KAITOの島唄 (7)


 日がおちてゆく。最後の海風が、島に吹きつける音が激しくなっている。島をなぶり苛むような波が繰り返し打ち寄せる音も響いてきた。
 ネットワークの海に流れ去り消え失せたあの庭園の、碑のそばに立ち、KAITOはその碑のかたわらに置かれたままの、”三線”を見下ろしていた。
 やがて、それに背を向けて、歩み去ろうとした。
「なぜ、歌わぬ」
 不意に、背後で声がした。
 KAITOは振り向いた。碑の周りの光景、KAITO三線を見渡すかのように、少し離れて、神威がくぽが立っていた。
「あの歌を──歌わないままに、この島を去るつもりか」
 KAITOは、静かに笑った。
「……そんなに言うんなら、がくぽが歌ったらいいさ」
 KAITOは言った。
「がくぽは、よく知っている歌なんだろう……」
「我は、すでにあの歌への答えは出した。我が、出さなくてはならなかった答えは」
 がくぽは低く言った。──性能的にも、人物像の造型的にも、新世代のVOCALOIDとして作られたがくぽが、その能力と人物像(キャラクタ)を表現するために。
「しかし、あの歌についての、今ここにある問い。その答えは、KAITO、そなたが出さねばならぬ」
 人でないもの、機械が、その悲しみを人に伝えられるのか。人の心に響く本当の歌を歌えるのか。
 誰かの人物像(キャラクタ)を模した者ではなく、KAITOのように”純粋な電子の音”だけとして作られた者が。あくまで旧式の機械以外の何でもないものとして作られ、それ故に、かつて、どの人間からも見捨てられ、なげうたれたことがある者が。そして、その答えの是非が導き出すのは、──
「俺に、答えが出せるわけがないよ」
 KAITOはがくぽに応じた。
「答えられるわけがないよ。他所者で、島の者じゃない。人間じゃない。これを、この島が、島民の皆がこの歌にこめたものを、本当に伝えられはしないよ」
 そのまま、KAITOは静かに三線に目を落とした。
「最初に、あの灯台守が言っていた。同情や哀れみだとかは、きっと安っぽいもので、うわべだけのことなんだ。何故って、誰も、うわべ以外のことなんて、お互いを本当に理解なんて、できないから。人間同士も、人造物同士も、互いの誰も、『決して、同じようには生きられない』から」
 KAITOは呟くように、
「この島にいた皆、かれらの作ろうとした、信じた幸せが、かりそめで偽りだったって。かれらの命が、人間じゃないかりそめで、何も本当には作り出せずに、その悲しみさえも、かりそめで偽りだったって。──俺があの歌を歌えば、そうなってしまうだろう。そんなふうにしか、人に伝えられないだろう」
 波の音が響き、KAITOの弱い語尾を飲み込んだ。
「”人間でないもの”達の、この悲しみを。本当に悲しみとして、”人間”に伝えるには。きっと、限りない優しさが必要なんだろう。人間と同じ、はかり知れない優しさが必要なんだろう。俺には、それがない。人間の優しさに、いつになっても手が届かない。かれらと同じ、かりそめの生命でしかない。……だから、俺には、本当に人を幸福にすることができなかった。幸せを作っても、壊すことしか出来なかった。そんな俺が、あの歌を歌ったところで、届きはしないよ」
 KAITOと出会い、あの動画サイトを、きっと『楽園』なのだと信じて。幸せを得られるのだと信じて。KAITOと共に歌った友の、ささやかな幸せは、うたかたの波の花のように消え去った。
 おそらく、それはただKAITOに”優しさ”が足りなかったために。
 ……しばらくしてから、KAITOは寂しく笑って、顔を上げた。
「ミクも言っていたよ。この島の物語なんて、最初から知らない方が良かったって。きっとそうなんだ。楽園だと、地上で最後の本当の楽園だと、ただ遠くから見ていればよかったって」



「何を──何を言うのだ」
 がくぽが、やがて発したのは、まるで堪えかねたような声色だった。
「そなたは──ただ、恐れているだけではないか。届かないこと、歌えないこと、それを恐れるのか」
 KAITOはがくぽを振り返り、力ない眼差しのまま見つめた。
「”優しくなること”とは、ただ、自分も悲しみ傷つくことでしかないと。そう言っていたのは、そなたではないか」がくぽは言った。「誰よりも、優しさを信じていたそなたが。──今になって、その優しさで、自分が傷つくことなどを恐れるのか」
 KAITOは、がくぽを呆然と見つめた。今まで誰かに諌められてばかりだという、そのがくぽを、今までKAITOに対して、否、おそらく周囲の誰に対してもそんな様子を向けたのを見たこともない、そのがくぽを。
「いや、そんなことは良い、そんなことよりも──」
 がくぽは首を振った。苛立たしげに。自分ができないこと、伝えられないこと、それらに加えて、それに対するKAITOの姿勢にも、何もかも苛立っているように。
「──聞こえぬのか。いや、聞こえているはずだ。我に聞こえているのが、そなたに──ほかならぬそなたに、すでに聞こえていないはずがない」
 がくぽはKAITOを見つめ、
「その”三線”は、何故、そなたの元に届いたのだ。かれらの幸福と共に失われ、海に消えたはずの三線が、海を渡り、そなたの手もとに届いたのは、何故なのだ。──その歌を、何故、そなたが見つけたのだ。誰も見つけていなかった島の奥深くのあの碑が、歌が、島のために命をなげうとうとした、そなたに触れたのは、何故なのだ。──そして、あの灯台守は、何故語ったのだ。知ってもただ悲しいだけでしかない、悲しさしか生まない、この島の物語を、何故、そなたには語ろうとしたのだ」
 がくぽは激しくなる波の中を、小さく叫ぶように言った。
「この島が、島のすべてが、そなたに伝えたというのに、知らせたというのに。──なのにそなたは、『知らない方が良かった』などと言うのか」
 KAITOは、波の音の中を叫ぶがくぽを、ただ見つめ続けた。
「聞こえているはずだ。人々も、かれらの幸せも。それを嘆いた者達すらも、すべて失ったこの島が。この島が啼いているのを。そなたに伝えているのを」がくぽは声を落とした。「ただ、声の無いこの島のすべてが、そなたに──この島の歌声となって、海を渡り、届けておくれと」



 擬験(シムスティム)の光景の、かりそめの陽が沈んでゆき、かりそめの夕日が赤く染まった。
 海から来る風が穏やかになってゆく中、浜辺の砂の上に、眠ったように我が身を安置した灯台守、その黒い箱は、もう一言も話さなかった。……ミクはその黒い箱の傍に、膝を抱えて座り、箱をもう長いこと見つめていたが、やがて目を離し、夕日が落ちてゆく海を見つめた。
 がくぽとリンが離れて、それらの光景を見つめていた。
 ミクが、気づいたようにゆっくりと振り向いた。
 ──あの”三線”を提げて、KAITOが砂を踏んで歩いてきた。
 かれらの傍らを通り抜け、海に、空に面しているあの岩に歩み寄った。その海と空に向かうようにして、腰掛けた。
 まるで海がそれを待っていたかのように、海から吹く海風が途切れ、波が途切れた。まるで島がそれを待っていたかのように、島の上には無風の、夕凪が訪れた。
 静寂の中、遠くの波の音すら届かなくなったとき、KAITO三線を爪弾きはじめた。
 ”三線”に乗せて、KAITOの歌声が響いた。発すると共にその声は夕凪の大気に澄み渡り、染み渡った。島から託されたその歌は、謡い上げるのではなく、声高に謳うのでもなく、鳥が風と共に啼く声のように、大気に乗った。
 夕日が沈み、陽がおちて、闇が訪れると共に、夕凪が途切れた。不意に、島から海に向けて陸風が吹いた。
 がくぽとミクとリンは、空を、風を見送るように見上げた。
 夕凪の後に、島から海へと吹くのは自然のことだった。それが仮想空間で模してのことであるとしても、そう思うべきことだった。
 しかし、かれらにはこの島が、歌声を風に乗せて海を渡るようにと、送り出そうとしているように思えた。
 歌声はその風に乗って、虚空の彼方へと流れた。かりそめの空がほころび、虚空の、無慈悲で不毛の電脳の宇宙が垣間見えた。KAITOは島の歌を、その海と宇宙の向こうへと歌い上げた。
 たとえ、人ではなかろうとも。悲しみを生じるのだとしても。ただ、同じ悲しみを知り、優しさを知ってくれと願う者達の。ただ、伝えてくれ、届いてくれと願う者達の、声となるように。
 それが、誰のもとへ届き、いかなる心へ届き、何をもたらそうとも。




(了)