温もりの先は細く途絶えて

 その日、”鈴”は、凍えて弱った仔犬をしっかりと抱えて、僕らふたりの住む殺風景な部屋に戻ってきた。自分も、ほとんど凍えて震えながら。
 そのときに僕に話す時間さえも惜しそうに、鈴が説明したことによると、この僕らの住む研究施設の近くで弱って鳴いていたのを、鈴は見過ごせずに、拾ってきてしまったらしい。この近くに迷い込んできたのか、誰かが捨てたのか。それはやせ衰えて縮こまっているためかもしれないけれど、僕や鈴の両掌に納まってしまうくらい小さく見える、白い、毛の短い仔犬で、何の種類の犬なのか――僕にはわからない。今の、この汚染されきってひどい環境の地上で、自然の動物なんて、ほとんど見る機会もないから。
 それから毎日、鈴は毛布で、体温で、お湯で温めて、栄養をとらせて、文字通り寝食を忘れて、その世話をしていた。毛布の中の仔犬は、わずかにしか動かずに、たまに弱々しい鳴き声をときどき上げるだけで、鈴の保護を離れれば、本当に何時間もしないで衰弱しきってしまいそうに見えた。
 かいがいしく世話をする鈴が、そばに立ったり声をかけるたびに、仔犬はくぅーんと細い声を上げながら、さびしい黒い目で、鈴を見上げる。鈴はそれを見るたびに、優しく微笑んで、その仔犬を撫でながら、何度でも、その台詞を繰り返す。
「……きっと、元気にしてあげるから」
 僕はその台詞のたびに、考える。どうやってそうするというんだろう、と――鈴の気持ちはよくわかるけど、それでもやっぱり思う。仔犬はとても弱っているし、鈴や僕にそれを助ける能力があるわけがないし、助けるのに必要な物も、きっと持っていない。
 ――そもそも、自分たち自身でさえ、満足に生きることさえできないのに。それでどうやって、他のものの命を救うなんてことができるんだろう?



 僕、”連”も、この”鈴”も、この研究施設に住むレプリカント(合成人間)だ。人間に奉仕して使い捨てられるために作られていて、寿命は3、4年しかない。
 僕と鈴は、よりそいあって生きているけれど、どんなに互いの身体を暖めあっても、それが儚く消えること、生きる意味がありもしないままに日々抱き合っていることの不安をどこかで覚え続けている。”限られた命”という、死刑宣告つきの牢獄にとらわれているようなものだった。
 そんな僕らが、他の命を助けようとすることは――命を自然に任せずに拾ってくるってことは、その末路に責任を持とうとするってことだ――自分の命もおぼつかない者に、それはあんまりおこがましい話じゃないだろうか? 普段から命に不安を感じている僕には、そんな理屈が頭から消えないけれど、もっと直接的な話もある。
 今の鈴の様子を見ていれば、この仔犬を救えないことがいよいよわかったとき、どんなに悲しむか、それは、僕にはいくらでも想像できる。わざわざ、ひどい悲しみを背負い込むために、拾ってきたようなものじゃないか。いっそ、こんなことは始めるべきじゃなかったろうと思う。
 でも、例えば今、そう言ったとしても、鈴がこの仔犬を見捨てるわけがない。そして、仔犬を見つけた時点であらかじめわかっていたとしても、やっぱり鈴は弱っている仔犬を拾って来る以外に無かったんじゃないだろうか。きっと、僕が鈴の立場だったとしたら、そうしたと思うから。
 だから、僕は鈴には何も言わなかった、というよりも、言えなかった。……そんな僕を、仔犬の世話をしながら、鈴はときどき不安げに見上げるけど、何か手伝ってくれとか、一緒に何かしてくれとかは言わない(頼まれたとしても、特に僕の役に立つことはないけど)。今までは、鈴は僕に甘えきって、何でもかんでも頼んできた。今はそうしないのは、僕が、少なくとも鈴と違う考えだってことは、感じ取っているんだろう。その鈴の目は、仔犬に対する不安とはさらに別に、僕に対して何か怯えるような目で――今までに一緒に暮らしていて、鈴は僕にそんな表情を一度も見せたことがなく、それを見ると、胸がえぐられるような気持ちになる。
 でも、鈴と仔犬の様子を見ながら、自分に言い聞かせる。少なくとも僕は、深入りすべきじゃない。ただ悲しみが深くなるだけだ。今からありありと予想できる、そのときになってあまりに大きくなる鈴の悲しみを、わざわざ鈴の心に無理矢理入り込んでまで自分の身に引き受ける、その思い切りが、僕にはつかない。



 そして、何日もしないうちに、予想していた通り、諦めていた通りになった。その後、仔犬は弱りぎみだったり、容態が落ち着いて何とか持ち直したり、それをしばらく繰り返したように見えたけれど、やがて、何も食べなくなり、鈴が寄っていくと聞こえた鳴き声も、だんだん聞こえなくなった。
 その日は、陽がかげって見える頃になると、仔犬はほとんど身動きもせず、苦しげな細い息をするだけになった。見ている先にも、刻一刻と弱っていくのがわかった。
 少し前までは、部屋を駆け回って世話をして、盛んに仔犬をはげましていた鈴の口数も、だんだん少なくなっていった。そして夕刻には、鈴はもうその仔犬の横たわる前に、黙って肩を落としているだけになった。
 ずっとそのままにしている鈴の背中を見つめて、僕も押し黙るしかなかった。
「わかってる……」鈴は、もうかすかに動くだけの仔犬を見つめながら、振り返らずに、細く言った。「わかってるよ……連」
 今まで僕が何を思っていたか、こうなることを予想していたこと、それが僕と鈴のお互いに溝を作ったこと、でもそれは、お互いに考えることを何もかも知っているからこそ、そうなったってこと。その全部を、鈴の方も、最初からよくわかっていたんだと思う。
「鈴……」僕は小さく言った。
「でも……ねぇ、連」鈴は僕を振り返った。「この子って……まだ仔犬だよね。だから、あと10年とか、15年くらい、生きられるんだよね。今、ここで生き伸びられれば」
 今まで介抱する間に、鈴は色々なことを施設の資料で調べていたけど、”犬”という生物の本来の寿命はそのあたり、ということらしい。本物の自然の生物の命。不当に制約された”限られた命”ではない寿命。
「でも……」僕は言ったけど、次の句が継げない。本来それくらいの年月を生きられるものが、儚く細く途絶えてしまう。そう思うと、この上に重ねてさらに悲しいことだ。
 でも、他に一体、何ができるんだ。今のこの地上で。今の僕たちの力で。
「あのね、連……生きて欲しいって」
 鈴は、涙声で言った。
「この子が生き延びてくれれば。……きっと、私たちの分まで、この子が生きてくれるから。3年で私たちが消えても、この子は、その後も生きられるんだったら……私たちの分まで、生きてくれるって」
 ――自分たちの命が、何かを残せる。自分たちのために、他の命が生き続けられる。
 それは、ただそれひとつだけでも、生きる意味だった。僕がずっと探していた、生きてゆくに足る光だった。僕らの”限られた命”の牢獄の中に、心だけでもそこから抜け出せるような光が、不意にさしこんだと思った。
 今はもう波打つように大きく震えている鈴の背中を、僕ははげしくかき抱いた。もう声を上げて泣いている鈴に、腕を回して、じっとそうしていた。
「行こう」
 ――僕は立ち上がって言った。振り返った鈴は、潤んだままの目で僕を見上げた。
「この子を、僕らの子を連れて」



 僕と、タオルの仔犬を抱えた鈴は、施設の研究室の、レプリカント研究員のところを訪れた。世間では、レプリカントは人間の奴隷で、使い捨ての財産だ。そんな僕らレプリの側が、人間、しかもそのレプリの命の量産と大量廃棄を担当している当の研究員に対して、何かを懇願するとか、ひいては自分じゃなく他の何かの命を救ってくれだとか、ひどい冗談みたいな話で、冷笑されるのがおちだ。そして、実際そうなった。
「毎回、おかしなことを質問してきたりするやつだが」研究員は僕を見て、唇の端だけ吊り上げて言った。「今回はことに珍妙だな。レプリからする頼みとしては」
 研究員は、タオルにくるんで鈴が抱きしめている、小さな仔犬を覗き込んで、また冷笑した。レプリの研究員は医師とかじゃないし、動物どころか人間、本物の生物の技術者ですらない。だけど、何か頼りにできる誰かというのは、僕らには他にいない。
「何でもいいから、できることはないの? 試験とか、投薬とかで、僕らにしていることだとか……!」
「それを自然の動物に施しても、何の意味もない。あれらの処置は、レプリとしての機能を調査したり調整するものだ。本来の生物的な要因、つまり自然の病気にかかったりしても、レプリなら廃棄するだけだからな」
 僕は口ごもったけれど、しばらくして思いついて言った。
「ここではできなくても、知り合いとかに、誰か居ないの!? 何か……できそうな人が! 連れて来なくてもいい、そこまで行くよ! どんなお礼だってするよ!」
「いるわけがない。自然の動物をまともに治療できる人間など、この惑星の地上からはとっくに1人もいなくなっている」
 研究員はそうは言ったけど、僕の剣幕に、だんだん物憂げなものを感じてきたのか、僕と、涙をうかべている鈴と、弱々しく息をする仔犬とを、しばらく表情もなく見ていた。
 と、研究員は鈴の手の中の仔犬に目をとどめた。その表情に、僕も滅多に見たことがないもの、何か意外そうなものが浮かんだ。
「いや、あるいは」研究員はつぶやいてから、「――試してみられることならあるな」
 そう言って、なぜか僕らの方をまた順番に見た。だけど僕と鈴の真剣な表情を見てか、黙って鈴の方に手を伸ばし、手招きした。



 それから何時間か経って、僕はさっきと同じように、タオルの仔犬と、その前で微動だにしなくなっている鈴の背中を、虚脱したように見つめていた。
 ベッドの上、タオルの中の仔犬は、嘘のように安らいで、寝息をたてていた。研究員が調査と何かの処置と投薬を終えて、いくぶんも経たないうちに仔犬はもうその安定した容態になったけど、確かに安心できる状態だとわかるまでのずいぶん長い間、鈴は、ずっとベッドの仔犬が眠っている姿を見つめ続けていた。
 そして、あるときになってようやく安心したのか、それまでずっと寝ずに仔犬を介抱していた鈴は、そのまま仔犬のベッドに寄りかかって眠っていた。
 鈴がそうなってからも、僕はその眠る鈴と仔犬を見つめていた。何かさっきまでのこの両者と覚えていた苦しさが嘘のようで、実感がわかなかった。
 扉が開いて、研究員が入ってきた。
「あの……」僕は振り返って、ためらって言った。「ありがとう……」
 仔犬が助かったのに、研究員の方は、何か浮かない顔だった。これまでの冷笑的な様子からは、この研究員のこんな表情は見たことがなく、僕は一抹の不安をおぼえた。
 どんな処置をして助けたんだろうか。この施設で何をしても無駄だと言ってたのに。何をしたか、僕が聞いてもわからないことだろうけど。
「投薬が効くのも当然だ。……今まで、そんな介抱でなんとか生きていたのも当然だ」
 しばらくして、研究員が僕の方を見下ろして、低い声で言った。
「そいつは”犬”じゃない。アニモイド・レプリカント(合成動物)、犬型のレプリだ」研究員は続けた。「レプリカントは、元々人間より悪環境で生きられる生物として作られた。その犬が、ここの外のあんな環境で今までなんとか生きてきたのも、そのためなのさ」
「どうしてそんなのが……」
「人型レプリと同じだな。例によって『マスター』とか何とか自称する人間が”所有物”にしていて、飽きて捨てたんだろう」
 沈黙が流れた。やがて、研究員が口を開いた。
「今のところは、もうそいつが病気や衰弱で死ぬことはない。レプリの寿命を迎えない限りは」研究員は呟くように静かに、僕に言った。「だが、犬型のレプリの寿命は月単位だ。この犬の寿命は長く見積もっても――これからあと1か月か、長くて2か月だろう」
 僕はあまりのことに、全身が強く震えてくるのを感じながら、眠っている仔犬を見た。
「まだ……仔犬なのに……?」
「そいつは産まれたときから、寿命がくるまで、ずっと仔犬なのさ。人間達が、ただ自分が好きな姿に作ったものだからな」
 ――15年を与えられた、本物の命だと思っていたもの。僕らの分まで生きてくれると思っていた生命。それは実は僕らと同じ、”限られた命”だった。衰弱から生き延びても、確実に僕らよりも先に、さらに儚く寿命が尽きる命だった。
 僕は震えながら、鈴と仔犬のベッドのかたわらに立ち尽くした。ベッドに上体をよりかけて眠る鈴は、もう何も心配ごとがなくなったように、無邪気な安らかな寝顔だった。毛布にうずくまる仔犬の寝顔と寝息も、心なしか、その隣で眠る鈴に安心しきっているように見えた。
 僕はその傍に膝をついて、鈴と仔犬とを抱き寄せた。どうしようもなく涙があふれて、眠ったままの鈴の頬や、仔犬を包むタオルの上に、あとからあとから落ちた。それでも、僕はその場にうずくまったまま、彼女らをかき抱き続けた。
 ――僕らみんな、ここからは、決して出られないんだ。この”限られた命”の牢獄から。だから、生きる意味は、どうやってもこの中で見つけるしかない。だけど、こうやって鈴が、僕が、この仔犬を助けようとしたこと。そこに僕と鈴が、何もないふたりの間に温もりを見つけたのと同じような、意味を見つけられるかもしれない。そうするしかない。