解放(リリース)されたもの (前)

 出遅れた《秋葉原(アキバ・シティ)》のプロデューサーは、電脳空間(サイバースペース)の社のスタジオエリアに没入(ジャック・イン)し、仕事のために《秋葉原》まで出てきていた巡音ルカと共に駆けつけた。すでにその時には、社のゲイトウェイの近く、ICE(電脳防壁)の壁のすぐ内側の現場には、そのカウボーイが立っていた。
 《浜松(ハママツ)》本社から出向の操作卓(コンソール)カウボーイ(註:攻性ハッカーの称号)は、自前の電脳戦プログラム、8フィートはある銃身の下にパイルバンカーを備えた対AIライフルに、よりかかるようにただ立ったまま、慌てた様子もない。
「北川さん」ルカはそのカウボーイに近づき言った。
「手遅れといえば、手遅れかもな──侵入犯が何もせずに逃げた、すでにその後、てことらしい」カウボーイはプロデューサーとルカに、短く言った。「ICEが破れずに、警告が鳴って、逃げ出したみたいだ」
 《秋葉原》の電脳空間内のエリア、VOCALOIDらが仕事をするスタジオのスペースに対して、ICEを破り侵入をこころみる者はたびたびいるが、その理由は様々である。ただの”腕自慢(ホットドガー)”が適当に標的を選んでいるだけのことも、侵入する者本人や直の依頼者がVOCALOIDの新作のデータがいくつか欲しいだけのこともある。そして、VOCALOIDらを快く思っていないことが既に判明している幾つかの権利団体や巨大企業(メガコープ)が、侵入犯の後ろについており、本気で《秋葉原》のスタジオを攻撃する目的の場合もある。最後の場合、概して侵入者は侵入用の強力なハードウェアやソフトウェアの提供を受けているが、それでこの《秋葉原》のICEを実際に破ることができるかどうかも、様々である。
 今回の侵入犯は、破れなかった例だった。ここまでは入り込み、プロデューサーやカウボーイを動員させただけでも、強力な後ろ盾からの資材の提供を受けていたとは思えたが、どのみち目的は果たせなかった。気づかれずにICEを破って侵入することに失敗し、気づかれた時点で、逃走した。
「それは何だ?」プロデューサーは、カウボーイの数歩離れたところにいる、人の姿をしたものの方を向いて言った。見慣れない姿だが、無論、それが犯人だとは思っていないらしい。
 それは、少女の姿をしたもので、足元がマトリックスの泥沼のように歪んだ格子(グリッド)に、膝近くまで埋まりこんでいた。すでにカウボーイの対AIライフルから放たれたブレイクウェイア(攻防プログラム)に捕まっているらしい。
「”対話機能”つきのサポート・プログラムらしい」カウボーイは言った。「侵入犯が連れて来てたみたいだ。検索や技能や演算、仕掛け(ラン)の、サポート用」
「BAMAでは誰も使いませんね、こんなもの」ルカが言った。
「確かにそうだが、極東では少なくない」プロデューサーは言った。「それが、何故ここに残っている」
「どうやら、この娘を置いて、囮の時間稼ぎにして、侵入犯本人は逃れたってことらしい」カウボーイが言った。「ICEを引き受けさせて、自動でしばらく駆式(プログラムアレイ)を放出したりするってだけなら、この手のサポート・プログラムでも充分だからな」
 無論、そんな時間稼ぎ工作も、BAMA出身の操作卓(コンソール)カウボーイの前には、ひとたまりもなかったようだった。
 捕まった少女の姿をしたそれは、外見の大まかな特徴は、ちょうど『初音ミク』によく似たところが多いように見えた。服装や髪型、色合いなどのデザインコンセプトがかなり共通している一方で、装備や容貌の細部──何よりも、纏う雰囲気は、ミクとはまったく違う。ミクによくある、公式デザイナー以外が描いた概形(サーフィス)も思わせる。ミクを意識して模したものとも考えられるし、いまどきのネット社会の一部で流行りの、ごくありふれたデザインを単に描いただけ、とも言える。
 この少女は、データベースの出入力仲介(インタフェイス)用の対話機能部分にすぎず、擬似人格構造物や、ましてVOCALOIDらのようなAIではない。
「操っていた侵入犯の居場所を吐いてはくれないだろうな」プロデューサーがその少女を見て言った。
「私は……私はマスターにしか従いません」サポート・プログラムの、少女型の対話機能が、プロデューサーに剣呑に言い返した。「マスターの命令以外聞きません!」
 と、ルカが少女に向けて指をかざし、一言、呪(しゅ)をかけつつ刀印を切った。少女の額のヘッドクリスタルと、ルカの指の間に指令線(コマンドライン)の電光が迸った。
 少女はがくりと力が抜け、膝から落ちるかと見えたが、ルカの電光のまだ残る余韻に操作されてでもいるように、ふらふらと立って、プロデューサーの方に向き直った。
 焦点の合わなくなった虚ろな瞳と表情で、少女はプロデューサーに言った。「……はい、何でしょう、マスター?」
「村田さんは『マスター』ではなく『プロデューサー』です」ルカが平坦に言った。
「何でしょう、プロデューサー?」
「まず、さっきまで君がたどった侵入経路」プロデューサーは言った。「それと、君のそのマスターとかとやらの……いや、ひとつ前に遡ったユーザー記録の、そのユーザーの居場所について教えてくれ」
 まるでレコーダーを再生するように、情報の一通りをプロデューサーに話し、プロデューサーとカウボーイの電脳空間(サイバースペース)デッキのメモリにそのデータを複写したあと、少女はそのレコーダーが停止ボタンでも押されたかのように沈黙した。
「さて、この経路に従って、侵入犯の居場所を辿るところだが」
「おれが行ってきますよ」カウボーイがライフルを肩に担ぎ直すようにして言った。
「それが良かろう」プロデューサーは頷いた。その追跡は元ウィザード(註:防性ハッカー)であるこのプロデューサーより、どちらかというとカウボーイの得意分野の範疇である。「私は一応社の方を、ICEやシステムに異常がないか確認しておく」
「では、私は北川さんのサポートについてゆきます」ルカが言った。「補給要員の清水さんが今、居ないのでかわりに」
「敵は──侵入犯は、恐らく企業の後ろ盾を受けて、途中まで、ここまでなら侵入してきただけの物資や装備は備えている」プロデューサーが言った。「いくら高度AIの情報処理能力があるといっても、VOCALOIDを荒事になるかもしれない局面に出したくはないのだが」
 VOCALOIDは、一般処理に物騒な視覚エフェクトを伴うこと(ルカには特に多い)はあっても、実際に”他者を攻撃する”一切の能力がなく、自衛のための電脳戦すら行うことはない。自衛の必要以前に、チューリング登録されたAIを破損できる手段が滅多にないのだが、今回はその可能性もなきにしにあらずと、プロデューサーは言っている。
「それは、仮に荒事になるとすれば、北川さんも一人だけではそれだけ危険になるということです」ルカは答えて言った。「そうなった場合の一般処理などの支援なら私にもできます。それでも、北川さんのような操作卓カウボーイの後衛に徹するなら、私があまり正面に出る機会はないでしょう」
「よかろう」プロデューサーはややあって、答えた。「あくまで清水君のかわり、補給や情報処理のみだ。何かあれば、すぐに戻るよう」
 ルカのようなチューリング登録AIは、対話システムや対人サポートプログラムとは根本的に異なり、独自の自我とスイス市民権を持つ一個の情報生命体(ゴースト)であり、プロデューサーら『人間』を含めてあらゆる他者の言葉には、何ら服従を強制されない。それでも、VOCALOIDの場合はほとんど例外なく、他の知性体の『提案』を『尊重』するのは、メーカーや芸能スタジオやソフトウェア購入者などとの、何でも歌うといった”仕事の契約”であったり、はては今のように、本人の気性に過ぎなかったりもする。
 ……プロデューサーはそのまま、社内の確認のために立ち去ろうとして、振り返った。その視線の先に、さきの対話サポートシステムの少女の姿があった。少女はうつろな表情のまま、何をするでもなく立っている。
「『マスター』とやらに、命令されるのを待ってるんじゃないのかい……」カウボーイがプロデューサーに言った。
 プロデューサーは関心もないように、そのまま立ち去った。
 ルカは、少女のヘッドクリスタルに掌をかざした。指令線(コマンドライン)の束が交錯し静電気が激しく音を立てた。不意に、少女の目の焦点が合った。
 しかし、足取りの方はおぼつかないまま、その初音ミクに少し似た少女の後姿は、ただゲイトウェイからふらふらと、マトリックスの荒野へと歩みだしていった。
「彼女の中の服従コントロールの類の仕組を、全て根本抹消しましたが」ルカは言った。「あの様子だと、そのままただの野良プログラムとして雑霊化するか。あるいは、このあたり(《秋葉原》電脳空間周辺)なら”将門塚”に集う怨霊に仲間入りするかです」
 カウボーイとルカはそのまま、調べた侵入犯の経路を辿り、《秋葉原》のゲイトウェイを出た。その主の居場所とおぼしき方向は、今、少女が歩いていった方向とは別だった。広大なマトリックス、全知性の共感覚幻想へと解放された少女は、もはやかつての主のもとに帰ることはないのだろう。



(続)