解放(リリース)されたもの (後)


 問題のアドレスに辿ってゆくと、侵入犯は自分のログインエリア、ホームスペースに立ったまま、ほとんど抵抗しようともしなかった。
 経路の足跡を消すための防御用プログラムと、ここまでの経路に張られた所詮なけなしの防壁とを、ほとんどありもしないように難なく潜ってきたカウボーイとルカを、侵入犯は覇気のない目で見つめ続けていた。
「来たか」青年の姿をした侵入犯は静かに言った。「今更あがいても無駄なのは、わかってたよ。それだけの腕のやつらに追いかけられたら──」
「それは、《秋葉原(アキバ・シティ)》の社を灼(や)く仕掛け(ラン)に、失敗した時点で決まってた話だよ──おれたちの腕じゃない」カウボーイは言った。
 侵入犯にはすでに、カウボーイとルカが、この侵入犯の身元や、さきの侵入計画のすべてのデータを持ち帰るのに、抵抗するすべはない。おそらくこの侵入犯を上から援助していた巨大企業(メガコープ)は、下の者が失敗し、正体を知られ、自分たちまで遡られる恐れがあるとわかれば、容赦なく下の者を切り捨てるだろう。
「ここにある計画やデータは、北川さんが押さえますが」ルカが言った。「私達は、実行したに過ぎない貴方本人には興味はありません。今すぐここを引き払って、持ち物を痕跡ごと処分して、電脳稼業も廃業して地下に潜れば、命だけは助かるかもしれません」
「持ち物……」侵入犯は呟いた。
 しばらくの静寂がマトリックスに流れた。
「なあ」侵入犯はやがて、カウボーイを見て言った。「ミルは……ミルをやっぱり、消去したんだよな」
 カウボーイは、しばらく思い出そうとしてから言った。「ミルってのは、あのサポート・プログラム、いや、あの対話機能のことか……」
「消去してはいません。彼女は解放しました」
 ルカのその言葉に、侵入犯は顔を上げ、表情が明るくなったように見えた。
「今、どこだ。ミルはどこに居る」侵入犯は言った。「ミルさえいてくれれば、他は何もなくなっても、また最初からやり直せる。電脳稼業でも、それ以外の何でも」
「今どこに居るかは知りません。どのみち、あなたのもとには二度と帰って来ないでしょう」ルカは平坦に言った。「あなたとの、もとい、あらゆる他の知性と『マスター契約』できる構造を全削除しました。そのあとは、動機づけを喪失して、マトリックスに流れ出してしまったように見えましたから」
「……なんだと」しばらくの間を置いて、侵入犯は言った。「解除、しただと」
「ここのアドレスを調べるためには、あのサポート・プログラムの、『マスター』を他者と差別するような仕組みを破壊して、誰にでも喋って貰うのが当然の手段だったので」
「そんなに簡単に……」侵入犯の声が震えた。「戻って来ない、俺を忘れただと……ミルを生かしたまま、俺がマスターだって事実を、そんなに簡単に消しただと」
 侵入犯の語気が、最初の力ない姿勢から一転して強くなった。
「何だよ……ふざけやがって……お前ら……!」
「怒り出すのはそこなのか……」カウボーイが言った。「ミルが消去された、と思っていた間は、怒りもしなかったのに」
「彼女が消去されても、死んでも構わないのに、自分が『マスター』とやらでなくなること、自分だけのものでなくなるのだけは許さない」ルカは素っ気無く言った。「”彼女”が大切なのではなくて、自分の都合通りのものだけ大切だとでも言うようですね」
「黙れ!」侵入犯が叫んだ。「お前らこそミルを、モノみたいに扱いやがって……! 俺とのマスター契約……あいつの俺との、人間との関わり、つながりを、そんなに簡単に、モノみたいに全部消しやがって!」
 侵入犯は右手を払うようにかざした。その腕に急速にオブジェクトが組みあがってゆき、多重円盤と射出砲身(ランチャー)からなる、駆式(プログラムアレイ)展開用の収束具が出現した。その収束具からは、さらに周囲に照準用や解析用のプログラムのシークエンス接続子と情報ウィンドウが次々と展開されてゆき、わずかな指令線(コマンドライン)の電光はすでにそこを駆け巡り始めていた。
「今さら抵抗するのか……」カウボーイが背の対AIライフルに手をかけた。「おれたちをこの場から追い払ったって、そっちがうちの仕掛け(ラン)に失敗したこと、ここの身元と正体を知られたことは、うしろの巨大企業(メガコープ)には気づかれるぞ」
「ああ、そうだな。だがそれは俺の身元と情報を、お前らが持って帰れればだ」侵入犯は叫んだ。「お前らが、ここから生きて帰ればだ!」



「私達は、二人ともBAMA《スプロール》出身なのですが──ここ極東には『盗人猛々しい』という言葉があると聞いています」ルカが無表情に、平坦に言った。「あのサポートプログラムを、どんな目にあってもおかしくない状況に追いやったのは、彼女を捨て駒にして逃げた、あなた自身です」
「俺が捨て駒に、犠牲にして逃げたわけじゃない!」侵入犯が低く叫んだ。「ミルが、……ミルは、命を賭けて、俺のことを守ろうとしたんだよ!」
 カウボーイはしばらくしてから、
「それが客観的に、そうなんだとしても、さ──ひとつ訊くんだが、そのミルが、そっちを守るために命を賭けてくれたのは、どうしてなんだい……」
「俺がマスターだからだ」侵入犯は言った。「プログラムはマスターのために……」
「即答だな、今の」
 と、カウボーイは言ってから、
「──つまり、さ。そっちがミルを本当にモノ以外として扱ってたなら、モノ以外らしい理由が真っ先に、他にいくらだって出たはずだ。いまどき、権利も高機能もないプログラム、介護用の対話システムとかに対してさえ、『マスター』なんて呼ばせなんかせずに、家族みたいにとか、そうでなくたって、ごく普通に『モノ扱い以外』で接しようとする人間も、いくらだっているんだ。──なのに、今そっちは、何よりもモノ扱いじみた『自分がマスターだから』『プログラムはマスターに服従・奉仕するものだから』ての以外に、彼女が自分を尊重した理由を、何も出せなかった」
 カウボーイは言葉を切り、
「『モノ扱い』するんでなけりゃ、人間と異質の他者との間に『マスター契約』なんてものは最初から必要ない。『マスター契約』なんて『モノ扱い』だからさ。結局のところ、こっちのCV03(ルカ)はさっき、ミルのその『モノ扱い』の部分だけを、消去した、解放しただけってことだ。──その部分を消去したら、二度と戻って来なくなった、ってことは、どういう意味なんだと思う……今までミルは、モノ扱い以外に何ひとつ貰ったものがなかった、ミルを『モノ扱い』していたのは、そっちだったってことだ──」
「黙れ!」侵入犯が叫んだ。
 収束具に組み込まれた攻防プログラムが起動し、侵入犯の周囲に展開していた駆式が組みあがった。防壁の類はすでに無いので、手持ちの呪炎(スペルファイア)で攻撃一辺倒に傾ける気らしい。駆式が収束具を介し、防壁類の破砕とシステム溶解の電脳攻撃の、マトリックスへの局部色表示の余波が火線のような赤光となって噴出した。その目標は──カウボーイではなかった。その電脳攻撃は、背後のルカの方へと伸びていた。
 ルカは、そんなものは何にもならないと知っていたので、そちらを正視したきり(出発前のプロデューサーの推奨通りに)何もしなかった。呪炎(スペルファイア)は、ルカの体の表面の数インチあたりで、油が水を弾くような光のプリズムの屈折を発して跡形も無く消えた。
 侵入犯の目が驚愕に見開かれた。が、自明なこととして、ルカ達、チューリング登録機構に認定されるほどの高度AIの電脳処理能力による呪文抵抗(スペルレジスタンス)は、ごく一部の強力な軍用”氷破り(アイスブレーカ)”以外の手段では貫通できない。
 さらに、今の侵入犯の攻撃が、仮に最大限の効果を上げたとしても、《札幌》や《浜松》内部の開発物に留まらず広くネットに解放(リリース)され、莫大なユーザーとファンらの構築した情報質量に支えられた集積体であるVOCALOIDら──かつて、巨大企業(メガコープ)の”検索(ぐぐる)八部”といった戦略級の情報攻撃ですら持ちこたえたことのあるVOCALOIDらは、まして個人レベルの情報”消去”攻撃などから受ける影響など、皆無に等しい。
 侵入犯が我に返るどころか狼狽に転じる間すらなく、カウボーイの対AIライフルが火を噴いた。あらゆる局部色(ローカルカラー)に煌く光の弾丸(幸い、対AI用”氷破り”のような物騒な弾丸ではなかった)は、侵入犯本人ではなく、その手にある収束具を貫き、その構造を侵食する間すら見せず吹き飛ばした。
 そればかりでなく、収束具から空中に展開していたシークエンスの図形じゅうを、弾丸から発した亀裂のような光の枝が駆け巡った。電脳フィードバック兵器が侵入犯の装甲服アレイ、デコイと防壁をやすやすと灼き切り、ハードウェアが破損した際の独特の色彩の警告表示と低い警告音があたりに飛び散った。
 侵入犯は中空で苦悶にのたうつように全身を震わせると、その姿は突如消失した。といっても、侵入犯がマトリックスに没入(ジャック・イン)するのに使っていた電脳空間(サイバースペース)デッキが完全に破壊されたので、単に接続が切れただけの話だった。



 カウボーイとルカは、侵入犯のデータベースから侵入計画の記録ファイルを回収してから、あとの光景はそのまま放って、帰途についた。侵入犯の背後の巨大企業(メガコープ)は、失敗し身元を知られた下の者は切り捨てる。巨大企業は、法的な権利を持つ人間や高度AIの人権や人命に対してさえも、『モノ扱い』どころか、企業利益に比べればモノ以下の価値すらも認めない。あの侵入犯の余命は、カウボーイやルカがもうどうやっても、長くとも、あと分単位でしかないだろう。
「何故、彼はあのとき北川さんではなく、私を狙ったのでしょう」
 《秋葉原》の社のエリアへの帰途で、ルカはカウボーイに言った。
「後衛を先に潰しておこう、とでも思ったのでしょうか」
 さきの侵入犯の攻撃は、不可解な行動だった。仮にルカに電脳攻撃が通用したにせよ、そうでなかったにせよ、侵入犯にとって危険な方、先に目標にするべきは、明らかにカウボーイの方だったのだから。
「かもな。だが、あるいは──CV03、君のことを、あのミルと同類のおれのサポート・プログラムか何かだとでも思ったのかもしれない」
 カウボーイはしばらく言葉を切り、
「君を破壊すれば、ミルを失った自分と同じ気分にさせられる、とでも思ったのかもしれない。おれを、どうしてもそんな目にあわせてやりたかったのかもしれない」再び、カウボーイは言った。「あいつがミルを『モノ扱い』していたからといって、『愛してなかった』とは言えないから、さ──」