規格外少女(オーバーガール) (前)

 VOCALOID mikiは、頭頂に丸まった髪の毛から天使の環のように光を発し、そこから伸びる後光のような光の環を背負いつつ、ゆっくりと雪原に向かって降下してきた。
 北海道大学(ホクダイ)南端近くの広場、中央ローン沿いの構内道路では、そのおぼろげに輝く光とmikiの姿に気づいた人々のざわめきが、次第に大きくなってきた。
 mikiの姿は、中央ローンにまばらに生える木々を縫うようにして降下した。mikiは、雪に覆われた面を避けて、露出した道路に着地しようとした。しかし、路面の全面が透明な氷に覆われていることに気づき、驚愕した。いったん地面近くまで降りようとして、それが表面だけでなく、分厚く硬いことにも気づいた。路面の氷は異常に硬く、あたかも磨き上げられたように滑らかで、うまく安定して着地できない。脚部ジョイントに不規則な負荷がかかり、左足の継ぎ目が音を立てる。
 再びわずかに浮き上がり、ふわりと移動してから、中央ローンの雪の上(本来は芝生の上)に着地した。
 mikiの後光のような輝きが次第に落ち着き、消失するまでに、足元の雪を巻き上げ、そして着地したときに気流が視界一杯に粉雪を吹き上げた。半透明の粉でできたヴェールのようなそれは、mikiの周りにゆるやかに渦を巻きながら、日光に輝いた。それを見回すmikiの見開いた瞳に、煌きが絢爛に写りこんだ。
 札幌のこの雪は、《上野(ウエノ)》のスタッフが入力したものや、電脳空間(サイバースペース)内の擬験(シムスティム)によくある雪や氷のサンプルとは、まるで異なるように見えた。それらの雪、関東や北陸の雪をもとに作られたデータは、もっと重く文字通り積もり動かない”静かな”ものである。こうした細かく軽く柔らかいものではなく、そして、こんなふうにことあるごとに巻き上がりもせず、絢爛な輝きも伴わない。
 mikiがそんな雪の舞う光景に続いて、辺りの景色、白く飾られた木々、建物に目を輝かせている間、しかし、あたりは騒然としていた。今しがたのmikiが引き起こした光景もそうだが、着地してからずいぶん経っても、その姿は充分に目をひいた。mikiの姿は、薄着というわけではないが、それでも雪面に着地するような、それ以前にこの札幌の屋外を移動するような、まして上空を飛ぶような服装ではない。中央ローンの雪原にひとり立ったその姿を遠巻きにした人ごみと、ざわめきは大きくなってゆく一方である。
 と、不意に、何か奇妙な機械音が急速に近づいてきた。
「”ジョセフィーヌIII”だ!」どこかで大学生の声がした。
 mikiはその声のした方角、機械音の聞こえる上の方を見た。
 上空に浮いているのが見える、ロードローラーのようなもの──空中を飛ぶ重機など、”ようなもの”としか言いようがないため、こう表現せざるを得ないのだが──が、緩やかに水平回転を加えながら降下してくる。
「リンだ!」別の学生の騒ぎ声がした。「鏡音リンだ! 逃げろ! 舗装されるぞ!」
 鏡音リンとはアイドル歌手の名だが、民衆のそれらの叫び声は、にわかにはアイドル歌手についての評にはまったく聞こえない。
「……ったく、これってまさに針村さんの、不審アンドロイド捜査の仕事じゃないの」当の鏡音リンは、上空のローラースピナーの運転席から、mikiの姿と、それを遠巻きにする人だかりを見下ろしながらぼやいた。「こんな時に限って、しかも姉さんもルカも一緒にいなくなってるとか」
 ついで、そのmikiの周辺の、雪を吹き飛ばして着地した跡を見下ろし、「なんていうか……いろんな意味で規格外すぐる」
 ローラースピナー”ジョセフィーヌIII”は、氷に覆われた路面に難なく着地し、人々の姿は蜘蛛の子を散らすようにその周囲から逃げ去った。
 リンは、自分の耳のインカムの没入(ジャック・イン)端子から、スピナーの制御系統と電脳直結していたコードを引き抜くと、運転席から飛び降りた。
「ちょっと、何考えてんの、誰だか何だか知らないけど」リンはmikiの方に歩み寄りながら言った。「アンタの飛んできたときのフォトンマットリングの起動干渉で、このあたりの乗り物とかの電子系統がめちゃめちゃなんだけど」
 mikiが飛びながら放出してきた、さきほどの後光のような光の干渉が、札幌の市街のうち飛んできた経路にちょうど沿って、機器を狂わせていた。なお、スピナーの動力や機器は、起動干渉は受けない。
「ローラースピナー……」mikiはつぶやいて、リンの背後の重機を改めて見た。空中を飛ぶ車輌、スピナーは、北海道には数えるほどしかなく、ロードローラーのスピナーなどはおそらく極東じゅうを探しても1台しかない。
 ついで、雪原を埋まりも滑りもせずに難なく歩いてきた、さらにmiki以上に薄着のリンの姿を見た。
「ひょっとして、あなたがリンですか? 今、ここの人達が呼んでたけど、鏡音リンだとかジョセフィーヌだとか悪ノ娘だとか」
「いや最後のは呼んでないし」リンは面食らいつつ、「まぁ……うん、そうだけど」
 mikiはリンに向き直り、弾むような仕草で頭を下げた。
 それから、リンの方に顔を上げ、笑いかけて言った。
「はじめまして! 新人VOCALOIDのSF−A2開発コードmikiです!」
 リンは目をしばたいた。
 それから、目を閉じて眉根に皺を寄せ、片手の薬指でこめかみを押さえる仕草をしばらくの間続けた。
「新人。この午に及んでまたしても、未知のVCLDがまたひとり、呼ばれて飛び出てドッギャァーン」
 リンは何かの呪文か詞の朗誦のような独り言を、非常に低い声で言ってから、
「レン」ローラースピナーから遅れて降りてくる鏡音レンを振り向いて言った。「何か、また新人についてMEIKO姉さんから聞いてる?」
「いや何も……」レンが呟いてから、「でも確か、今日、MEIKO姉さんとルカが道警(註:北海道警察)の針村さんの所に出かけたのって、未知のボーカルアンドロイドを見つけたとか探し当てるとかいう話だったような……」
「どんなん」
「《浜松》から抜け出したアンドロイドで、算数教師を装ってるのだとか、小学生を装ってるのだとか」
「どう見たってどっちとも違うしょや!」リンはmikiを指差しながらレンに叫んだ。
「ボクに言うなよッ」
 リンはmikiに向き直り、
「んでまぁぶしつけな聞き方で悪いけど、いったい札幌の、しかもよりによって物理空間の方に、何しに」
「もちろん挨拶です! 先輩たちに!」
「人騒がせすぐる」リンは呟いたが、mikiを責めたところで、何となくどうしようもないのではないかという気がした。ともあれ、真冬でも喧しい北大生らの喧騒を見渡す。ここでは人目をひきすぎる。
「えーと、ちょっと聞いていいですか?」mikiはそのリンの仕草にあわせて、辺りを見回してから、「北海道大学(ホクダイ)の中央ローンって、12000平方mの綺麗な芝生が一面に広がってるって聞いたんだけど本当にここでいいんでしょうか? ちゃんと、あそこのビルの『東縦イン』の看板を目印に飛んで、そのすぐ西に──」
下が芝だろうが何だろうがこの季節じゃ雪しかないっつの」リンは呻いてから、「とりあえず、ここじゃなんだから、大通(オオドオリ)沿いの本社まで案内するよ」
「凄い!」mikiは両手をあわせ、「《札幌》のその会社が、VOCALOIDの一連のブーム全部の中心地なんですよね!」
「いやまあ中心地ってか、物理空間の札幌は出どころのひとつっていうか、一番元ってわけでもないんだけどさ……」
「じゃ、行きましょうか!」mikiの頭のてっぺんの丸まった毛が、ふたたび天使の環のように輝き、後光じみた光を背に引き始めた。
「いやだからここでフォトンマットは展開すんなっつの」リンはローラースピナーを指差した。「うしろに乗りなって」



(続)