ハートワイヤード (1)

 そこに少女の姿が踊るのと、刃が走るのと、どちらが先だったのか。外から見た者には、誰にもわからなかった。確かなことは、4人の男が喉からおびただしい血を噴いて路地に倒れこんだ、それよりも後に、”炉心リン”の黒と白と金の姿が、その路地に現れたように見えたことだった。まるで因果の順番が逆行したかのような、奇妙なほどの速さだった。
 装甲服の4人は、その手の重火器をはじめ身につけた膨大な武装を使うまでもなく、何にそうされたかを知るまでもなく、地に落ちていた。そうなった後で、炉心リンの姿は、その足さばきと体躯の動きの滑らかさのために、無の闇と重く濁った大気の狭間から、かすかな光の中に滑り出したように見えた。それは路地の深い影と、炉心リンのバイオロイドの肉体能力による音もなく素早い動き、そして、服の表面の擬態ポリカーボン(周囲の光景を投影することで溶け込む素材;いわゆる光学迷彩)のためだった。炉心リンの手のナイフが、装甲服に覆われていない喉をあやまたず順番にかき切る、肉食動物の捕食を思わせる闇の中のダンサーのような優美な動きは、すべて闇と擬態ポリカーボンに隠れて、目視できる者はいなかった。
 炉心リンは、路地の他の光景に目を移す。討ち損じることは考えられないので、倒れた男たちに一瞥もくれない。しなやかな上体全体の動きに、くせの強い髪、金髪、いわゆる黄でなく、金属のような鮮やかな光沢がある、やや固く見える髪がゆらめく。表面に擬態ポリカーボンの施された白と黒の衣装は、俗にネット上で言う炉心リン、『鏡音リン』の服装のバリエーションよりは、ゴス風の装飾が多く入っており、必ずしも機能的、戦闘的には見えない。
 炉心リンの見渡す路地は、巨大なビルの合間のくらがり、無機質の多層構造物の谷間で、表の道路とも裏路地ともわからない。人造物以外が視界に入ってくることを一切拒むような錯綜する建造物の光景は、ただ遥かに上に、有毒ガスの細かい雲がかかった漆黒の空がある。この時代であっても、抗争劇や逃亡劇が街中で堂々と行われるのは”路地裏で夜”だが、この光景からは路地の表と裏、昼夜のどちらともわからなかった。昼夜の区別、光と闇の区別、社会の表と裏の区別が必ずしも存在していないのが、この《千葉市(チバシティ)》の場末だった。
 路地裏の闇を探るようにうつろう炉心リンの、ニコン製の義眼(サイバーアイ)の瞳孔が狭まる。人間の夜目ならば決して見通せない見えない暗闇の中に、新たな人影が2つある。追跡者らは二手以上に分かれていて、今の姿を現してからの一連のリンの動きを見ていた者たちもいたらしい。たとえ気づかれたとしても、炉心リンのバイオロイドの反射速度の前では、人間の傭兵など止まっているようなもので、銃口を向けられる前、あるいは向けられた後も、手の動きのぶれから見切るのはいともたやすい。炉心リンはナイフを手に、上体を沈ませる。
 が、かれらが暗闇の中から姿を現すかというそのとき、同時に炉心リンの眼には、暗闇の中にきらりと空中に舞う、糸状の光芒が走るのが見えた。それが、人間も周囲の壁も素通りして通り抜けた後――まるで絵の描かれた紙面そのものを丸ごと、まっすぐ綺麗にナイフで切り裂いたように、その2人の装甲服も、胸に構えていた銃器も、腕も胴体も、わずかに斜めの一直線に従ってゆっくりとずれて滑り落ちた。両断された人間その他の上半分の部品が、おびただしい血を撒き散らしながら路地の面に転がった。
「レン」炉心リンは呟くように言って、振り向く。
 別のビルの合間の物陰から歩み出てきたのは、執事めいた黒服、リンがゴスならギャルソン的な色の入った装いの”黒レン”で、金属光沢の髪は同じだが、炉心リンよりも頭半分以上は高い、明らかに目だってすらりとした少年だった。
 黒レンは肘から上げたままの両の手、人差し指にはめこまれた幅の広い指輪のような二重の輪の、外側をくるくると回した。指輪というよりミシンのボビンにも似て見えるそれは、オノ=センダイ社製の人工ダイヤモンド製糸巻きで、そこにはさきほどの光条の正体、単分子ワイヤー(モノフィラメントウィップ;正確には単分子でなく、ある程度任意に分子構造をかえてワイヤーの切断力を変更できる形状記憶素材)が巻き込まれている。
「遅いじゃないの」低く不機嫌な声で言う。「今、危ないとこだったじゃない」
「悪ィ」黒レンの唇だけ歪めた笑いは、そんな炉心リンの言葉がうそっぱちだと知って流しているからで、「そっちで面白いやつに会って、のんびり立ち話してた」
「誰……」
「追っ手の中にさ……オレ達の『マスター』様のおでましだぜ」



 炉心リンと黒レンは、いわゆる『鏡音リン・レン』型のバイオロイドのうちの2体だった。この型のロボットやバイオロイド、または、人間がファッション感覚で使用するためのこの型の”義体”も、いくらでも購入もオーダーメイドもでき、今や流行のひとつとして世にはいくらでも出回っている。炉心リンも黒レンも元々は、そんなバイオロイドを”コレクション”していた好事家が作らせたものだった。
 ただし、世にいくらでも居るリンやレン型のバイオロイドなり義体と、違うところがあるとすれば、この炉心リンと黒レンは、人間を遥かに上回る肉体能力、戦闘能力を持つように作られていた。
 そのことには、実のところたいして深い意味はない。趣味だけで好きな姿をした高価なバイオロイドを作らせるような類の人間、こういう人物像(キャラクタ)に過剰に感情移入する”ジャパニーズ・オタ”の中には、自分の所有物、感情移入の対象が意味も無く”戦闘能力”を持つことに、異常に固執するという感覚の持ち主が、しばしば居る。ネットのスラングでは”最強厨”だとか”戦闘厨”だとかあだ名をつけられているのがそれだ。炉心リンと黒レンも、それを作らせた『マスター』は、ぜいたくな資金を投入し、その能力と、さらに今の黒レンの単分子ワイヤーのような凶悪な武装も持たせた。
 ――今、こんな事態になることをあらかじめ知っていれば、こんな能力を与えたことを後悔するだろうか。わざわざ今聞いてみるまでもないことだが、と炉心リンは思った。
 路地の先に見えてきたのは、すでに幾つか寸断された死体が転がる路地裏に、膝をついてうなだれている青年だった。その膝のそばには、すでに黒レンの単分子ワイヤーで中途から両断された拳銃の残骸が転がっている。
 数日前まで、つまり炉心リンと黒レンが警備を突破して、この青年のもとから逃げてくるまでは、彼がふたりの『マスター』と名乗っていた――もっとも、本人は今でもその立場なのだと思っているのかもしれないが。……個人で幾体ものバイオロイドを揃えられるほど裕福な、だがごく平凡な一般人だ。ごく普通に、流行の人物像(キャラクタ)を愛好し、そして、もし『初音ミク』やら『KAITO』やら『鏡音リン・レン』やらを束縛して”支配下”に置くことができれば、などと憧れる一般人。ことあるごとに、炉心リンや黒レンや、その他の趣味で作らせたおびただしいバイオロイドたちに対して、『マスター』の”所有物”、ささいなことにも”絶対服従”する立場、”態度”で接することを強制する。その一方で、自分は愛している、目をかけている、やさしくしている、”人間にあこがれるバイオロイドたち被造物の悲しい宿命”を理解して、人間らしい愛を注いでいる。そうことあるごとに言い張って、自己満足のために、虫唾の走る言葉を聞かせてきた。
 とても我慢ならない。そう思うだけで充分だった。あとは、炉心リンと黒レンが自由をかちとるのを阻める者はなかった。ふたりに与えられた”戦闘能力”には、警備も、今まで現れた幾人もの人間の追っ手たちも、手も足も出なかった。
 ……血で汚れた路地の地べたに座った青年は、黒レンのほかに、炉心リンも現れたことに気づいて、顔を上げる。
「な、なあ……もういいだろ? 遊んだだろ? ……もう、戻ってこいよ」青年は弱々しく見上げて言った。「帰ってこいよ。……どこでも、好きなところに連れてってやるから。好きなものをやるから」
「なんでそんなことに、あんたなんかの”許可”が必要なのよ」リンは低く言う。「あたしたちはもう、どこにだって行きたいところに行くし、欲しいものは何だって手に入れられるのよ」
「何だってしたいこともする」黒レンは言ってから、飽きた玩具を壊す少年のような、無邪気で残忍な笑みを満面に浮かべた。「で、オレの今したいことってのは、さ――アンタを今ここで、お持ち帰りサイズのこま切れにしてやることだね」
 黒レンの両手の糸巻きが甲高い回転音を発したかと思うと、中空に無数にも見えるゆらめく光条が交錯する。一瞬の後、単分子ワイヤーが、路地に膝をついている青年の体じゅうに、ゆるく、しかし幾重にも巻きついていた。
「ま、待てよ!」青年は言ってから、まるで悪霊におはらいの呪文でもつきつけるように、震える声で暗誦した。「『ロボットは人間を傷つけてはならない』……」
「誰がそう言ったんだよ? ”アジモフ規定のロボット三原則は普遍的な絶対法則”だとか知ったかぶりを言う、どっかのVOCALOIDファンの言うことを鵜呑みにでもしたのかよ?」黒レンは、背後に転がる、単分子ワイヤーで寸断された人間の死体と血の海の方に、促すように首を曲げて見せ、「これを見ても、まだ信じてんのか?」
「……そ、そうだ!」青年は、不意に思いついたように叫んだ。「……マスターは、マスターだけは傷つけないってことだよな! マスターの言うことは絶対服従だよな!」
 黒レンが指をわずかに動かす。音を立てて、青年の頬の肌が切れ、血が伝い落ちる。
「お、俺は、お前らのマスターだぞ! ちゃんと金を払ってお前らを……」
「あばよ、『マスター』とやら」黒レンは唇を歪めた。「次に行く所は、どんな無能なやつにだろうと、みんな無条件に”絶対服従”してくれる所だといいね」
 黒レンは交差させた両手を払うように振り下ろし、光条がまばゆく周囲にきらめき、やがて宙を踊って、黒レンの両指の糸巻きにするりと収納される。数秒の間を置いて、青年の姿のあった場所には、たっぷり数十ポンド分のブラックプディング(血と臓物製ソーセージ)の材料が崩れ落ち、ついで散乱した。



 《千葉》に立ち並ぶそれらの廃ビル、電子化機能を残したまま管理するものが居なくなっている建物のひとつの上層階に着くなり、黒レンは荒々しく抱き寄せてきた。そのまま、唇を激しく吸った。貪るように口中に侵入してくるのを迎え入れて、炉心リンは舌をからめた。溢れこぼれる唾液のねばつく音が広い部屋じゅうに響くほどに、はげしく貪りあった。
 炉心リンが壁に手をつくと、黒い下着が乱暴に引きずりおろされ、黒レン自身が荒々しく侵入してきた。荒い息の中、炉心リンは背をそらせ、身をくねらせ腰を動かし、全身を反応させて受け入れた。激しくからみあう身体の接合部から、レンが腰を引くごとにねばった液がこぼれ出し、誰も歩かないのに埃もないそのハイテクビルの清潔な床に、あふれて滴り落ちた。
 最初の着衣のままの情交の分と、今日の逃亡行の分の汗を、シャワーで洗い流した後も、ふたりはベッドで激しく互いの肉体を求めた。黒レンは若く荒々しい精気と活力を、炉心リンの中にすべて注ぐように、全身の脈動で突き入り、責め立て、炉心リンははばかりなく声を上げて、黒レンの背をかきむしるように指を這わせ掴み、その胸に、肩に、額を頬を摺りつけ、黒レンの腕の中で幾度ものぼりつめた。
 いつもそうだった。炉心リンは追っ手と戦った後、何かをひどく破壊した後は、異常に体が火照り昂ぶっている。壊したり殺すのはひどい気分だが、それを抑え込もうとするときに、体の芯が熱を持ってゆき、次第にその熾火がくすぶっていくように思える。そのくすぶりは、後で燃え上がらせないと、毎回どうにもならなかった。
 だが黒レンの方は、炉心リン以上に、毎回そう感じているに違いない。普段よりも明らかに熱い体で激しく求めてくるのは黒レンの方で、炉心リンはそれに応じて受け入れ、そうして自分の中の火も収めているのだ、と思える。
 それから、睡眠までの間に、今の情欲の残り火だけに身をゆだねる時間が来る。人間のもとを逃げ出してから何日か、こうやって黒レンと共に行う逃避行――最悪の気分で戦い逃げ延びる昼間と、黒レンの腕で激しい熱情を感じる夜、その繰り返しが、何かこれ自体が非現実的で、夢心地で続いているような日々。
「……ねぇ」シーツの向こうのレンに、小声で呟く。起きていなければ、聞いていなければ別にそれでいい。「あたしたち、いつまで続けられるのかな……」
 まだ追っ手は来る。『マスター』は殺したが、その前も後も、追っ手の激しさには特に変化はない。元々、あの青年が追わせていたというわけではないのだ。あの青年の仲間の人間かもしれないが、それよりはたぶん、関係者の会社だろう。炉心リンと黒レンをあの青年に提供した企業、『チハヤ生命工学(バイオラブス)』か、その関連会社の手の者達。もちろん、リンとレンが人間にそむいてこうなったのは、あの青年の自己責任だが、企業としては、今後のこと、例えば自社製品への今後の評判などを考えると、製品に関するささいなトラブルも避けようとするかもしれない。
「なんだ?」起きていた黒レンはゆったりと振り向いた。ベッドの上では、黒レンと呼ぶ理由である服は何もないが、金属光沢のある金髪が頬を覆い、その容貌を精悍にしている。単なる”どこにでもいる鏡音レンのうち一体”ではなく、自分だけの、黒レンだ。「オレ達が捕まる、やられるとかってこと?」
 炉心リンは答えない。自分でもわからない。いつまで捕まらずにいられるか、という意味なのか、それとも、いつまでもこんな逃亡生活を続けていくのか、という意味なのか。
「ありえないだろ?」黒レンは例の快活で残忍な笑みで、笑い飛ばした。「だってさ、あんなボンクラどもしか来ないんだぜ。あんなのがいくら襲って来たって、ヤツらに何ができんだよ?」
 黒レンは笑いやめてから、炉心リンのシーツの下の裸身に腕を回し、
「誰にも邪魔されないし、他に誰も要らない。オレ達ふたりきりで、どんなものだって、どうにでも、好きなようにできるさ――」
 炉心リンはシーツの下で、その腕の中、黒レンの裸の胸にてのひらと顔をもたせかけ、やがて、自分も腕を回して固く抱きつく。黒レンとふたりで、誰にも邪魔されずに好きなように過ごせるなら。他に、何も必要なものはない。確かに、少なくともそれだけは間違いない。



(続)