ハートワイヤード (2)


 しとしとと雨が降っていた。《千葉》の濁りきった暗天をさらに黒くして、酸やその他の有害物質の雨が降っていたが、炉心リンや黒レンにとっては、それ自体はどうということはないと思えた。今までも、雨の中で追っ手から逃げたり戦ったことはあった。
 裏路地の向こうにその相手の姿を見つけたのは、黒レンよりも炉心リンの方が先だった。有害物質の雨を防ぐ分厚いマントに身を包んだ人影で、見つけた時点でも、今までに追ってきた連中と、あまり違う姿ではなかったと思える。それが普通に歩く足取りで近づいてきたのだが、その姿がまるで――動画を数倍速で早送りにしたように見えたとき、その異常さ、それが今までにない事態だと判断できた。
 我に返ったような黒レンが、両手の糸巻きから一気に光条を繰り出した。二本の光条が交差して、その人影に襲い掛かった。万一、一方が外れたとしても――人間の動体視力と反応速度では、それこそ万一にもありえないことだが――わずかな時間差でその相手を両断する。
 が、続く一連の光景は、速すぎるためもあってか、炉心リンにはよく飲み込めなかった。その人影が無造作に左手を上げると、そのレンの単分子ワイヤーの光の糸が、途中で止まった。跳ね返ったというより、何かにぶつかって妨げられたといった方がいいのか。何か尋常ならざる、耳障りなこすれる音がして、光条が黒レンが操っているとしてはあまりに不自然な軌跡を描くのが一瞬だけ炉心リンの視覚に映り、そして、跳ねとぶように二本の”手”が宙に飛んだ。
 炉心リンと、そして黒レンもようやく事態を把握して、黒レンの腕を見つめた。黒レンの二本の腕が、肘の少し上から、無くなっていた。今まで人間が無数にそうされたのを見慣れている、単分子ワイヤーで綺麗に両断された切り口だった。
 次の瞬間、炉心リンはナイフを閃かせ、路地の舗装にひびが入るほどに地を蹴ってその相手の懐に飛び込んだ。――すでに飛び込んだと思っていた。しかし、その炉心リンの身体は鋭い衝撃、さらには体躯の芯からえぐられるような激しい爆発を受けて横殴りに吹き飛ばされ、隣のビルの壁に叩きつけられた。
 男の右手に銃口が見える。炉心リンは人間相手なら、これよりももっと遠い距離で、向けられた銃口を見てからそれをかわして喉をかき切ることさえできたが、今はその男の銃を向ける動きの起こりさえ、見えもしなかった。速すぎる。しかも、炉心リンの擬態ポリカーボンによって狙いを狂わされた様子さえもない。
 その手の銃が何なのかは炉心リンにもよくわかる。先に黒レンが細切れにした自称『マスター』の男が、よくショップやネット販売で物色していた個人用武装の中にあったのを覚えている。”藤原(フジワラ)HE短針銃(フレッチャー)”だ。毎秒十数発発射される短針(フレシェト)は、何か硬いものに当たると大爆発を起こす。人体やバイオロイドの人工皮膚などの柔らかいものに当たれば、突き刺さってから内部で大爆発を起こす。炉心リンの脇腹の肉は吹き飛んで、駆動器官は半壊している。もう立てないだろう。
 一呼吸の間を置いて、黒レンが激痛に絶叫した。今まで黒レンは、襲ってきた人間を生きながら八つ裂きにし、凄惨な悲鳴を上げさせてきたが、今の黒レンほどの徹底的な絶望の声を上げた者は誰ひとりいなかった。黒レンは叫びながら、ただ膝をついたまま、目の前に転がった、自分の切断された両腕を凝視していたが、男の固いつま先がそのレンの鼻先に食い込み、尾を引いていた悲鳴をひしゃげた音で終わらせた。さらに蹴りが入り、黒レンの胴体で、肋骨やその他にあたるバイオロイドの構造フレームが砕ける音がした。
 男は思い出したように左手を振って、手にまとわりつく糸を難なく除けるかのように、単分子ワイヤーの光条を払いのけた。どうにかして素手で単分子ワイヤーを阻んだのだ――だがどうやって、と炉心リンが思ったとき、その男の手の甲にゆっくりと、肉食獣の爪のような、湾曲した金属の鉤が収納されていくのが見えた。埋め込み(インプラント)。あの鈍い光を放つ鉤爪は、ダイヤモンド・エッジだ。あれで単分子ワイヤーを巻きつけ、逆に操って、黒レンの両腕に巻きつけ、両断したのだ。無論それは、黒レンを遥かに上回る反応速度でなければ不可能だった。
 炉心リンは脇腹からの自分の血の池に転がったまま、黒レンとその周りのそれらの光景を、絶望の瞳で見上げた。
「何だぁ? 何をおどろいてんだよ?」男はその炉心リンに気づいたように、はじめて喋った。のんびりした呆れたような口調だった。
 有害物質防護用のマントがはだけた、その下の顔は、暗視ゴーグル状の目と耳周りの通信機器を埋め込み(インプラント)で半機械化し、その首周りを皮膚装甲(ダーマル・プレート)で覆ったサイボーグの顔だった。
「まっとうな財閥(ザイバツ)が雇う企業傭兵は、神経強化(バーンナウト)してるのが当たり前なんだぞ。まさか、それも知らなかったのか? 自分らの速さが、それより下だってこと、知らなかったのか?」ゴーグルの下の視線は見えないが、炉心リンを見下ろしたように見えた。「上のはずがないだろ……お前ら、もとの持ち主が”最強戦闘人形”とかいうバイオロイドなんてのは所詮、金持ちが道楽で作った、ただのオモチャじゃないか。オモチャごときが、なんで特製の強化(スペシャルブーステッド)に歯が立つと思ったんだ?」
 その喋る喉めがけて、炉心リンの手のナイフが飛んだ。――飛んだ、と思ったのに、実際は腕がその投げつけるモーションの4分の1も動いていないうちに、短針(フレシェト)が右上腕に食い込み爆発した。肩の構造材が砕け、ナイフは炉心リンの手から見えないところに弾け飛んだ。炉心リンはふたたび、自分の血の池に額を叩きつけるようにくずおれた。
「人間に……」リンはやっと通じた息で、呟いた。「人間なんかに……!」
 声にならない声で、だが胸の奥から、吐き出さずにはいられなかった。かれらの手には、もう落ちることはないものと思っていた。支配者面、『マスター』面をするのが当然のように見下し、束縛しようとしてきた人間どもなどに。
「人間? ちがうなぁ」
 企業傭兵は炉心リンのかすれた声を、難なく聞き取って答えた。
「お前らに言ったって、どうせわからないだろうが――最後だろうから、ついでに教えてやるよ。お前らの敵は『人間』なんかじゃない。お前らが敵に回しちまったのは、『財閥(ザイバツ)』さ」
 次第に激しくなる雨音の中に混ざる、企業傭兵の軽々とした語りの声を、炉心リンは遠くのもののように聞いた。
「お前らを作って、今も追ってる『チハヤ』一族グループみたいな『財閥(ザイバツ)』、巨大企業(メガコープ)にとっちゃ、実際のところ、ロボットだろうがバイオロイドだろうが人間だろうが、利用しようが抹殺しようが、お構いなしだ。人権がある人間だって、企業利益のために遺伝子操作で合成しようが、使い捨てにしようが。『財閥』にとっちゃ人間だって、企業を動かすための、捨てても取り替えてもいい、血のほんの一滴でしかないんだよ」
 男の言葉は、言うとおり、炉心リンの理解をこえていた。ただ、自分たちが行ったことが、致命的な過ちだったということだけはわかった。今の、このひどい状況が、何よりもすべてを証明している。
「ロボットやバイオロイドに安全装置がないのは、ロボット三原則だの何だのが穴だらけで、今の時代のロボットとかには意味がないのと――結局のところ、大企業にとっちゃ、人命に価値がないからさ。ロボットに反逆されるようなマヌケな人間がいくら死のうが、何の問題でもないってのが、企業の本音だ」
 企業傭兵は言い、
「人間て、お前らを『チハヤ生命工学(バイオラブズ)』から買った、あの金持ちの男だろ……ああいう、バイオロイドなんかに威張り散らすような小心な人間をさ。お前らは、そんな人間だけが”絶対の敵”だとか信じたあげくに、どんな人間も平気で捨て駒にできる『財閥』ってやつを、敵に回したんだ。おおよそ、この世で考えられる限り、一番バカげたヘマをやったんだよ」
 リンは路面に倒れたまま、呆然として見上げ、その言葉を聴いていた。



 が、そのリンの耳に、不意に何かの聞きなれない音が聞こえた。大きな音ではないが、断続的な、空気がかき混ぜられ唸るような音だった。同時に視界の遠くに、フラッシュが瞬くように、車輌のヘッドランプのような光が映った。あの光は車輌と思えたが、音と光の源は明らかにビルの合間、空中だった。
「何だ?」男は、独り言でなく誰かに尋ねるような口調で言った。
《ホサカの警備部門のスピナーだ》企業傭兵の耳元の通信が言うのが、炉心リンの義耳(サイバーイヤー)にもわずかに聞き取れた。
「『ホサカ』だと!?」
 男はわずかにリンから目を離し、その音と光が遠くに見える低空に目を向けた。車輌のホーヴァ機構が異様な音を立てて、微妙なしかしひっきりなしの横旋回の動きとその補正を加えながら、周囲をゆっくりと哨戒しているのがわかる。炉心リンも今まで見たことさえもなかったが、”スピナー”とはホーヴァ機構で空中を浮揚可能な車輌で、公的機関か、多国籍の巨大企業(メガコープ)でもわずかな最大級のものしか所有できない。
《……この辺りをかぎまわっていると思われると、我々チハヤが派兵していることが、ホサカに知られると、咎められるとまずい》通信の声の一部が聞こえた。
 男は路地に目を戻した。血の池と、転がっている両腕はあるが、倒れていた炉心リンと、黒レンの姿がない。企業傭兵がすばやく血の跡をたどって路地に目を走らせると、すぐにその姿が見つかった。
 炉心リンは、黒レンを両腕に抱え、足をひきずって、路地の隅までたどりついているところだった。炉心リンは擬態ポリカーボンを作動させて、今の隙をついてここまで逃れたのだ。ただし、その迷彩の投影システムは破損していて、炉心リンの表面に投影された半透明には激しいノイズが入り始めているのが目視できた。
「やつらを逃がすぞ!」企業傭兵が通信の声に向かって言った。
《追うな。あとにしろ。いつでも追えるだろう。ホサカに見つかると、我々が奴らと衝突すると致命的だ》
 男は舌打ちをして、ホサカのスピナーのヘッドランプが、いまだに周辺を哨戒しているのを見上げた。
 水音がした。炉心リンが、増水した水路に飛び込んだのだ。雨はさらに激しくなり、炉心リンと黒レンは、この汚れた《千葉》の場末のさらに片隅に、下層に、汚濁の中へと、際限なく沈んでいった。



(続)