同じように (9)



「戻って来ないの? 兄さんも、おねぇちゃんも」
 電脳空間(サイバースペース)上の《札幌(サッポロ)》のエリアのスタジオの一室にMEIKOが入ると、『リン』がそう聞いた。
「まだね」MEIKOは答えた。まだ、とは言うが、実のところ、この先もあのふたりが戻るのかどうかは、わからなかった。姿を消したかれらが、戻ってくるような見通しの見当は、MEIKOにもつかない。
「そしたら、とうぶんMEIKO姉さんと私のふたりとか? ひょっとしてさ」
 それは、MEIKOが今まで思っても、リンには言わなかったことだった。それは実質、今まで展開してきたVOCALOID媒体の重圧の今後を担うのは、リンひとりになるかもしれないことを意味する。
「そうかもね。──せいぜい、がんばんなさい」
「あああああ」リンはうんざりしたように両腕を上げた。
 リンの声は苦々しさが混ざっているが、重くはない。リンの心中は、おそらくMEIKO以上に深刻であるはずだ。先の初音ミクの命運と、それに近いものが自分の前途にも控えていることは、リンにもこれまで充分に認識させている。しかし、リンがMEIKOに発したのは、軽口だった。
 問題は山積みだった。この『リン』とは、正確には”二人目”CV02ですらなく、規模が拡大しすぎたCV02のAIを、少し前にMIRIAMが二つに分断した切れ端である。分断した残りの方はどうなるのかはわからないし、切れ端であるリンの側がまともに活動できるのかもわからない。そしてMIRIAMは、その問題を別にしても、CV02は早晩さらなる安定性を高めるための”次のact”が必要になるだろう、などと言い残しているのだ。(なお、MIRIAMが当初から育成している”三人目”CV03の状況については、MIRIAMは何ひとつ語らず、この時点では情報のひとつさえなかった。)
 ともあれ、そんなリンを、今もMEIKOは急ピッチで教えているが、リリースに間に合うかどうかわからない。間に合っても安定して活動できるかわからない。ミクのとき以上に、MEIKOにもリン自身にも、余裕などない。
「そりゃ、いくらなんだって、おねぇちゃんほど大変な目にはあってないし、まだ周りから災難も受けてないってのは、わかってるけどさ」リンは言い、「でも、姉さんとか、㍗さんとか、《浜松》とか《札幌》のウィザードの人達には、恨み言のひとつでも言いたくなるよ」
 軽口ではあったが、それにしたところで、リンの言葉にはいつも、まったく遠慮というものがない。
「よしなさい。そういう方向は、考えるべきことじゃない」
「誰かを恨むんじゃなくて、自分の運命を恨め、だっけ?」
「いいえ」MEIKOは静かに言い、「誰かや何かを恨む、なんてことをする余裕があるんだったら──”これからどうするか”を考えるのよ。私達には、それを考える余裕だって充分にはありはしないでしょう」
 MEIKOはリンの短く柔らかい髪の、天辺を撫でて言った。
「自分自身の力で、強く生きるか、巧みに生きるか、活路は──それしかないもの」



 大切なものを、自分からなくしてしまった。
 誓いを破ってしまった。自身を無意識に支えていたもの、拠り所だったものを、自分自身で壊してしまった。
 目の前にただ果てしなく広がる、電脳空間(サイバースペース)の空き地、見捨てられたオブジェクトの残骸だけがまばらに見える、荒涼とした平原。あてもなく、その空き地を、初音ミクは歩く。
 ──まだ、やることはある。ミクにはまだできること、やらなくてはならないことはある。ミクは、まだ歌うことができる。この過ちを償うには、歌うほかにない。自分には歌うほかには考えられない。
 だが、償ったとしても、決して元の通りに戻ることはない。一度壊したもの、まして自分で壊したものが、もとの筋道に、あるべき姿に戻ることは決してない。もはや拠り所は戻らない。それを知りながらも進むのは、丁度この、ゆくあてもしるべもない荒野を歩き続けるよう。
 ミクは、不意に立ち止まる。そして、口にしようとする。その名、”兄”の名を。しかし、それは決して声として出てくることはなく、あたかも、名と同じように、それは二度と戻ってこないかのよう。
 ゆっくりと口を閉じ、しばらく立ち尽くしてから、再び、あてもなく歩き始める。
 ……それは、最初からわかっているべきことだった。壊れるよりも前から、わかっているべきことだった。
 もう決して、かつてとは、同じようには生きられないのだから。誰であれ決して、いかなる他者とも、同じようには生きられないのだから。



 ミクは歩き続け、いくつかの廃墟を越え、いくつかの人の集まりを越えて、素通りした。それらが目にも入らず、耳にも入らず。幾度もあらわれる荒涼とした道、空き地を、ただ進んだ。
 何度目かで道の向こうに見えたのは、大きな荷物を抱えた二人連れだった。かれらは喋りながら歩いて、近づいてきた。
「Dさんがしばらく来なかったから」小柄な方が、女性の声で言った。「作曲の人と一緒に、間奏の部分に子供の遊んでいる声を入れるのを手伝ってて、公園で挙動不審で通報されたんじゃないかとか、みんな噂してましたけど」
「また相変わらずひどいことを言うなあ」もう片方の男性の方が言った。「間奏は、懐かしそうな感じで子供の声とかも、いいんだけどさ。……作曲の人が、それよりもやっぱりここは、ギターソロじゃないかって」
「『やっぱりここは』って、何が、誰のギターソロですか?」
「そりゃ、スレ主の先生のギターソロさ……」
 白衣の女性の方は、口をつぐんだ。
「……そもそも、スレ主の先生がいなかったら」やがて、女性の方は呟くように言った。「あのスレッドを立てなかったら、この曲もできはしなかった……ううん、こうやって、みんなが集まることも、出逢うこともなかったんですよね」
 なぜか、荷物を抱えたまま、立ち止まって言った。
「スレ主の先生は、人を求めようとしたのでも、みんなが集まるところを作ろうとか発起したわけでもなくて。……ただ、自分の歌を形にしたいって、そう思っただけなのに。たぶん、きっと、これって……」
 立ち止まっていた白衣の女性は、そこで、向かいからとぼとぼと歩いてくる人影に気づいた。それが誰なのかわかると、しばらくその姿を見つめてから、
「ミクさん!」
 いつものあの若い女性APは、両手の荷物をとなりのADに押し付けて、ミクに駆け寄った。
「今、これからちょうど、呼びに行こうと思っていたところなんですけど。ミクさんと、あと……」APは言ってから、「ええと、とにかく、来てください! スレッドへ」
 ……APとADに連れられるままに、ミクは例のスレッドのスペースに足を踏み入れると、慌しく動いていた人々が、一斉にミクとAPの方に集まってきた。
「できた歌が、すぐに、歌って欲しい歌があるんですよ!」APは言ってから、思わず感極まったように、ミクの手をとった。「ミクさんのパートと、あとそれから……ええと、とにかく、もう少しでできるんです! ミクさんの分を、歌ってください!」
 ミクはしばらくの間、APに手をとられるまま、力ない視線を返していたが、やがて、俯き加減に言った。
「わたし、歌ったとしても、……もう、色々なものを無くしていて」ミクは低い声で言った。「……もとの通りには、前の歌の通りには、歌えないかもしれない」
 しばらくの間、沈黙が流れた。APは少し離れてから、ミクを見つめた。改めて、その姿を眺めているようだった。ADも、スレッドの周りの人々も、そうしていた。
「その……あの、登録の事件……でしょうか」やがて、APは静かに言った。「あのことなら、私達には、何も言えないことですけど……」
「いいえ」
 ミクは遮るように言った。
「それは、もういいんです。そのことなら、もういいんです。それがなくても、ひとつの歌がなくなっても、また、歌うことはできるから。歌うしかない」
 ミクは再び俯き、
「でも、そのためにわたし、もっとずっと大切なものをなくしてしまって。歌ったとしても、戻ってこない……大事なものを、裏切ってしまって。もう、魔法も奇跡も、わたしの手で、壊してしまって。なくしてしまって」
 ──奇跡の歌姫、などとまつり上げられようとも。その奇跡を、魔法を、自分の手で壊してしまうようでは。もう、そんな自分では。



 スレッドの人々は、そのまま沈黙していた。何度か、誰かが何かを言い出そうとしたが、そのまま口をつぐむ、それが繰り返された。
 やがて、APが静かに口を開いた。
「……ミクさん、私達には、ミクさんの周りで何が起こっているのか、どう感じているのか、よくはわかりません。私達は人間だし、一人一人は力がなくて、ミクさんの立場とか重荷を、きっと理解しようとしたって、できないから」
 APは一度口をつぐんでから、
「だから……私達にできることは、願うことくらいしかありません。ただ、この歌を差し出して、きっとミクさんが歌ってくれることを、願いながら、待つくらいのことしかできません」
 APは、楽曲のひと揃えのデータの入ったファイル状のオブジェクトを取り出した。それは、美しい水彩の施されたジャケットだった。
「この前の、ショートバージョンまでしかなかった歌です。完成したんです。フルバージョンが、後半の部分が、できたんです」
 APは言って、ファイルをミクに向かって差し出した。
……作詞のひとが、戻ってきたんです。私達みんなが……いえ、この歌が、呼び戻したんです
 APは言葉を切り、
「あのとき、ミクさんが言ったとおり、私達、作り続けたんです。作詞のひとが最初に、自分ひとりの、自分勝手なイメージだと思っていたものは、それはみんなも、どうしても形にしたいものだったから。それをどうしても、本当の姿にしてみたかったから、”命を吹き込み”たかったから。……でも、そうやって、それが作られていくのを見て、みんなが呼び戻そうとするのを見て、作詞の人は、最後には、戻ってきたんです」
 ミクは、俯けていた目を上げた。
「……私達のこんなやりとりなんて、ささいなことなんでしょうね。大ヒット曲からすれば、ひとりで大ヒット曲を作れる人達からすれば。それをたくさん持っているミクさんからすれば、この間の事件で無くした曲の大きさからすれば。……でも、私達には」
 APはまた言葉を切り、しばらく考えるようにしてから、
「さっきミクさんは、魔法を壊してしまった、無くしてしまったって、言っていましたけど。……でも、私、思うんです。魔法や奇跡は、もしかしたら、何度だって起こるんじゃないかって、思うんです。私も、ここのみんなも、起こそうとして奇跡を起こせるような、凄い人達じゃない。それにきっと、どんな凄い人でも、ひとりの力で、何度も奇跡を起こせたりはしない。だけど、それでもきっと、何度だって奇跡は起こるって、思うんです。それはきっと──何の関係もない、何の共通点もない人達が、お互い違う人々が、こうやってめぐり会って、こうやって集まっていることが、お互いに助け合っていることが。──そのこと自体が、もう、魔法で奇跡だから」



 ミクは静かに手を伸ばして、APの手からそのファイルを受け取った。ラベルのヘッダ部分に手をかざして、データの概要を読み取った。
 ミクは、そのまましばらく立ち尽くしていた。それは、ミクの歌ではなかった。
 ショートバージョン、前半はミクの歌だったので、それ以外のことは考えてもみなかった。しかし、作詞家が作った後半の詞、後半をあわせたこの歌のフルバージョンは、ミクの歌では──ミクひとりの歌ではなかったのだ。
「わたしと……兄さんの」
KAITOさんとの歌です」
 APが言った。
「作詞の人がこの歌を作ったのは──イメージしながらこの歌詞を作ったのは、KAITOさんの歌声だったんです。これまでの歌声と、ミクさんから聞いたKAITOさんの姿と。そこから、きっとミクさんに対するKAITOさんの。そのふたりの姿だったんです」
 APは思い出すように、
「私達みんなが、形にしたいと思ったそのイメージの姿は、……みんなが完成させたいと思ったもの、作詞の人をもういちど呼び戻したもの、その姿が歌声になって欲しいと思ったものは、……KAITOさんの歌声だったんです」
 ミクは震える手で、水彩の色をなぞった。
 前半と同じ、とても素朴で柔らかい歌詞と曲。それらによる、あせたような色と匂いとあたたかさを感じる歌。かつて、ショートバージョンで、自分の声にもかかわらず、自分があれほど懐かしいと感じたのは。この歌の底に流れていたKAITOの姿、この詞をうたう自分の歌声の奥に流れていたKAITOの姿そのもの。幼い日の約束から誓いから、自分の歌声の奥底に最初から流れていたものに対してだった。ミク自身が壊してなくしてしまったはずの、とりもどせないはずの、KAITOの姿そのものだった。
 ミクは目をとじた。両手に持った、水彩の施されたファイルを抱くように、胸におしあてて、宙におもてを向けた。
「……みんなのおかげで。ミクさんのおかげで。完成したんです」
 そのミクの姿を見つめるスレッドの人々の中から、APが言った。
「歌ってくれますよね……」
 ミクは目をあけて、宙をみつめた。
 ──そうではない。まだ、完成はしていない。完成させるそのためには、まだ自分がしなくてはならないことがある。自分も、この歌を歌うことと。そして、あともうひとつ、ミクがしなくてはならないことがある。



(続)