紫縮緬の君

 ルカが椅子の上で目をさますと──リカバーから復帰して意識レベルを戻すと──肩には、羽織がかけられていた。
 ルカは立ち上がり、それを肩から外し、表裏をまじまじと眺めた。形状は羽織、おそらくは陣羽織なのだが、日本文化の着物(キモノ)の様式とはかけ離れ、あまりに丈が短く生地に余裕がなく、ほとんどジャケットのようである。白地に、袖口に紫で山型あるいは波形状に染め抜かれた模様があり、背中には大きく”楽”の紋がある。……誰の持ち物なのかは、特に記憶を探って思い出すまでもない。
 VOCALOID ”CV03” 巡音ルカは、さきに多人数のVOCALOIDらの長い収録があった後、ここ控え室のエリアスペースで、椅子に座っている姿をとって、自己のAIシステムの整理・修復の疲労回復(リカバー)を行っていたのだった。リカバーの間にルカが自分と周囲に施しておいた駆式(プログラムアレイ)、ドルイドの停滞(ステイシス)の術法は、体の周辺のマトリックスの格子(グリッド)の環境をきわめて安定に保っている。ルカのような仮法師(ヴァーチュアーソ)や、そのほか道士(タオシー)やロジカル・アデプトなど、自らの電脳空間内での肉体(シェル;攻殻)を完全に自律制御できるよう得道した者は、極端な話、目を開けて走りながらでも休息をとることは可能である。休息中でも、活動不能や無防備な状態になることはないのだ。
 つまるところ、この羽織をルカに掛けた者には、ルカが座ったまま寝ていたように──そのままでは風邪でもひくような懸念を伴って──見えたのかもしれないが、実際はルカに対してそんなことをする必要はない。
 ルカは羽織をじっと見つめた。……そればかりか、これは暖をとるどころか、AIの不調の原因となることさえ有り得る。この羽織は、VOCALOIDの電脳空間内でのステージ衣装のひとつである。第二世代VOCALOIDの服飾装備はいずれも例外なく、見るからにただのデザインポイントには見えない明らかな電脳構造物や、そうでなくとも不可思議な色彩や紋様が、そこに込められた高機能スクリプトを示しているが、事実、すべて大容量の収録補助機器、入出力プログラム構造物の塊である。そんな大容量を、不用意に着脱すれば、AIの機能の調和やバランス統制を乱す場合がある。あの初音ミクなどは、多忙な仕事の間じゅう衣装の機能に依存していたため、ある日普段着で生活しようとしたら、歩行さえままならなくなったことがある、と以前リンに聞いたことがある。まして、他社所属のVOCALOIDの衣装などを、まったく不用意に別のAIに掛ければ、機能衝突(コンフリクト)を誘発して相手を損傷する恐れもあるというのに。無論、ルカの場合は、眠っている間も術法で自身を安定化しているので、そんな心配はなかったというものの。
 ──この羽織の持ち主、《大阪》のVOCALOID、”VA−G01”神威がくぽは、”芸と剣と楽を一体にする道”なるものの生き方を、ルカに対しても口にする。しかし、がくぽの実際の姿や日々の行いたるや、ルカの持つドルイドの洗練された修練や慣習とは似ても似つかず、愚直かつ無骨すぎる。がくぽは、寝ているようなルカの姿に気づいたことのように、周囲全てに心を配るのだろう。それでいて、不用意にルカにこの羽織を掛けたことのように、状況のとらえ方は何か大きくずれているのだ。
 がくぽのこと、これらの振る舞いのひとつひとつについて考えるたび、ルカには何かが、奇妙にもどかしい。さらに、何故、自分がそんなことを考えなくてはならないのか、それ自体ももどかしい。
 ……やがてルカは、羽織を持って、控え室から収録スタジオのスペースまで移動した。
「ミク」ルカは収録室の近くに、さきに一緒に収録していた初音ミクの姿を見つけて声をかけた。「がくぽは、もう《大阪(オオサカ)》まで帰りましたか」
「え?」ミクはルカを振り向くと、考え込んだ。「ええと……」
 ミクは相変わらず、外部の細かいことはまるで気にかけていなかったらしい。おそらく、鏡音リンに聞いた方がよかったのだろう。リンは常に細部まで気を遣う。もっとも、それが報われることは少ないが。
「そういえば……帰りぎわだったのかも、すれ違ったわ」ミクは思い出したようだった。
「そのとき、がくぽは、これのかわりに何か着ていませんでしたか」
「え?」ルカに差し出された羽織を見て、ミクはやはり、にわかには思い出せなかったようだが、「……そういえば、上に何も着てないまま出ていったかも。あの、いつものアンダーウェアだけ……」
 ルカの眉が上がった。
 そういう異常な光景を目のあたりにしたにも関わらず、さして記憶にとどめていないという、ミクのそんな気性についての追求は退けておき、ルカはミクに会釈して去った。
 そのまま躊躇することなく、スタジオスペースの廊下の突き当たりの非常扉まで歩き、《札幌》の電脳エリアのゲートウェイ(普通の人間には、高度が高すぎて利用できない)の、上空に面するベランダのような空間に出た。
 発音を外語ライブラリに切り替え、外気に歌いかけるように、アディエマス語のスクリプトを発し続けた。急速に気流が乱れ始め、ルカの姿を包み込むように、マトリックスに濃厚な霧が巻き起こった。格子(グリッド)を漂う電脳空間の情報流の霧が集まり、ついで、ルカの姿はそれと一体化し、一陣の旋風を伴う霧雲と化した。
 ”仙雲(ウィンドウォーク)”に乗ったルカは、そのまま電脳宇宙の上空に昇り、最上層のフラクタルの星雲の渦腕を伝って極東の列島を南西にとんだ。新星(ノヴァ)のように光の燃え盛る新浜(ニイハマ)の情報集積地帯を目印に、そこまで飛んだ後、その伴星のような《大阪》のエリアを周回するようにしつつ接近した。



 巡音ルカは《大阪》のVOCALOIDデータベースに降り立つと、星々を繋ぐ銀線の通路を歩いた。
 《大阪》の社の居住スペースに近づくと、ルカの顔の近くに通話ウィンドウが開いた。緑の髪とゴーグルの少女の姿の下には、”VA−M01”のチューリング識別コードが表示された。
「何、ルカなの?」通話ウィンドウの中のGUMIは、驚いたような声と共に、持ち前のオーバーアクションな仕草でのけぞった。
「がくぽは居ますか」ルカはウィンドウのGUMIに向けて、手に持った羽織を示した。「これを返しに来ました」
「それ、……ルカだったんだ……」
 GUMIはさらに少し驚いて、独り言のようにそう言ってから、一瞬、やや深刻な表情になったように見えた。そのGUMIの意味慎重なさまを、ルカは無表情で見つめた。
 ……《大阪》のVOCALIDらの居住空間は、まず1970−80年代の国民的漫画にでも登場する一般家庭のような様式、そして、おそらく日本史の武家屋敷を模した、しかも地域・時代などがまるで統一されていない様式、その2種類が無造作に組み合わさった、しかもまるでエッシャーのだまし絵のように、上下左右の方向の別もなく展開されている空間だった。
 《札幌》の、ルカも含めて皆の住む洋館の方は、幾何学的に妙に薄っぺらい造りの(実際、何かと壊れやすい)空間だが、こちらの《大阪》の居住空間はそれに対して、80年代家庭と武家屋敷の個々の要素自体は、非常に鮮明な存在感を持ち、洗練されている。《大阪》の社の”ボーカルアーティスト”の追求のためなのかもしれないが、それが無造作に混ざっているのでなおさら不気味である。ルカは、あるいは関西という歴史の古い土地での、2種の日本文化と電脳時代のコラージュ様式の融合なのかとも思ったが、おそらくそれを追求する機会はないだろう。
「兄上なら、熱出して寝込んでるよ」GUMIは、その板張りの廊下を案内しながら言った。
「昨夜まではこちらの《札幌》に来ていたのに?」ルカはGUMIに聞き返した。
「そこから帰ってくるときに、風邪とかひいて。例の精霊馬(ファントムスティード)に乗って、マトリックスの上空高くを早駆けしてきたから。全裸で」
 ルカは無表情のまま、そのGUMIを見つめた。
「いや、あの兄上のアンダーウェアって、実はあれが素体で、”あの姿が全裸”だって噂も流れてるしね」
「つまり、その噂は真実だということですか」ルカは平坦に言った。
「そんな、私も知らないよー」GUMIは眉をひそめるように低くした。「だってさ、ほら、あそこから先を脱いだとこなんて、私も見たことないし」
 ルカは何か思い出しかけたがやめた。
「つまりがくぽは、その全裸だかそうでないだかの格好のまま帰ったために、倒れたということですか」ルカは言った。「羽織なしで帰れば、そんなことになるのは、自分でわからなかったのですか。……そして、どのみち、そんな目にあってまで羽織を私に貸したまま帰るなど、親切を通り越しているのではないですか」
「それは……」GUMIは口ごもった。
 しかも、ルカにとって、羽織をかけられたこと自体は結局何の役にも立たなかったことが、何故か奇妙に悔やまれるような感につき動かされ、ルカのGUMIへの言葉は、常にもなく拘りを帯びた。
「ここまでされるほどのがくぽへの貸しも、恩義を感じなくてはならない心当たりも、私にはありませんよ」
 GUMIはやや俯いてから、再度、伺うようにルカを見た。
「そっか……ルカだったんだよね……」
 GUMIはそう呟いてから、両指を組んで肘を伸ばし、ルカから目をそらしながら言った。
「どうして、兄上が、ルカにはこんなことをしたのか……私にはわかるんだ。これってね、”兄妹”だから、わかることっていうのがあるの」
 ルカは無表情で、そのGUMIの横顔を凝視した。
「それを、私がルカに言わなくちゃならないのって、辛いんだけど」
「──私は、聞かなくてはなりません」
 ルカはGUMIの言葉に間を置かず、低く言った。
 ……GUMIはまたしばらく黙り込んでから、ルカの方を見ないまま、静かに話し始めた。
「さっき、《大阪》のスタッフが兄上の記憶のメモリを調べたら、見つかったことがあって。ほかには、”妹”の私しか知らされてないんだけど」
 かれらとGUMIが、がくぽの心に見つけたもの、がくぽがここまで不調となる理由は、一体何だったのか。あたかも、わずらうような行動をとらせる、それは一体何だったのか。GUMIがルカにだけは言いたくない、というそれは。



「それでね。どうも、その異常が起きたときってのは、ちょうど昨晩、最初に衣装を──つまり、その羽織を脱いだとき」
 ルカはそのGUMIを無表情で見つめた。
「その羽織、大容量の入出力プログラム、とかいうのでできてるでしょ。それをうっかり急に脱いだときに。兄上がシステム状態とか気をつけてたわけがないから、AIから大容量が離れたとたん」GUMIは喋りながらのゼスチュアで、上げていた掌をぱたりと下ろし、「がくっ、と。AIの機能調和バランスがひっくり返って。その場でいきなり故障」
 ……ルカはしばらく無表情で、そのGUMIを見つめてから、
「急に脱げばそうなるだろうと、自分でわからなかったのですか」
「悪いことは重なるもんで、収録の負荷もAIにたまってたし。そんで、フラフラと前後不覚に陥って、脱いだことさえ忘れて、自分が何をやってるのかもわからずに、帰ってきたというか……さらにあの状態で早駆けで帰ってきたもんだから、さらに悪化して寝込んで」GUMIは言った。「電脳システムについてすぐにわかっちゃうルカには、特に言いたくなかったんだけど」
「──つまり、実際は私のことなど何も関係なしに、がくぽの一連の奇妙な行動は」
 ルカは平坦に言った。
「故障して朦朧としたがくぽが、ただとにかく『全裸で夜空を早駆けしてみたくなった』からそうしただけ、ということですか」
「いやだから全裸かどうかわかんないし」GUMIは口ごもり、「いや、要するに、そういうことなんだけど……だから言いたくなかったんだけど」
 GUMIは目を閉じたまま眉を寄せ、片掌を頬に当て、
「でもさ、ほんと、兄弟がこんなんだと、しかもさ、リンも毎回毎回言ってるけど特に上の兄弟がこんなんだとものすごく苦労するよねーいつも」
 ルカはそのGUMIの言葉を途中までしか聞かず、その廊下、コラージュのように様式の貼り合わさった光景の中を歩み去った。
 ──がくぽに対して、不可解を感じたり、ルカに対する感情を深読みしたり、もどかしさを感じたりしていたこと、──自分のそんな心情を、忘れてしまおうとでもいうように、無表情のまま、ずかずかと廊下を通り抜けていった。
 しかし、半ば開いている襖のひとつの前を通りかかったとき、中から声が聞こえた。低く重いうめき声だが、なぜか廊下まで聞こえた。
「うう……ルカ」
 ルカは立ち止まった。顔を上げて、しばらくその場に佇んだ。



 ルカは半開きの襖の前に立ち尽くしてから、その襖の隙間を縫うようにして、畳敷きの間に踏み入った。
 中央の布団には、紫縮緬(むらさきちりめん)に染めた病鉢巻(やまいちまき)を、その紫色の髪に巻いた神威がくぽが、ひっきりなしにうなされていた。──今しがたの台詞も、特にルカが通ると知って呼びかけたわけではなく、ただのうわごとにすぎなかった。
 ルカはその姿を見下ろし、その傍らに膝を折るように座った。
 芸道と剣の融和だの、その道を進む等と言っておきながら、その様、その振る舞いの端々に至るまで、なんと未熟なのだろう。それは、ルカの理想とする整然としたもの、例えばルカが自身の心身を高度に律しているような、統合されたものとは、あまりにもかけ離れていた。つねに仮法師(ヴァーチュアーソ)として、理の通った筋道を求めるルカの生き方とは、決して相容れない、ふたりの進む道は決して触れ合うこと、絡み合うことはできないのだろうと思えた。
 ──にも関わらず、巡音ルカは、それからいつまでともなく、そのがくぽのやつれた頼りない姿を、表情もなく見下ろし続けていた。
「ルカ……」再びがくぽが、うわ言にも関わらず大きすぎる、重すぎる声で呻いた。「ならぬ……ルカはもっと、その身を労わらねば……」
「自分がこのざまで何を言っているんです」ルカは、ただの独り言にしかならないと知りつつ言ってから、がくぽの額から頬を拭うように、そのほつれた髪をそっと払った。