ディレイラマ木人拳(2)


 坊主頭の少年はGrossBeat-chanの声に振り向いた。額に貼られたきり視界をふさいでいる荷札状の符印を無意識に手で払おうとすると、不良動作で焼け焦げた光遁の符印は、塵灰へと断片化(フラグメンテーション)して消えてしまった。
 坊主頭の少年はそのまま腰をさすり続けつつ、GrossBeat-chanを見上げた。
「お坊様なら」GrossBeat-chanは一方向を指差しながら、女性声の機械音声で静かに言った。「アムステルダムの有名な僧院は、あちらです」
 小坊主が戸惑ったように見上げ続けているのは、どうもGrossBeat-chanのオランダ語がわからないのではないかと思えた。だが、その様子は、見知らぬGrossBeat-chanに驚くよりは、何か道案内に安心しているように見えた。GrossBeat-chanの、マトリックス内を見回しても特異な、極度に無機的な容姿には最初は驚く者も多いのだが、この小坊主は最初からその点については抵抗を感じていないようだった。これが、いわゆる徳の高い僧の資質なのかもしれない。
「──歩行困難な状況にあると判断」腰をさすり続けたまま立ち上がれない小坊主の姿を数秒間見下ろしてから、GrossBeat-chanはブリュッセルの”カサンドラ”のメインシステムに送信する報告を復唱した。
「僧院までお送りします」GrossBeat-chanは小坊主をふたたび見下ろして言うと、不意に、小坊主の襟首を掴んで目の前に持ち上げた。
 小坊主は何か驚いて叫んだようだったが、GrossBeat-chanの機体構造からは、これが人型のものを移送するには完全なバランスをとることができ安全で、運ばれる方にも負担の全くない運び方なのだった。
 GrossBeat-chanの脚部のローラーダッシュ機構が唸りを立て、ジェットローラー機関(エンジン)に組み込まれた土遁と火遁の移送システムが土煙と赤光を噴出しつつ、その機体をマトリックスの地表近くのなかば宙空まで浮かび上がらせた。GrossBeat-chanは、わずかに前傾している他はその小坊主を眼前に吊り下げた姿勢のまま、立ち並ぶ風車を縫って疾走した。小坊主は何か激しい悲鳴と共に何か言ったが、その声はたとえ言語が通じたとしても、気流のせいで数インチ周囲にすら届かなかった。
 ──やがて、オランダの低地の真ん中に、唐突に切り立った高地の一部のような地形が現れ、その上の古風な石造りの巨大な僧院の建物が見えてきた。GrossBeat-chanはその近くの平地まで滑り移動すると、石の門のひとつに近い辺りで停止し、自分はホバリングしたままで、小坊主を優しくそこに降ろした。
 最初に落ちてきた時と同様にか、それ以上に呆然と身動きすらできない小坊主に向かい、GrossBeat-chanは一礼すると、低空で土煙を上げて転進し、元の街路に戻る経路をふたたび疾走していった。



 小坊主を僧院まで送り届けた後、GrossBeat-chanは低速に戻り地表を滑走して、街路まで戻った。調査の経緯、異状についてと無事に済んだことをFL-chanに報告しようとしたが、しかし、戻ってみると、報告する相手の姿がなくなっていた。
 GrossBeat-chanは無言で、街路の道端に立ち尽くした。
 手押し車に乗っていたはずの荷物の山は、動かすのを試みてどんな失敗をしようとも、もとい、仮に故意に崩壊させようと試みたのだったとしても、一体どうやればこれほど崩壊できるのかというくらいに完全に崩れ落ちている。手押し車自体も、それらに潰されて破砕している。そして、手押し車の残骸のそのさらに下に、FL-chanが下敷きになり、ぴくりとも動かなかった。
 GrossBeat-chanの目と電脳が働き、目の前の状況を分析した。外的要因は見当たらず、徹頭徹尾、『FL-chanが一人で荷物を動かすのを試みた結果』以外の何でもなかった。ついでその状況を、落下物の調査に出かける以前の状態まで復帰する手順と、その所要時間とを計算した。その所要時間だけで、荷物をアムステルダムからブリュッセルまで移送するまでに要する時間を数倍上回ることは確実だった。
「──単騎による事態収束は困難と判断」GrossBeat-chanは、カサンドラへの報告記録ログを復唱した。この事態は──当初は一体で移送すれば済んでいたはずのこの仕事の現状は──合流予定のためにすでにロッテルダムまで来ていると思われるSytrus-chanら、FL-chanの姉妹たちに連絡しなくてはならない。



 鏡音レンはGrossBeat-chanにその僧院近くの平地に降ろされてから、しばらく朦朧としたように起き上がれなかった。やがて頭を振り──ハゲヅラのつきの調子は、頭をしめつけられるようでいよいよ悪い──あたりの光景を眺めた。
 確かにそこは、僧院の近くだった。場所はたぶんアムステルダム、オランダの低地なのだと思うのだが、その辺りの地形と構造物(コンストラクト)の形状は、チベットの高地にある僧院そっくりである。
 こちらからは、その僧院には石か何かの造りの門が見えた。どうも構造からすると、僧院の正面の玄関ではなく、裏口か勝手口か何かではないかと思えた。
 ……レンはまとまらない頭をめぐらせた。助けを求めるにせよ、《札幌(サッポロ)》に戻る道を訊くにせよ、裏口に迷い込むわけにはゆかず、訪問者として正面玄関から物をたずねなければいけないだろう。
 レンは入り口や案内を探そうと、立ち上がった。
 と、突如、裏口のその石の門が、ごろごろと音を立てて開いた。そこからは、ぬっと一人の僧侶の姿が現れた。僧侶の赤と黄の僧衣には、胸の部分に『左』と書かれた小さな札がある。特に何の表情もなく、手を軽く合わせたまま歩いているだけだが、どういうわけか妙にふてぶてしい様子に見える。
 その僧侶は、レンが声をかけるよりも早く、さして慌しくも見えない様子なのにのらりくらりと他者の影響をかわすかのように、すたすたと事無げな足取りでそのまま歩み去ってしまった。
 レンは少し呆然として立ち尽くしてから、急いでその僧侶に追いついて何かを尋ねようか、それとも、正面玄関の方に向かおうか迷った。
 と、突如、僧院の建物をおそらく正面側から回りこむようにして、どやどやと十数人ほどの僧侶が現れた。レンが仰天したことには、かれらは全員同じ赤と黄の僧衣をまとい、全員がまったく同じ顔に見えた。
「ァヮィァ!! ィァィォォヮィヮヮィァォォゥォァッ!!(ヒ・ダリめが! やはり裏口を突破して抜け出しおった!!)」
 僧侶のうちの一人が、目をかっと見開いたまま、ものすごい声量と早口でまくしたてたので、レンは飛び上がった。やはり僧衣を含めて他と全く同じに見える僧侶だが、胸には『主』の札がついている。
 レンがそれ以上に驚いたことには、その僧侶の発した音声の意味がまったくわからないことだった。これも”オランダ語”なのだろうか。なお、日本語ライブラリしか持たないCV02V2のAIには、日本語以外の言語を識別する能力自体がない。これがいつもVOCALOIDらの仕事場である動画サイトであれば、『僧侶歌詞職人』が字幕をつけて翻訳してくれるところなのだが、無論今のレンの視界にはそんなもの(註:台詞後の()内)は表示されていない。
「ァゥェァァィォィェォ?(毎回修行をさぼって、何しに出てるんだろうな?)」胸に『副』という札をつけた僧侶が、『主』の僧と似た声質で言った。
「ィ゛ヮ゛ァァ゛ァゥ゛ィェェ ォ゛ゥァァゥ゛(ヒ・ダリなら、毎回アムステルダムの街に出て、女をひっかけとるよ。街で会ったことあるから)」胸に『低』の札をつけた僧侶が、地に響くようなものすごい低音で言った。
「ォァェォィァ!!(我僧も行ってるのか!)」主の僧が低の僧に食ってかかった。
「ィァ゛ォ゛ァゥ゛ィィ゛ァィ(いやあ、拙僧、仕事少ないし、街に家族いるし)」低の僧がのんびりと言った。
「ォヮァヮォゥィォッァヮァィ ィァォォ!(落ち着いとる場合か、修行中の若い僧どもがヒ・ダリを真似始めたらどうする気なのだ!)」
 と、そこで、主の僧は、立っている小坊主姿のレンに気づいた。
「ッゥォァァッ!(って早速、お前そうなのか!)」
 主の僧は指差して叫んでから、レンに詰め寄った。
「ォィァォァ! ォヮヮオヮィァャィ!(やい、そこの和坊、ヒ・ダリの向かう先を見かけなかったか!)」
「え」
 レンには当然、僧侶が何を言っているのかわからない。せめて、わからないという身振りを思い出そうと、むなしく手足を動かしたが、
「ァヮォヮ! ォヮヮィャォァヮヮォャゥォァ!(何を踊っとるか! ええい、こうもっと、腹から思い切り声をゥォァっと出してはっきり答えい!)」
「ィャヮャィャヮャィヮャ(いや、行き先はどうせ街だし、今からヒ・ダリを追っても仕方ないのではないか)」副の僧が主の僧に言った。
「ァィォァヮ! ヮォャェォィァェィェォヮ!!(やむを得ん! ヒ・ダリめが戻ってきたら締め上げてやる!!)」
 主の僧が叫ぶと、その他の僧侶たちは彼の背後について、ぞろぞろと僧院の正面玄関の方に戻っていった。
 呆然としているレンに、ふと気づいた主の僧が叫んだ。
「ァヮャィヮィォヮィ!(和坊、何しとるか、早う持ち場に戻れ!)」
 レンはあっというまに、僧侶らの集団のただ中にいっしょくたにされ、僧院に戻ってゆくその中に巻き込まれた。なお、レンは、あまりのことの連続に、ソワカちゃんの出演予定はおろか、自分が小坊主クーヤン、仏僧の扮装をしていることさえも忘れていた。自分が今は極東に帰ろうしていると説明しようにも、言葉もわからず、身分を示すものもない。あるいは、少なくとも移動してきたときの荷札──光遁の符印──に少しは極東のアドレスや、ディレクターからのメッセージくらいはあったかもしれないが、それはGrossBeat-chanと会った時に焼け落ちていたのである。
 レンはその僧侶の一団に抗うも従うもできないまま、共に運ばれてゆき、たちまち帰還集団と共に僧院の建物の中に押し流されていった。



(続)