ワガママニューロコンタクト

 男なら『初音ミク』とふたりきりで暮らして、あの声で、まさにここって時に色っぽい嬌声を上げてくれるなんてのだったら、夢にまで見るとかいう奴も居るんじゃないか。だが、なにごとも状況次第、事情次第っていうやつで――少なくともそのときのは、オレの期待もしてないようなタイミングだった。
「あ……ァんっ!!」
 いきなり背中の方からその叫び声が聞こえたときは、オレはその場の床に座ったままの姿勢から垂直に、たぶん1フィート近く飛び上がった。状況から考えて、あんまり予想からかけ離れていたからだ。そのときオレ達は、お互い背中を向けて、それぞれの操作卓(コンソール)の前に座っていた。オレの方は、毎度の通り、日立(ヒタチ)のモニタに表示されるネット購入の表示を前に、生活品のやりくりに頭をひねってる。で、ヤツの方は――オレと一緒の部屋の、頭がピンク色の『ミク』は――なにやら電脳空間(サイバースペース)デッキの前に横座りして、興味しんしんな様子で、何やら試そうとしていたところだった。
 電脳空間デッキってのは、神経接続で”向こう”の空間、つまり、視覚化された電脳ネットワークに入り込む、要するに向こうの世界に意識の丸ごとが没入(ジャック・イン)するための機器(デバイス)だ。ヤツがマトリックス空間の中で何をやる気かは知らないが、たぶんヤツならこのデッキを見て、新しい玩具を見つけて試してみるって程度の発想はこえないだろう。
 そのデッキで、意識まるごと”向こう”に入り込んで、しかもお互い背中を向けてるとくりゃ、さしものヤツも、その間はおとなしくしてるものと、オレは安心しきっていた。……ぜんたい、ヤツは有名なAI”あいどる”の『初音ミク』と同型の不正規アンドロイドだが、アタマが、それも主に中身が真っピンクで、しじゅうオレにカラダをくっつけてきたり、もののついでにそのカラダで誘惑したりしてきやがる。場合によっちゃ、オレの気をひくためだけの理由で洒落にならない悪戯をするとか、日常事だ。で、没入(ジャック・イン)してる間くらいは、その心配はないだろう、と思ってたわけだ。
 ともかく、そんな安心しきっていた真っ最中に上がった今のヤツの悲鳴に、オレは悪い予感しか覚えずに、振り返った。
「おい、どしたよ。……しかし、なんつうやらしい声出しやがるよ……」
 見ると、ヤツは床に横に転がって、びくびくと背筋を小刻みに震えさせている。ことにベッドの上で絶頂でも迎えたかのように、腰周りの肉が波打っている。上気した顔は何か本当に切なそうというか、胸が苦しそうな表情だし、どうやら悪戯の演技でやってることじゃなさそうだ。と思うと、オレは不意に心配になったが、目を落とすと、ヤツの握った手の中には、電脳空間デッキから伸びた配線(コード)の端があった。
「あー、接触不良だな」オレはすぐに合点する。
 ヤツのアタマ、その耳の電脳インカムに装備された没入(ジャック・イン)端子と、そこから抜けたばかりらしい配線の接続子(コネクタ)を見くらべた。……けっこう災難だが、オレ達の古びた機器にはよくあることで、それほど大ごとってほどでもない。接続子を神経接続の挿入(ジャック)しかけたそのときに、接触不良のせいで、神経にショックがおそったらしい。単にカラダが痺れたってやつで――
 オレは配線(コード)の先に繋がった、電脳空間デッキのスイッチを切(オフ)にした。このデッキは、このボロアパートのネット環境の備え付けじゃなく、足りない機器をオレが自前でなんとか調達した代物だ。定番のオノ=センダイ社の製品で、一流のカウボーイ(攻性ハッカー)も使う物のベーシックモデル、と言いたいところなんだが、それはもう大昔の話で、今じゃこの型落ちの中古品は玩具同然の代物だ。電脳空間マトリックスへの没入(ジャック・イン)は、デッキと神経をなんらかの方法で接続して全感覚体験のスペースに入るわけだが、接触のノイズひとつで、神経に結構影響がある。勿論、普通に売ってる市販品じゃ、そういう不都合は万全に排除するようにできてるが、まぁ、オレ達のは……ケチってるからな。このデッキはそうとう古いし、メンテ不足だし、ままあることだ。
「なんか……変な気分……」
 ぐったりしたヤツは、ぶるぶると震えながら、傍の床に座ったオレの方に、すがりつくみたいに腕を回してきた。
「今……背筋にすごく……ゾワってきたの……」
 上気したうるんだ目で見上げてくる。ヤツのさっきの声や、体の動きを思い出して、やばげな気分になりそうになる。無意識に見下ろしてしまったとき、両膝をもじっと擦りあわせるようにしている太腿、ニーソックスの上に見える肌が、熱くうっすらと湿っているみたいに見えて、オレはあわてて目をそらした。
「体の……芯が熱いよぅ……」
「いや何でもいいから……じっとしてろよ」オレは目をそらしたまま言い、その視線をのがれるように――腕でヤツを引き寄せて、その背に手を回し、そのアタマを自分の肩にもたせた。
「え……?」ヤツが意外そうな声を上げる。
 腕を回してヤツの、背中をさする。接触不良で神経にどういう影響を受けているのか、何がどういう気分になってるのか詳しくはわからないが、とりあえず、オレがヤツに今何かできること、思いつくことっていったら、これくらいしか考えつかないわけだし。ミクコスチュームとか呼ばれる例の薄手の服ごしでも、すべすべした柔らかい肌の感触がわかる。
 ……しばらくそうしていると、ヤツの背筋の震えは落ち着いてきたように見える。髪をそっとのけて、耳のインカムのほうを見たところ、破損したとかショートしたとか特にダメージはない。配線(コード)をヤツの手から取ったときに、その指先が冷たくなってるのに気づいたので、これも握りしめて、暖めてやった。



 ヤツは最初にすがりついたときのそのまんま、オレの腹のあたりに抱きついていて、親の脇の下にもぐりこむ子供みたいに、顔をうずめている。この様子だと、とうにさっきのショックの影響は収まってると思うんだが、その腹に抱きついた状態のまま、「んぅー」だとか、気持ちよさそうな声を上げている。いい気なもんだ。
 やっぱり、この状況を作るために、ヤツがわざと故障の影響を受けたふりをしたんじゃないか、本当に接触不良なんだろうか、と呆れるが、……一応、オノ=センダイを調べることにする。回路をテストしてみるが、中身には何も不都合はなさそうで、やっぱり問題はこの接触部分、生機仲介(インタフェイス)らしい。
 オレ一人で使う機器だったら、たまに少しくらい痛い目にあっても我慢しながら使っていけるだろうが、ヤツも使うわけだ。今みたいに、いきなり痛い目にあわせるのは、気の毒だ。やっぱり修理に出すか、あるいは、思い切ってまともな電脳空間(サイバースペース)デッキに買い換えた方がいいんだろうか。
 ――だが、そのハイテク機器の予算、その金額に思いをめぐらすと、次第に、その気は萎えていく。余計な出費は抑えなくちゃならん。ただ甘えてるだけかもしれないぞ、と、まだぎゅうぎゅうとオレの胸に顔をうずめているヤツを見下ろして、思い直す。
 ……コードの接続子(コネクタ)を一応、ごしごしとこすって磨いた。それから、オレ自身の義体の耳にあるインカムの没入(ジャック・イン)端子に入れ、オノ=センダイの"test"ボタンを押した。
 何度か押して、試す。なんともない。機器に何も異常はないぞ。
 ぎゅむぎゅむ幸せそうにまだ抱きついているヤツを、オレは呆れて見下ろす。……まさか、端子に接触不良なんて最初から無くて、この状況を期待した、それだけのために演技したんじゃないだろうな!?
 ――と、そのとき頭の中に、いきなり白光が膨れ上がった。それはまるで、《秋葉原(アキバ・シティ)》の電脳空間でのデータ流通量を視覚図解にしたときみたいに、一気に過流(オーバーロード)して大爆発を起こした。その瞬間は確かに何だ、絶頂感、もちろん性的な意味で、のアレの感じになんか似ていたんだが、その後がよくなかった。
「うがががががががががげがががが!!」
 オレの叫び声はヤツのそれとは違って、色っぽさとはほど遠かったと思う。全身がしびれて痙攣し、反射で背筋が反って、ヤツの抱きしめる腕の中からもオレの体は吹っ飛び、足がオノ=センダイを蹴飛ばして壁際まで弾き飛ばした。手はとっくにtestスイッチから離れ、というか今ので没入(ジャック・イン)端子から接続子(コネクタ)が抜けたが、接触不良からの神経の痺れはおさまらない。
「ねぇっ、ちょっと、大丈夫!?」
 ヤツが駆け寄って、痙攣を続けているオレを見下ろすのがわかる。
 手足に力が入らない。そのぐったりしたオレを、ヤツは抱え起こした。
 まぁ、さっきのヤツと同じで、もうしばらくすれば直るんだろうが――と、その当のヤツがオレの背中を抱き上げている、その姿を見上げて、気づいた。その”しばらく”がやばい。身動きできないままで、このピンク頭の腕の中にいれば、このままじゃズボンを脱がされてオレの下半身が(オノ=センダイのかわりに)ヤツの玩具にされたり、しまいにはヤツに『逆なんたらかんたら』だとかされたり、オレのいろんな大事なものが、奪われかねない。
 いや、そうなったらなったで、すっかり悪い目を見るってわけでもないんだが、いいようにされてコレとか、動けない状態でってのは嫌だぞ。最初の状況くらいはある程度選びたいんだ。



「ねぇ、ちょっとー、……しっかりしてよぉ〜」
 が、抱きついてきたヤツは、単に背に手を回すと、オレの背中をさすりはじめた。
 オレが声も出せず、ぐったりしてしびれている、永遠とも思える時間、ヤツはずっとそうしていた。
「何してんだよ……」ようやく声が出るようになると、オレは言った。
「え、何って」ヤツはオレの指を握り、暖めながら言った。「さっきの”お返し”とか」
「”お返し”っておまい……」
「さっき、こうやってしてもらって、すごく楽になったからー」
 ヤツは、またオレの背中をさすり続けた。
「……家事とかで怪我したお母さんに向かってそのお母さんの真似して『痛いのとんでけ』してあげる子供かおまいは……」
「え、わかんない」ヤツは言ってから、しばらくまだ、さすり続けた。
 オレはしばらくの間そうやって、されるままにしていた。……背の震えが収まってきたのが、ヤツにもわかったんだろうか。ヤツはおそるおそる、手を止めて、少し体を起こした。
「大丈夫? 楽になった?」
 それからオレの目を、心底、心配そうに見える瞳でのぞきこんだ。……どうもヤツのその目が、ひどくうしろめたく感じた。
 オレは、そのまま腕にぐいと力をこめた。
「きゃああ」
 ちょうど、さっき背中をさすられた直後のヤツがオレにしたことみたいに、ぎゅむぎゅむと思い切り力をこめて、抱きしめた。
「何!?」
「何ってな……いや」オレは自分の胸に埋まったヤツと目を合わせないようにして、その肩に顔をもたせて言った。「その何だ……さっきの”お返し”か……」
 ヤツはそのまましばらく固まっていて、たぶん驚いていたんだと思う。だけど、いつのまにか、オレの背に回したままの手に力をこめ、顔をうずめて、「んぅー」とか、また何か気持ちよさそうな声を上げた。