにかかってくる連中しか知らないのだ。
「ほっといてよ、あたしたちのことなんか」炉心リンは、ミピンクが立ち去る様子を見せないのでさらに言った。「あたしたちが回復しようがしまいが、あんたには関係ないでしょう」
「関係ないって……なんで!? 関係あるよ!」ミピンクはたどたどしく反駁した。「ここまで助けたのに……家の前で倒れてたのに、無関係だとか……ここって、私達の家だし、アカイトががんばって色々そろえてるんだから……だから、その中に住んでる人達の怪我だとかも……」
「その家に勝手にひっぱりこんだのもあんたでしょう」炉心リンは、要領を得ないミピンクの台詞を遮った。「あたしらに構ったのも、あんたが勝手にやったことでしょう。そのせいであんたがひどい目にあったり、巻き込まれたって、あんた自身のせい。選んだあんた自身が悪いのよ」
 その言葉がよっぽど意外だったらしい。ミピンクは言葉をつげないまま、漫画のような大雑把な不可解の表情で炉心リンを見つめた。
 炉心リンは胸がむかついた。どうせ、この女はリン達を助けて気分がいいとでも思っているのだ。チャラチャラといちゃついて暮らし、そして、どう考えても興味本位で、しかも自己満足のために、親切のための博愛などと口先だけのものを押し付けてくる。あの『自称マスター』と、寸分たがわず同じだ。所詮は同じ”人間”だった。
「……いや正直、オレ達だって、厄介はしょいこみたくねぇ」黙り込んでしまったミピンクの後をひきとって、隣のアカイトが口を開いた。「けど、だったらなおさら、このあたりで行き倒れられたって困るんだぜ。……まあ、干渉されたくないって、そっちの事情があるんだろうがよ……けど、その事情もなんも話してくれないし、オレ達には何もしようがねぇ」
 炉心リンはアカイトの方を見もせずに無言を続けた。あれ以来も、このふたりには一言も自分達の素性や事情について話していないが、それは、この連中に対する反感ばかりでもない。この連中からうっかりチハヤ生体工学に情報が漏れるかもしれないし、それ以前に、この連中がリンとレンの周りの真相を知って、どれだけひどいものに関わったか知れば、炉心リンと黒レンをあっさりとチハヤに売りとばすのは確実だと思った。
「だってぇ……そんなふうに助けをつっぱねるとか、無理してたら、また怪我しちゃうよ……?」またしばらくして、ミピンクがぶつぶつと炉心リンに言った。「ひとりきりで何でもできる、とか、好き勝手できる、とか言ってたら、せっかく治っても、また前と同じことになっちゃうんじゃないの?」
 リンはぎくりとした。
 だが、その心中を押さえ込んで、吐き捨てた。「……だから何なのよ。あたしがどうなろうと勝手でしょう」
「でも……アナタがそんなことやってて、あのもう一人の子は大丈夫なの?」ミピンクはためらいがちに、だが心配げに言った。「もっとひどいことになってるのに――」
 黒レンの話を出されて、炉心リンの頭にかっと血がのぼった。
「うるさい。あんたに何がわかるの」
 リン達が自分達の力を過信したせいで、この有様になったこと。リンがどんなに強気に出たところで、レンを守れなかった事実。
 ――だが、それをえぐられたところで、この女はどうせ理解した上で言ったのではないのだ。口先だけで勝手なことを言う。安穏と暮らすだけの人間だからこそ、適当な想像を口に出せるのだ。全て恵まれ、追われてもいない。こんなやつらと何を話したって理解できない。
「さっさとどっか行ってよ」炉心リンはさらに声を荒げた。「それともあんた、あたしの体を治すのに、何かの役にでも立つっていうの?」
 アカイトとミピンクは無言で、再びその廊下の向こうに歩み去った。去り際のミピンクは、ただのふくれっ面、これも大雑把な不機嫌の表情で、それほど深刻に傷ついたようには見えなかった。……こちらが、これほどまでに嫌な気分になっているというのに。それも炉心リンを苛立たせる点だった。



 アカイトとミピンクが去った後も、心が落ち着かず、炉心リンは環境建築物(アーコロジー)の廊下に戻った。自分達の”病室”がわりになっている部屋、つまり今も黒レンが寝ている部屋に戻った。
 黒レンは目覚めていなかった。……炉心リンがこの世で信じられるのはただひとつ、黒レンしかいない。だが、その黒レンは、いまだにときどきしか目をさまさず、意識がない時は悪夢にうなされるようなうめき声を上げ、起きても絶望にむせび泣くくらいのことしかできない存在になっていた。
 黒レンは介護機器の備え付けられたベッドで、今も、苦悶の表情を浮かべたまま眠っている。……ただし今、そのベッドの傍らには、前に二人を傷から助けたストリート・ドク、帯人がいた。どうやら、今日は帯人が来る日で、さっきのアカイトとミピンクは、そのついでに一緒に炉心リンと黒レンの様子を見に来たのではないかと思えた。
「どのくらいで治るの、レンは」炉心リンは帯人に尋ねた。
「なんとか動かせるようになるのは、もうすぐだろうよ」帯人はレンの傷に貼った膚板(ダーム)を張り替えて言った。「だが、それ以上のことは皆目わからない」
 帯人はそのまま処置を続けていたが、やがて、終わったのか手を止めてから、炉心リンを振り向いた。
「早くここから出たいのか? ……どんな事情かは知らないが」
「今日にだって出たい。あんないけ好かない奴らの所」
 炉心リンは帯人の隣、黒レンの横たわるベッドの傍らに膝をついた。
「あいつら人間に何がわかるのよ」リンは、半分独り言のように言った。「こっちがひどい目にあったことなんてわかりやしないのに。むかつく勝手なことばかり言う。恵まれて、毎日をいいかげんに暮らしてる、人間の分際で」
 帯人はそのリンを見て、しばらく黙っていたが、唐突に、まるで予想外のことを口にした。
「あいつらは人間じゃない。――AIのアスペクト、末端システムだ」
 炉心リンはぎょっとして、傍らの帯人を見上げた。
「《札幌》にある”CRV2”と”CV01”って高度AI、莫大な予算と年数をつぎ込んで作られたネット上の情報生命体だが――で、あのアカイトとミピンクは、その芸能用の超AIが、ネットワーク(既知宇宙)上の情報の収集用に作り出したアスペクト(側面;分身)、下位の端末、バリエーション人物像(キャラクタ)だよ。そんな下位端末プログラムが、人間用の義体を駆動させてるのが、あいつらだ」
「そんな……ウソ」
 炉心リンはかすれた声で言った。
「だって、あれ、……人間にしか見えないのに……ありえない」
 特にあのミピンクの仕草、自然で生々しすぎる、官能的でコケットな女性の動き。ロボットの駆動用にプログラムなどできない、出来合いの人物像(キャラクタ)やら何かの複製やらでは決してない、他には2人といない類のリアリティだ。
「それはアカイトとミピンクが、”人間以上の存在”に操られてる、はしくれだからさ。高度AIは、人間ひとり分を丸ごと再現するくらいのことも、それ以上の芸当も、朝飯前だ。それにボーカル・アーティストAIの人物像(キャラクタ)は、精神も仕草も生々しさも、人間以上に極端だ。あいつら、ただの人間にしちゃ、情緒表現がオーバーすぎるだろ?」
 帯人は、やりきれないように肩をすくめ、
「あいつらはそういう高位AIが、世界じゅう、ネットじゅうにばらまいた何千何万の使い捨て下部端末のうち、たった2体だ。たまたま情報収集の必要がなくなれば――上で制御してるAIが、その下位の端末を必要なくなったと思えば、明日にでも、いや、もうこの次の瞬間にでも消去されて、この世から跡形もなく消えてなくなったっておかしくない」
 リンは愕然とした。
「そんな下位端末のうち2体が、はぐれてきて、こっそりこの廃墟の建物にもぐりこんだ。それがあいつらさ。それ以来、隠れて暮らしてる。アカイト、あいつはカウボーイ(攻性ハッカー)で、この建物のホサカの電子システムをごまかして電力とかを手に入れて、なんとか日々暮らしてる。明日にでもヘマをして、ホサカのICE(電脳防壁)につかまって、フラットライン(脳死)するかもしれないし、隠れ住んでるのをホサカの”さらりまん”に見咎められて”産業廃棄物”に変えられるかもしれん」
「あいつらが……なんで……」炉心リンはうめくように言った。「なのに……なんで、あんなに平気で暮らしてられるの……? いつ自分が消えるかわからないのに、どうして、あたしたちみたいな他人に構ってられるのよ?」
「『平気で暮らしてる』、か」
 帯人が言葉を切り、
「ミピンクだが、しじゅうアカイトに向かって言ってることがある。あいつがひたすらアカイトに、あれだけ思う存分ベタベタしてるのは、『もしどっちかが明日でにもこの世から消えたとしても、後悔したくないため』だそうだ」
 炉心リンは呆然とした。



 しばらくして、帯人はまた肩をすくめた。
「……まあ、この建物を出ていったとしても、街の廃墟のこのあたりならどこに行っても同じだ。”人間”なんて、元々ひとりも住んでない。俺も……人間じゃないのは、見てとっくにわかってるだろうが。……戦時のソヴィエト製の余剰人口臓器や義肢をよせあつめて、いちから組み上げられた、屑鉄の人形さ」
 帯人は眼帯を押し上げた。その下、その右目の周囲は、配線とリベットがグロテスクにむき出したちぐはぐな機械で、半壊した光学センサーのひびの入ったレンズには、光はなかった。
「このあたりに居るのはだいたい、似たような奴らばかりだな。”ロボットやアンドロイドは人間を『マスター』と呼んで服従するのが当然だ”とか思ってる人間どもの所から、逃げ出してきたやつらだって、いくらでもいるんだ。"KAITO"やその亜種は『マスター』に気に入られるためなら自傷でも病みでも何でもする、そんな人間どもの妄想の犠牲になった奴らを治したことだってある」
 帯人は何かを思い出すような目をして、言葉を切ってから、
「……何かの影におびやかされながら、明日には食べるものも住むところもあるかわからない。《千葉》のこのあたりじゃ、そんな、次の瞬間もわからないのを、その日暮らしに生きてるやつらばかりさ。慌ててここを出たところで、周りもそういう所だってのは、覚えておくといい」



 帯人が去った後、炉心リンは眠り続けている黒レンのベッドによりかかり続け、やがて、じっとシーツに顔をうずめた。
 どん底の気分だった。心まで濁りきっている、その実感にひしひしと苛まれていた。すでに今までの境遇に自己嫌悪を含めて最悪だと思っていたが、もっと底があった。
 アカイトとミピンク、かれらは、なぜリンとレンを助けたのか。それは今までは、『自称マスター』の偽物の愛情の自己満足と同じように、助ければ自分の気分がよくなるだけの理由なのだと思っていた。
 だが、もはや、そうは思えない。かれら自身が自分達の明日もおぼつかない状況で、気分だけでそうする余裕も何も、ありはしない。――さっきのミピンクの言葉を思い出す。後悔したくないからだ。先の望みがないからこそ、損得も何もなく、今の自分にできることを、ためらいなく行おうとするのだ。
 あのアカイトとミピンクは、明日もおぼつかない最悪の境遇ということでは、炉心リンと同じか、それ以上だった。なのにこれほど差がある、かれらが楽しく過ごし、炉心リンの方がこれほどどん底な気分なのは、傷のせいだけではない。嫌悪に心が汚れきっているか、そうでないかということだ。
 自分があれほどにミピンクにとげとげしく言った言葉の後味が、苦々しく口の中に広がった。炉心リンはその味と涙の苦さの行き場がなく、ただ深くシーツに顔をうずめることしかできなかった。



(続)