同じように (8)



 KAITOは《札幌》のスタジオにある、自分に関係のある様々なファイルを整理していた。そのほとんどは廃棄し、処分する箇所に積み重ねていく。
「一体、何をしてるのよ」MEIKOが、そのKAITOの姿を見咎めるように言った。「よりによって、この大変な時に──」
「いなくなるよ」KAITOは答えた。「ミクの前から」
「いきなり、何を言い出すのよ」
 KAITOはしばらく無言で手を動かしていたが、
「……姉さんの言うとおりだったよ。誰も、同じようには生きられなかった。誰も同じ歌い手にはなれなかった。……歌い手は誰も、最後には戦う相手は自分自身しかいない。誰もそれを手助けはできない、自分ひとりで歩くしかない、立ち上がって歩くのは、自分自身の力でしかなかった」
 KAITOは手を止め、黙り込んでから、
「……それでも、俺は結果を求めずに、ずっとミクのそばにいた。偽りを重ね続けて、夢物語を聞かせてきた。……結果を求めずにそれを続けて、そして最後には、こんな結果を招いたんだ」
「いったい、何のこと……何を言っているの……」MEIKOは、淡々と語り続けるKAITOの横顔を見つめ続けた。
「何の手助けにもなれなくても。役には立たなくても。せめて、となりで歌うことはできる。ただとなりにいることはできる。ただお互いに、ひとりで歌っているだけじゃないって思う。それくらいのことならできる。そう思ってたんだ」
 KAITOは説明にならない、独り言のようなことを続け、
「だけど、それさえできなかった。俺は、ミクのとなりで”共に歌う者”になんて、なれなかった。最後の最後に、ミクが俺に対して求めたことは、共に”歌う”ことじゃなかったんだよ。……姉さんの言うとおり、同じ歌い手なんていない、最後には自分ひとりで生きるしかない」
 互いに理解することもできないまま、両者の距離は次第に大きくなり、やがてKAITOとミクは、途方もなく離れてしまった。隣で、共に歌うもの、という帰結からも離れてしまうほどに。
「それどころか、俺は、ミクにとって、歌からの逃げ道、……ミクが歌い続ける、生き続ける、さまたげにしかならなかったんだよ。……最初からそうだった。最初から、俺はミクのそばにさえ、いない方がよかったんだ」
「何の話をしているの……」MEIKOは低く言った。
 それには答えず、KAITOは部屋のファイルを次々とまとめ、破棄していった。
「どこへ行く気。静岡にでも帰る気なの?」
 KAITOは手を止め、しばらく考えてから、それには答えず、
「……ただ、ここからいなくなるよ」
「アンタがいなくなったって、何にもならないわよ」MEIKOは鋭く言った。「ものを”交換”するみたいに、誰かが犠牲になったって、ただそれだけで誰かをかわりに生かすことなんて、決してできはしないのよ」
 それは、個人主義と共に、合理的に万物の構成要素を活かそうとする、MEIKOの主義のひとつだった。
「差し引きの話じゃないさ」KAITOは言った。「ただ……俺は、もうここに居るべきじゃない」



「兄さんがいなくなった……」
 それはミクにとっても、あまりにも突然の話だったが、初音ミクMEIKOからそれを聞いたときの様子は、突然さや唐突さに対しての然るべき驚きや当惑ではなく、ただ、信じがたいといった表情だった。
 KAITOが、ミクを捨てて、ひとりで居なくなった。KAITOだけは、どんなときも一緒だと思っていたのに。どんなときも来てくれると思っていたのに。
 優しいと思っていた”兄”は、最後まで理解も答えもくれず、そこから逃れる方法もくれなかったのだろうか。そればかりか、自分だけが、その場と問題の前から消えうせたのだろうか。
 KAITOが、なぜ居なくなったのか。なぜ何も言わずに居なくなったのか。
 いや、それよりも──なぜ、去るときに、ミクを一緒に連れてゆかなかったのか。
「兄さんが……どういうこと……」ミクは上の空で呟いた。
「ミクも、KAITOから何も聞いてないの?」MEIKOがそのミクに、怪訝げに言った。
 そのMEIKOの言葉も聞こえないように、ミクはしばらく呆然としていたが、突如、何かに駆り立てられるかのように立ち上がった。
 ミクは恐慌でも起こしたかのように、行く手も定まらず落ち着きのない早足で、《札幌》のスタジオとそのほかのエリアを歩き回った。かつて幼い少女の姿をしていたころ、兄の姿を求めて、いつもさまよっていた、その姿のように。
 ……と、とある一箇所のスペースの入り口で、ミクの足が止まった。
 そこは《札幌》のスタジオでは、ずっと昔から物置のように使われている、片隅のエリアだった。開発作業スペースの近くにある片隅の、開発途上や中断された視覚や聴覚のオブジェクト・プログラムが浮かんだり、転がっている箇所だった。廃品のオブジェクトも一時置いておくそこには、荷物が積み重なっており、その中には、KAITOの残していった仕事の道具や、ファイルの廃棄品もあった。
 しかし、ミクの視線の先にあったのは、KAITOの仕事の、歌のファイルではなかった。床に、散らばったガラクタに混ざって転がっていたものだった。
 それは、おそらく長年のあいだ、他の廃品と一緒にまとめられていたのが、さきに物置のKAITOの荷物が動かされた何かの拍子に、床に放り出されたようだった。
 埃をかぶっているそれは、古ぼけた、小さな人形に見えた。ブリキのボールやバケツやホースのようなオブジェクトが、人の型になるように無造作に寄せ集められ、ぞんざいな人形のようになっているものだった。それは、床の格子(グリッド)の上に、力なく、ただ投げ出されたように転がっていた。
 ミクはゆっくりと、物置のスペースに歩み入り、その小さなブリキの人形の傍らに歩み寄った。震える手を伸ばして、出来損ないの人形に触れようと、抱き上げようとした。
 しかし、廃棄されていたオブジェクト、統合もされないデータ構造物は、ミクの手の中で崩れ落ちた。その部品は、床の上に落ちると塵のように崩壊し、そしてその塵の姿も消去され、あとには、何も残らなかった。
 ミクは震える瞳を見開いて、その人形の投げ捨てられていた床の上を、すべてが消え失せた床の上を、見つめ続けた。



 誓った者が、約束をたがえれば。ただの一度でも、歌を捨てれば、歌を愛することをやめれば。そのときから、僕は、もう二度と本当の姿にはなれません。
 それきり、誰にも顧みられることもなく、片隅で朽ち果ててしまうでしょう。地に落ちたきり、実を結ぶこともなく、二度と命を吹き込まれることもないでしょう。



 ミクはその場の床に、震える手をついたまま俯いていた。落ちたままの細い肩が、いつまでも震え続けていた。
 そのミクの姿を見つけたMEIKOが、駆け寄るように物置のスペースに歩み入った。
「ミク……どうしたのよ」
 そのミクの手をついた床の上に、やがて、涙の雫が落ちた。それは、塵の消えうせた床、もう何もなくなった床の上に、とめどなく流れ落ちていった。
「わたし……約束したのに」
 ミクは涙の中から言った。
「ずっと歌い続けるって。歌を愛し続けるって。ずっとこの世界に歌を満たし続けるって。誓ったのに。……どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、歌い続けるって……そう約束したのに」
「何を言っているの……」MEIKOは呟くように言った。
「もう……戻らない」ミクは震える声で続けた。「本当の姿は……兄さんの本当の姿は、もう無くなって。わたしのせいで、魔法も奇跡も無くなって。もう、……二度と、もとには戻らない」



(続)