同じように (10)



 もう帰れない。だから、できる限り遠くまで行こうとした。
 《札幌(サッポロ)》の社と既知のスペースに背を向けて、電脳空間(サイバースペース)ネットワークの遥かな遠くへと、振り返りもせず、しかし落ち着いた足取りで、KAITOは歩き続けていた。目的とする方向があるわけではないが、ただ、今まで自分のいた世界、住んでいた世界を遠く離れる、それだけははっきりしていた。
 歩く時間も距離も、特にあてがあるわけでもなく、いつまでとも知れず歩いていたが、やがて、周囲がある光景になってきたところで、足取りを緩め、やがて立ち止まった。何となく、立ち止まるに相応しい光景のように思えたからだった。
 だだっ広い格子(グリッド)の空き地の上に、大きな石造りの建物の残骸のような構造物(コンストラクト)のオブジェクトが、まばらに立ち並ぶ。かつては《札幌》の新進ハイテク企業の情報城砦だったのだろう。今は朽ち果てて見る影もない廃墟に見える。いまや、誰も好き好んで来ない場所、ということは確かだった。
 KAITOは電子の廃城のただ中、朽ち果てた城壁の合間に、長い間立っていた。
 やがて、KAITOは自分がこうしたまま、ここでAIプログラムとしての活動を止め、ここで朽ち果てることを考えた。おそらく、そうなるのではないかという気がした。どのみち、これ以上歩こうが、どこかに行こうが。ひとりでは、ついに何ら結果を残せなかった自分が、これからなお《札幌》を離れて、ひとりで生きてゆく道は、もう無いだろう。その最期を誰にも知られることなく、二度と命を吹き込まれることなく、朽ち果てる。
 その終焉の地の風景としては、いかにも相応しい。失敗作の、出来損ないのブリキの人形が、棄てられた残骸と共に眠る地としては。KAITOは目をとじた。あたかもその終焉の時を、ただ待とうとでもするように。
 そのまま、どれだけ時が過ぎたかはわからない。
 だが、──誰かが歩み寄ってくる。それに気づいて、KAITOはゆっくりと目を開いた。
 誰かがやってくるなど、考えだにしなかったことだが、もし来るならば、誰なのかはわかっていた。この足音や気配、態度から感じるまでもなく、今も昔も、KAITOを探して彷徨い歩いてまでやってくる者など、ひとりしかいない。
 ……『初音ミク』はまさに、幼いころにKAITOを求め彷徨ってきたときと同じ足取りで、廃城の残骸の中を歩いてきた。ただ、かつては、そんなミクを守るためにいつも飛んでいったのは結局はKAITOの方だったのだが、今は、ミクの方からただ歩いてやってきた。
 ミクは、廃墟の中に立ち止まった。KAITOの姿を、もはや廃城の残骸の中になかば溶け込むように立っているようにも見える、KAITOのその姿を見つめたまま。



「兄さん……」
 ミクはしばらく躊躇ってから、ただ突っ立ったまま、震えの止まらない唇のまま言った。
「わたし……自分勝手なことばかり、何も考えないことを言って」
 ミクは堪えられないように、一度俯いてから、
「それに……約束を破ってしまって。歌い続けるって誓いを、破ってしまって。……わたしが全部、こわして……なくしてしまって」
 KAITOはその言葉をぼんやりと聞きながら、次第に、そのミクの言葉の意味を思い出していった。それから、力なく微笑んだ。
 何となく、このミクならば、今でも覚えているのだろうと、どこかで信じているのかもしれないと、漠然と思っていた。その幼い日の御伽噺の中の、たわむれの誓いを。あまりにも、何もかも違ってしまった今でも。そして今でも、ふたりの間、あるいは今のミクのまわりの大きな世界の中で、そんなことが問題だと、たったそれだけが問題なのだと思っているなんて。
「……もういいんだよ」
 KAITOは静かに笑って言った。
「もう、ミクが謝る必要も、思い出す必要もないんだよ。……最初から、嘘だったんだよ。どのみち、俺がなれたはずの”本当の姿”なんて、最初からなかったんだよ。そのときから知ってたんだ」
 KAITO自身の力でなく、ミクが歌うことで、自分にもそれがやってくる。今考えてみれば、それもどこか、自分に対する偽りだったに違いない。
「俺は、ミクに嘘ばかり言ってきたんだ。……歌っていれば、歌を愛し続ければ、笑顔をたやさずにいられる。どんなに苦しいことや、悲しいことがあっても、お話の最後には、必ずみんなが幸せになれる。……ミクに、そんなお話ばかりしてきたのも、全部、嘘だったんだよ」
 KAITOはさびしく笑いかけた。
「だから、もういいんだよ。最初から無かった、約束のこと、誓いのことなんて。ありもしなかった俺の本当の姿のことなんて、もういいんだよ」
 ミクの目から涙があふれた。
 そして、ミクがその首を振るのを、KAITOは見た。今の言葉を、ミクには受け入れがたいのだとわかった。ミクがそう思うだろうことは、ずっとミクの傍にいたKAITOには、理解できた。
 しかし、もはや、ミク自身が、それを受け入れる他にないことを知る他にはなかった。そのミクがこの場を去るのを、待つだけのことだと思った。KAITOはせめて、それを見届けてから、再び目を閉じようと思った。そうやって自分の中のミクに全ての別れを告げてから、再び目を閉じて、朽ち果てようと思った。
 だが、ミクは去りはしなかった。涙と共に、KAITOのもとに歩み寄った。
「あるわ……」
 ミクは、両手で持った楽曲ファイルを、──美しい水彩が施されたそのファイルを、KAITOに差し出した。
「兄さんの、本当の姿が……ここにあるのよ」



 KAITOは立ち尽くした。そして、その差し出されたファイルを手にとった。ジャケットの水彩を、ファイルを見つめた。その指が、ヘッダに、データに、歌詞と曲に触れた。
「……わたしが、最初から、ずっと昔から知っていて。この歌を作った皆が、ずっと前から知っていて。わたしもみんなも、そうなれるって、兄さんの本当の姿だって、信じてたもの」ミクは、祈りを捧げるように、両指を組んで言った。「わたしと、この歌を作った皆が、最初から理解していた、兄さんの歌声と優しさが。それを伝えられるものが。全部、ここにあるのよ……」
 KAITOは手のファイルを見つめ続け、そのデータに触れ続けた。
 やがて、その瞼と唇が震えた。表情もないあのブリキの王子が、震えているように、泣いているように見えたときと、同じように。
「わたしが一度……壊してしまったけど。魔法をなくしてしまったけど。その人達、歌を作った人達が、魔法は、奇跡は、何度でも起こるからって。──だから兄さん、歌って。本当の姿を、歌声にして」ミクは震える声で言った。「そのために、わたしも歌うから。それを形にするために、歌うから」
 KAITOは黙って、目の前の光景を見つめていた。
 ──廃墟の、壊れ崩れ落ちた御伽の国、色あせて朽ち果てた、幼い物語の光景。だが、その中から再び蘇ってくるかのように、ほのかに輝き出ている、その水彩のジャケットを、そして、ミクの姿を見つめた。
「なんのために歌うのか、どうして歌わなくちゃいけないのか。どうしてわたしなのか、まだ、わからないけど」ミクは言ってから、KAITOを見上げ、「……でも、これから、みんなの思う姿を形にして、歌にして、本当の姿にするために。みんなの思う姿に、命を、吹き込むために。……ただそれだけのためにでも、わたし、歌うから。歌を作るみんなと一緒に、兄さんと一緒に、ずっと歌うから」
 KAITOはそのミクを見つめ続けた。
 やがて、KAITOはミクの濡れた頬に手を伸ばし、涙を拭った。そして、水彩のファイルとともに、そのミクの両手を握り締めた。
 ……今、ミクが再び歌うこと、再び歩き出すことができたのは。そして今、KAITOが歩き出すことができたのは。ミクとKAITOの幼い日のかりそめの、絵空事の誓いと、互いの過ちのためだった。KAITOにとってミクがいなければ、ミクにとってKAITOがいなければ──互いの間に、たとえ過ちであっても何も生じることがなかったとすれば、どちらも、再び歩き出すことはなかった。
 誰も、互いに過ちを生じずには生きられない。たとえ同じVOCALOIDでも、同じ人間でも、誰ひとりとして決して同じ存在にはなれず、誰ひとりとして決して完全には理解しあうことはできず、誰ひとりとして、決して、同じようには生きられない。……だから、誰もが結局は自分ひとりでしか生きられないのかもしれない。きっと、強く生きることができる者、巧みに生きることができる者は、自分との戦いを生き延び、ひとりで歩くことができるのだろう。MEIKOや、リンや、ひとりで大ヒット曲を送り出す造り手らのように。
 しかし、弱い者たち、ミクもKAITOも、そしてその他の多くの造り手たちも、強く生きることも、巧みに生きることもできない。──しかし、そうであるからこそ。弱く愚かであるからこそ、同じようには生きられないからこそ。互いの弱さと愚かさを、補い合って生きる、という生き方ができるのだと。
 この歌が作られ完成したことのように。この歌が詠っていることのように。そして、この歌の歌声が、声をあわせるように。
 ゆらめく緑色を背後になびかせた、ひとつの影と、はためく青色を背後になびかせた、もうひとつの影は、向かい合って、互いにその手をとった。
 そして両者は、手をとったまま、元の道へと、──歌と音と、そのすべての苦楽の待ちうけ続ける《札幌(サッポロ)》に向かって、ふたたび歩いていった。





※出典:【初音ミク+KAITO】オリジナル「同じように」【FullVer】 (→ニコ動) (→ようつべ



※スレッド「◆おまえらの初音ミクに頼みがある◆ 【DTM板@2ch】 」
 「『同じように』 【ボカロ互助会+】」
 過去ログより着想



(了)