ハートワイヤード (3)


 廃ビルの立ち並ぶ《千葉市(チバシティ)》の場末、そこにやや目立つ大きさと高さでそびえ立っているのは、よく見ると、その形状もどことなく他とは異質な建物だった。さらに細部を観察すると、経年による汚れや劣化が、周りと比べて異常なほど少ないことにも気づくはずだった。
 それは、巨大企業(メガコープ)が廃棄した建物で、元は企業環境建築物(アーコロジー;エリート社員専用の完全独立型ハイテク住居)になる予定のものが、諸事情で廃棄されたものだった。大半の機能が停止していても、いくつかの設備――例えば、劣化しにくく頑丈といった元来の建物の特性や、建物内で水や空調などを自己完結的に循環する機能――は利用できた。しかし、いざ実際に、そこにもぐりこんで本当に居住しようと思えば、最低限の居住環境とするには、いささか工夫というものが必要だった。
 今、その居住者である”アカイト”が試みているのも、そうした工夫のひとつだ。それも、わざわざ電脳空間(サイバースペース)に没入(ジャックイン)して行うものともなると、ちょっとした工夫、なる言葉では片付かないかもしれない。
 電脳空間内のアカイトの視覚の前に広がっているのは、格子(グリッド)の平面的な青い空の下に、見上げるばかりの規模に展開された、枝を伸ばす白い氷の結晶からなる城壁だった。目の前のマトリックス空間に視覚化、正確には擬験(シムスティム;全感覚体験)情報化されているのは、この環境建築物(アーコロジー)を制御する電子システムと、その周囲を覆う繊細で危険な、ICE(Intrusion Countermeasures Electronics = 侵入対抗電子機器;いわゆる攻性防壁)のパターンだ。このICEの壁は、かつてこの環境建築物を所有していたホサカ・ファクトリィが情報保護のために張り巡らせていたもので、巨大企業(メガコープ)謹製の強大無比なもの。本来なら、超一流のカウボーイ(攻性ハッカー)ですら、手が出せるような代物ではない。
 しかし、この環境建築物は完全に廃棄された建物なので、ホサカ本社のデータベースとは切り離されており、さらに廃棄されたICEはアップデートされることがない。そして、データベース中には各種のアクセスキーも、さらにご丁寧にもメンテナンス用の道具(ツールプログラム)も残っていた。時間さえかければ、あの停止しているICEに触れないようにしつつ、出し抜く方法も、見つからないでもなかった。
 アカイトはこれまで、この電子システムをごまかして、この廃棄された環境建築物に電力が供給されるようにしたり、幾つかの電子機能が働くようにすることに何度か成功しているが、今のところ、それがホサカ本社に気づかれた様子はない。見つかったらどうなるだろう、と、アカイトはよく考える。別に、不法居住やら窃盗といった”犯罪”ではない。この建物は廃棄されたものだからだ。しかし、ホサカのようなこの時代の巨大企業にとっては、どのみち”法律”はほとんど問題ではない。財力で曲げられるし、かれらには企業利益以外に重要なものは無い。企業利益から見れば、ホサカは廃墟にたかる虫のようなアカイト達――アカイトと、もう一人のここの同居人だ──を、単なる排除すべきゴミと判断するかもしれず、そうなったらアカイト達の存在を、それこそ塵を払うようにいとも簡単に、実体も社会的にも、綺麗さっぱり抹消するだろう。
 そんなことを頭の片隅から追いやれないまま、電脳空間内のアカイトは、ICEの氷の結晶のパターンを、遠巻きにするように眺める。万一、あのICEに”触れて”しまったら。頭の奥にとっておきのプログラムのことがよぎる――闇市で手に入れた中国製の”砕氷兵器(ICEブレーカ)”。今もテープで机の引き出しの奥に止めてある。それは、アカイトの電脳技術では制御も困難なほど強力なものだが、かといってこの巨大企業ICEに太刀打ちする強さには足らず、アカイトにとっては、ただの安心のお守りでしかない。弾丸を撃ちつくして空になった銃でも、その重さを感じていないと、安心して歩くことさえできないようなもの。
 だが、どのみち近づいて、システムをごまかす実際の仕掛け(ラン)を行うのはずっと後だ。連動パターンを解析できるものは解析し、あとで詳しくモニタする。それを元に抜け道を探すのも、ずっと後だ。近寄らない限り、ICEに危険はない。
 ――危険はないわけだが、このときはもうひとつ、邪魔するものがいた。
「ねーえっ」
 今、電脳空間のアカイトからはどこか遠く離れたところにある、アカイトの”物理的な肉体”の方に、柔らかい体が押し付けられる感触が、離れていてもわかった。
「まだ終わんないのぉ?」その声の主は、さっきからも何度かちょっかいをかけてきたが、さらに体を密着させてきた。「すぐ終わるって言ったじゃないー」
 今の電脳内のアカイトの視界情報にも、小さなウィンドウ内に、物理空間の映像を小さくモニタしている。そこに映っているのは、”ミピンク”だ。巷によくある、”初音ミク”型のロボットや義体と同じ姿をして、”ミク”で緑色になっているところが全部『ピンク色』になっている女。細くとも豊かな柔らかみを帯びた体つきから、甘ったるい言葉から何から、一般の”初音ミク”の清純やら無垢やらというイメージとは無縁で、特にそのアタマの中は、髪の色以上に真っピンクだ。
 そのミピンクが手をからみつけているアカイトの腕に、突如、さらに柔らかい感触がした。胸をアカイトの二の腕に押し付けているのだ。
「ああーっ、くっつくな! うっせーな!」アカイトは声を上げた。「ちょっと離れてろよ!」
「なんでぇ? 関係ないじゃない」
 没入(ジャック・イン)している間は、ある意味ではアカイトの物理空間の体の方は無防備だ。その間、そっちの体に対して好き勝手なことをされてたまるか。
「おまい、仕掛け(ラン)の最中だぞ! デッキを叩く手許が狂ったら、”黒い氷(註:ブラックICE;致死性の攻性防壁)”に捕まるかもしれねーんだぞ!」
「仕掛け(ラン)なんてウソ」ミピンクは不満そうに言った。「今回は下見するだけで、時間も危険もないって、さっきちゃんと言ってたじゃない」
 アカイトのズボンの上にするりと手が伸びて、その上を撫でるともまさぐるともつかない、微妙な手の動きが這った。
「ちょ、やめ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
 がくりとアカイトの視界の電脳空間の映像がぶれた。腕がデッキの操作を狂わせてしまったのだと、混乱した頭の片隅が告げた。
「ねーえっ、すぐ終わるんじゃなかったのぉ?」
「おまいが邪魔してるから終わんねーんだよ!」アカイトは怒気を含んだ声で言った。「いいから、ちったぁ離れてろよ……」
「……もぅ」ミピンクは鼻を鳴らすような声を出した。体の方に触れていたその感触が無くなり、ウィンドゥからもその姿も消えた。
 アカイトは嘆息してから、憮然として、ICEに目と意識を戻した。
 ……しばらく作業を続けた後、離脱(ジャックアウト)する。スイッチに手を触れると、格子(グリッド)の光景は幾千もの鏡面状の小片となり、すべてが無数の方向に折りたたまれて弾け飛ぶと、物理空間の光景――質素というよりもがらんとした、環境建築物(アーコロジー)の居室の風景となる。アカイトは目の前の電脳端末、オノ=センダイ社製の電脳空間(サイバースペース)デッキのスイッチを切(オフ)にすると、そこに接続されたコードを引き抜き、コードのもう一方の端を、自分の頭のインカムの没入(ジャック・イン)端子から引き抜いた。
 立ち上がり、体をほぐすように伸びをする。……今の作業のために上着こそ脱いでいたが、アカイトの姿は、巷にこれもロボットやバイオロイドや義体のタイプとしてよくある、”KAITO”の同型だった。ただし、”KAITO”で青色になっているところ、髪や爪やアンダーウェアや、置いてある上着やマフラーやその他のポイントが、すべてくすんだような『赤色』になっている。そして、さえない容貌である”本物”のKAITOとは異なり、するどい眉目と、はるかに精悍な面立ちをしていた。言ってしまえば、それはちょうど”KAITO”の大半の女性ファンが、”KAITO”の公式のさえない姿をことあるごとに”美化”している際のイメージそのものによく似ていた。
 アカイトは頭を振ってから、結局ICEの分析には使わなかった日立(ヒタチ)のモニタを切ると、オノ=センダイを机の下に押しやった。部屋を見回し、やがて居室を出る廊下に向かった。そうしたのは、ヤツの、ミピンクの声を思い出したからだった。あれからどこに行ったのか、気になった。さっきは言い過ぎたかもしれない。今頃ふてくされているかもしれない。だとしても、どうってこともないが――ミピンクは、巷の”初音ミク”型のロボットら、例えばメイド機能などがある同類たちとは違って、徹頭徹尾、何の能力もなく、家事なども何も担当しておらず、アカイトが一方的に養っているだけだ。だから、機嫌をそこねたところでアカイトが困るようなことは何も起こらないが――そのままにしておく、というわけにもいかないと思った。



 しかし、廊下に踏み出したとき、当のミピンクの声が階下から聞こえた。
「アカイトぉー! お兄ちゃん! 来てよぉー! ……ねぇ、ちょっと……」その声は、アカイトの心配していた不機嫌な様子はなかったが、叫び声の間に、何かひどい戸惑いの声が入った。かなりあわてふためいていたが、ヤツは毎度つまらないことで叫ぶ、というか、半分以上は本当に困っているのではなく、わざとアカイトにかまって欲しくて叫ぶだけだ。そして、どちらでもたいてい、アカイトのやることはあまり変わらない。
「……ねぇ! 誰かいるよー!」
「ほっとけ」アカイトは小さく叫んでから、階段をおりて、さほど急がずに、ミピンクの声のする方に歩いていった。誰か、見たことがないような訪問者が来たとして、ここにこっそり住んでいる自分達が、それを歓迎する理由はほとんどない。だとすれば、むしろ、アカイトとミピンクが互いに叫び声でやりとりをして、期せずして訪問者に気づかれるようなことは避けたい。なので、これ以上のミピンクの呼び声を止めるためにも、一応はあちらに向かった方がよさそうだった。
 ――歓迎したくない訪問者といえば、頭に浮かぶのは、ホサカの”さらりまん”。暗い色のスーツ上下に身を包み、中年太りで下腹が突き出し、頭の薄くなった、俸給奴隷(ウェイジスレイブ)。それが、のそのそと歩きながら気弱そうな目で周りを見回すのを、ここの環境建築物(アーコロジー)の壁ごしだが、一度だけ見たことがある。カウボーイであるアカイトが感じ取ったのは、その無害そうな仕草ひとつひとつの中の、ぞっとするような死の匂い。そこにあるのはホサカという巨大企業にたえまなく流れる血流の、その血球のほんのひとつだ。その一見無害な姿は、体の大半が《千葉(チバ)》の槽(ヴァット)で培養されたもので、微細処理装置(マイクロプロセッサ)が埋め込まれ、全身が最先端(エッジ)テクノロジの凶器と化した企業戦士。24時間ぶっつづけで戦い続け、企業の手先として無慈悲に弱者を排除し、搾取し、踏みにじり、そして自分も殉じる尖兵。さきに述べたように、アカイト達がこの元ホサカの環境建築物に住んでいるのは、決して違法でも何でもないが、そんなホサカの”さらりまん”に出くわすことを想像すると、ぞっとしない。
 階下におりて、外に出ると、もう外は日が落ちて薄暗くなっていた。雨はやんだらしい。このあたりは、《千葉》の街の中心と比べると、雲の状態――というより空気の濁りの状態は、少しはましな方だ。
 当のミピンクは、環境建築物の出口すぐの、階段の上に突っ立っていた。この建物の目の前の道路を、今は言葉もなく見下ろしている。その姿が、かすかに震えている不自然さに気づいたアカイトは、早足で自分もその傍らに出た。
 この建物のすぐ前、手入れされていない舗装のはげた私道、その道の真ん中に、泥だらけで倒れている、明らかに人の姿をしたものが二つあった。ミピンクは震えている。どうすればいいかわからないのも当然だ。支えるようにその体に手を伸ばすと、アカイトの腕にすがりついてきた。
「……ねぇ、どうしよう」
 そのミピンクを腕につかまらせたまま、アカイトは倒れているものに近づいた。それらは全身が泥水をかぶっているひどい状態で、まるで津波に流されて岸に打ち上げられでもしたようだった。ここまでたどりついて、力つきたのか。この遭難者に対してかなり重大な点は、アカイトがにわかに気づいた範囲だけでも、大きく分けて二つあった。
 気づいた点のひとつは、この2体が汚れているだけでなく、ひどい傷を負っていることだった。片方は、自分達よりずっと小柄でおそらく若くもある少女で、全身が血だらけで、特に右肩と脇腹の肉がえぐれているのが見てさえわかる。もうひとりは少年で、傷はさらにひどく、――おそらくミピンクにはまだよく見えてないのが、アカイトは幸いだと思った。少年には、両腕ともが無い。しかも、刃物とすら思えない鋭利さの何かで、綺麗に切り落とされたようだ。少女と少年の両方ともその傷口は、荒っぽく――おそらくどちらかの自力で――縛ってある。
 もうひとつ、気づいた点は、おそらくこの2体が”バイオロイド”であることと、さらに少女型の方がほんの少し身じろぎしたことから、どうやら完全には停止していないことだった。
 ……アカイトは次の行動をためらった。この汚れ方に傷つき方、並大抵の出来事を経た、並大抵の連中ではない。どこかで事故に遭っただとか単に喧嘩しただとか、そういう代物とは明らかにわけが違った。大企業同士の抗争か、”ヤクザ”か、ひいてはそれらよりさらに上の存在、既知宇宙(ネットワーク)の支配者『高位AI』同士の狸の化かしあいか。そんなものがアカイトの脳裏にぐるぐると渦を巻く。
 できればこんなのに関わりたくない。アカイト達はただでさえ隠れ住んでいる、揉め事に巻き込まれたくないというのに。アカイトはこの2体を、このまま放っておきたい衝動にかられた。
 だが、たとえ放っておいたとしても、解決にはならない。この場で息絶えられでもすれば、変な噂を呼ぶかもしれないし、ホサカの目にとまって、アカイトらが見つかるかもしれない。どのみち、何ひとつ良いことが考え付かない。ならどうする。アカイトは頭を振った。
 ミピンクがそのアカイトを見つめ、また倒れている2体に目を移した。その表情には、目の前の凄惨な光景への恐れらしきものは不思議となく(2体の傷がよく見えていないからかもしれないが)2体に対する心配そうな目だけがある。……それを見て、アカイトは身を起こした。
「アカイト、どうしよ! 中に運ぶ!?」ミピンクが慌てた声で言った。
「いや、今は動かすな。できることを今教える」
 アカイトは耳のインカムに手をやった。”KAITO”や”ミク”型のロボットや義体等が標準的に備えているこれは、元々は音響収録機器なのだが、アカイト、ミピンクとも単なる通信手段として使うことが多い。
「”帯人”を呼ぼう。困ったときのストリート・ドク頼みだぜ」



(続)