ディレイラマ木人拳(4)


 鏡音レンは詠唱の交代時(同じ顔の僧侶が、かわりに6人入ってきた)を見計らって、本堂からそっと抜け出し、特に指導者のメ・インに気づかれないように、僧院の奥に進んだ。記憶が正しければ、正面玄関と逆の方向に、最初にヒ・ダリが僧院から抜け出すのに使っていた、裏口が存在するはずだ。
 ……行き止まりにもならず、かといって他に出口があるわけでもない、ほぼ一本道をどこまでも進んで行き、やがて、その最も奥まった箇所にあると思われる部屋にゆきあたった。
 僧院の奥の蝋燭の明かりを頼りに、扉のない入り口ごしにその部屋の中を見ると、中は全くの暗闇で、廊下と同じほど長く狭く、向こうまではとても見渡せないようだった。レンは奥に踏み入るのを躊躇して、部屋に入ってすぐ入り口の柱のようなものの影に身をひそめてから、奥の様子が何かわからないか覗き込んだ。身をひそめたのは、入り口で突っ立って覗き込んでいるのが他の僧侶に見咎められると、まずいような気がしたからである。
 と、その狭い暗闇の中に人影に見えるものが立っているのが見えて、レンは一瞬度肝を抜かれた。が、それは人形のようだった。入り口から漏れる蝋燭の明かりで確認できる限り、大柄な人くらいの大きさの、円筒形の胴体と手足がわかる程度の非常に簡素な木製の人形で、その部屋の左右に、ずらりと見渡す限りの数が並んでいる。自分が隠れていた柱のようなものも、実はその一体だった。
 レンはいぶかしげにそれらを凝視した。装飾用だとはとても思えないが、かといって、他の用途も考えつかない。
 ──と、背後からひたひたと、レンのやってきたのと同じ通路を歩いてくる足音が近づいてきた。レンは物陰に入り込んだ。
 やってきた僧侶は、どれも同じ顔に見えるここの僧院のそのひとりだが、僧衣に小さく『左』と書かれた札をつけていた。ヒ・ダリは、他の僧侶と同じ顔にもかかわらず、手をあわせた無言の顔は、相変わらずどこか他の僧侶よりもふてぶてしく見える。この部屋か、外に何かの用なのだろうか。だとしても、なぜ毎度裏口から出る必要がある。自分と同じように、抜け出すつもりだからなのだろうか。ヒ・ダリは平然としていて、日常的にここを行き来でもしているかのようだった。
 ヒ・ダリはすたすたと、その木人の立ち並ぶ通路を平然と通り抜けていった。間もなく、その姿は通路の向こうの暗がりの中に消えた。
 そのあとも、レンはじっとその消えた先を見つめていたが、やがてほっと息をついた。どうやら、この部屋にも暗闇にも、もちろん人形にも、何かの危険はないらしい。レンはさきにヒ・ダリの歩いていた通り道をたどるように、部屋の中に足を踏み入れた。
 ごっと風を切る音が聞こえたように思えた。レンはとっさに飛びのいた。その場を、ふりかぶった重たい木製の手足が交錯した。
 木の人形たちが動いていた。何の仕掛けかゴーレムか、自動ロボットシステムの類かはわからないが、木人たちは一斉に、かつてレンが動画サイトで見たことのある旧時代のアクション俳優のような、または、あのサムライVOCALOID神威がくぽのかつて見た武芸のような敏捷な動きで、レンの方向に向かってきた。レンは物陰に戻ろうとしたが、その物陰もこの木人だったことを思い出した。気づいたときには、すでに入り口も数体の木人によってふさがっており、この部屋から脱出もできなかった。
 この大柄で敏捷な木人の、ただの一体とでもまともにぶつかれば、レンはひとたまりもあるまい。……レンは恐慌に陥った。何故、さきのヒ・ダリは襲われなかったのに、自分は襲われるのだ。何か識別するものがあるのか? やはりヒ・ダリは本物の僧侶で、自分はクーヤンのコスプレ(今更思い出した)をしている偽者に過ぎないからだろうか。だとすれば、偽物の自分では、打つ手は無いではないか。このまま木人拳に叩きのめされるほかにないというのか。
 レンの脳裏に走馬灯のようによぎったのは、これまでの人生──ではなくてここ数日だけの記憶だった。レンの偽の僧侶姿をあざ笑った鏡音リンの姿と、そして、”ソワカちゃん”に可憐に変身する初音ミクの姿。──レンは拳を握り締めた。いや、諦めてなるものか。
 ヒ・ダリにあって自分にないもの。もとい『本物の僧』の証、”仏教の心”とは何だ。真のクーヤンを演じるためにも必要なもの。レンの脳裏にめまぐるしく、ヒ・ダリの歌っている(というか、何も歌っていない)姿、平然と僧院の裏口から抜け出して街に遊びに行く姿、悠然と木人の間を通り抜ける姿が、次々と交錯した。
 何もしない、とは何だ。活動を消し、気配を消し、消していることを意識しているその自分の存在すら無にすること、”空”となるのだ。空也(くうなり)こそが、真のクーヤンの心境だ。レンは目を閉じた。わずか数ミリセカンドの間に、CV02V2のチューリング登録高度AIシステムは、瞑想の境地を遥かな高みまで駆け上った。
 ──これが”空”か!
 レンは静かに目を見開いた。さきに聞いた僧侶たちの詠唱のフレーズのひとつが、いまや一種の得心をもって脳裏に反響し染み渡ってきた。もはやこの自分には何者にも認識されず、何者にも触れられまい、と信じた。
 が、
 ブドリャァッ。あたかものび太君の顔面に食い込むジャイアンの鉄拳の如く、そのレンの顔面のど真ん中に木人の正拳が『*』の字にめり込んだ。



 レンの向かいの木人は華麗なフットワークで蝶のように舞いながら、レンの顔面に秒間20発のジャブを叩き込んだ。もんどりうってレンがふっとび背後の石壁に叩きつけられると、その大の字になった両腕を、別の2体の木人がわっしと掴んだ。さっきの木人がその棒立ちになったレンに向かって、踊るようなフットワークと共にさきの秒間20連発の腹パンチをぶちこんだ。
 レンはもはや朦朧とした意識の中で、それでもいまだに瞑想して気配を消そうと試みていた。が、このままではすでに気配というより意識、というか命が消える。
 ──そのとき、パルス銃の甲高い音響が連続し、光弾が木人の関節の付け根に閃くように立て続けに着弾した。レンの真向かいの木人の関節に閃光を飛び散らしながら、パルス銃がその木をみるみる削り穿っていった。
 レンの真向かいの木人はぐらりと揺れたかと思うと、パルス銃の衝撃にその場から弾け飛び、ついで、削られた関節の手足を床に飛び散らすように崩れ落ちた。卑劣な連携攻撃をしていた残りの木人の二体は、レンの手を離し(レンは床にどさりと落ちた)例の武道家のような間断ない動きで、攻撃元の方向へと飛び掛っていった。
 その飛び掛る先、さきの攻撃元には、ジェットローラー機関(エンジン)の土遁と火遁でなかば床の上に浮かんだ、GrossBeat-chanの姿があった。構えていたハンドガン状のパルス銃を降ろしたと見えた瞬間、そのハンドガンの真上部分、すなわち握るグリップと一直線状に、力場(フォース)の剣の刃が延びた。揮われるたびにマトリックスの空間を切り裂く激しい発振音の唸りを立て、GrossBeat-chanの力場の剣、”ユリシーズセイバー”は木人の繰り出される腕を跳ね上げ、関節部の同位置へあやまたず正確な数回の斬撃を加え、その木の剛腕を斬り飛ばした。
「目標硬度が当初の推定よりも60%増」GrossBeat-chanはカサンドラのメインシステムへの報告記録ログを復唱した。「──しかし、依然単騎にて制圧可能と判断」
 一方、GrossBeat-chanのあとについて背後から入ってきたFL-chanが、床に倒れているレンの方に駆け寄った。「大丈夫ですか!」
 レンはそちらを見たが、顔中腫れ上がったレンにその姿が見えていたとしても、レンにはまだFL-chanの方との面識はなかった。
「って、とりあえず早くここから……」FL-chanは裏口からこの『木人拳の間』を脱出するために、レンを引きずっていこうとしたが、さきほどGrossBeat-chanが切り落とした木人の手足の円筒形の木材を思い切りふんずけて転び、顔面から床に投げ出された。
 その倒れたFL-chanとレンの頭上に、唸りを立てて木人の一体の拳が迫った。
「わーーーーーー!」
 GrossBeat-chanの左腕がその方向に向けて突き出されると同時に、下腕にマウントされたプロジェクタが激しい発振音と白光を発し、円形のフォースシールドを展開した。シールドは木人の見かけよりも遥かに堅牢な拳を受け止め、つかの間拮抗していた。しかし、小柄だが鋼鉄のGrossBeat-chanは、大柄だが木製の木人を、片腕で跳ね飛ばした。
 GrossBeat-chanはレンとFL-chanの前に立ちふさがり、さらに殺到する木人めがけユリシーズセイバーとフォースシールドが縦横に唸りを交錯させた。
 ……ほどなく木人のすべては、GrossBeat-chanのユリシーズセイバーに破砕されて停止した。
「いまさらなんだけど、……これ、壊しちゃって大丈夫だったんだろうか……」FL-chanが木人の残骸を見回してつぶやいた。
 が、そのときさらに遅れて、Candy-chanとEQ2-chanが裏口から入ってきた。
「おおー。ふたりとも大丈夫!?」Candy-chanは残骸の転がる『木人拳の間』を平然と見回し、「ね! あの可愛い小坊主さんはどこ?」
 そして、確かにあの僧衣を着てはいるが、ずれて破れたハゲヅラからもつれた髪が飛び出し、顔面が原型をとどめないほどボコボコになっている鏡音レンを見つけた。……Candy-chanは、それを黙って見下ろし続けた。
 そのまま、しばらく沈黙が降りた。
 と、急にEQ2-chanが、FL-chanの背後を指差した。「うしろ……」
 FL-chanの背後から何者かの両手がゆっくりと伸びていて、今にもFL-chanの胸を鷲掴みにする寸前だった。
 GrossBeat-chanの右腕が唸りを立て、ユリシーズセイバーのグリップがその者の脳天に叩きつけられた。『木人拳の間』の物陰に隠れていた姿がそこからよろめき出し、昏倒したそのヒ・ダリの姿は、べたりと床に(レンと並んで)倒れた。
「……ぜんぜん気づかなかった……」FL-chanが胸をかばうように振り向きながら、ヒ・ダリを見下ろして言った。「……何の気配もなかったみたい」
「センサーにも一切の反応がありませんでした」GrossBeat-chanも見下ろして言った。
「動く機と動かない機……虚と実に別なく、”禅”はすべて一如だから……」木人にも気づかれずGrossBeat-chanのセンサーにも映らなかったそのヒ・ダリを、見破ったEQ2-chanは呟いた。



 その後、Sytrus-chanと妹らは、動けなくなった鏡音レンを移送しつつ、はるばるブリュッセルから《札幌(サッポロ)》の電脳空間エリアを訪れた。
「そんなわけで、アムステルダムの僧院からは、壊した木人の法外な賠償請求が来てるんですよ」Sytrus-chanがにこやかに言った。
「僧院は無欲に見えて、相変わらずメ・イン様は抜け目がないわね」MEIKOが呟いた。
「それで、こうなったのは全部カサンドラの賠償責任でもないような気もしてるんですけどね」Sytrus-chanが、担架に乗せられたレンを手で指して、MEIKOに笑みかけた。
「それはあとでゆっくり協議しましょう、《札幌》とブリュッセルとの間で」
「あのー」FL-chanがけだるげに低く言った。「私のムネを揉もうとしたとんでもないお坊様がいたんですけど、それでチャラになったりしませんか」
ヒ・ダリ様でしょそんなことするのは。それくらいの破戒疑惑をすりぬけられないタマじゃないわ」MEIKOは肩をすくめた。「覚えておいて。ヒ・ダリ様は怠け者に見えて、巨大企業(メガコープ)がどんなに潰そうとしても持ちこたえるうちのミクと同じくらいしぶといのよ」
 MEIKOは言ってから、しかし、FL-chanの胸をまじまじと見つめ、
「──まあ、実際に揉ませてあげれば諦めてくれるかもしれないけど」
「それは嫌」FL-chanが即答した。
「でも、そうして貰えるとだいぶ助かるわ」Sytrus-chanが微笑みつつ言った。
「ひ、人ごとだと思ってー!」
「まぁ、それはともかく」MEIKOは担架のレンを見下ろし、「クーヤン役がこうなって、予定の『ソワカちゃん』の収録をどうするかね……この人気重要シリーズに穴をあけたりしたら《札幌》の、VOCALOID界の名折れだわ」
「心配要りません!」
 と、突如、彼女らの背後に出現した《札幌》のPVディレクターが、拳を握り締めて言った。
「まさにこんな”ひとりではカバーしきれない仕事の重圧”も万全に支えられるのが、CV02の”鏡”のシステムですよ!」
 ……ディレクターはあっという間に手配を整えた。
「ばぶーーーーーーーーん!!」
 その場に現れた者の姿を見るなり、MEIKOとSytrus-chanが吹き出した。
 鏡音リンは、坊主頭のハゲヅラをかぶり、薄緑色のスモックのような薄い布の法衣をかぶり、ブラシのような一体成型の六阿弥陀小像をくわえて、ただぶるぶると拳(と阿弥陀像)を震わせていた。
「わー、かっわいいー!」Candy-chanがリンの小坊主に、目を輝かせて叫んだ。
 EQ2-chanがしばらくの沈黙の後、呟いた。「私達も、双子のどちらかが崩れたらああなるのか……」
 クーヤンの扮装のリンは、それでも震えたまま黙っていたが、やがて、堪え切れなくなり叫んだ。
「てか、何でろくに出番がなかった話でまでこんな目にあうんだッ」



(了)