同じように (7)



 ただの一曲にすぎない。それでも、最初の最大のヒット曲であり、その切れ切れのフレーズのひとつひとつでさえも、ネットのあらゆる箇所で聞かれ、そのフレーズがほとんどミクの代名詞となっていた曲である。いわば、ミク自身のネットでの拡大と拡散の最大の象徴のひとつだった。
 しかし、その管理の厳しいことで知られる権利団体の管理下に入ってしまった曲は、もはやネットワーク上ではこれまで行われてきたようには配布することも、創作の素材とすることもできない。(あのAPが以前に、スレッドを案内しながら述べていたように、その管理の状況が極東のDTMを衰退させてきた、と考える者もいた。)
 その『動画サイト』は、なぜそんなことをしたのか。抗議した《札幌(サッポロ)》側とのその後のやりとりによると、あくまで手続き上のミスや手違いが何重にも重なった、といった話だった。しかし、動画サイトが、自分の”手許”にあったそのヒット曲を権利団体の管理を介して手っ取り早く利益にするため、私欲のために売り渡したのだ、などという口さがないことを言う者は、その当時も、現在に至ってすらも存在する。
 ”あいどる”としてのミクと、《札幌》と『動画サイト』の間の関係についていえば、上記したように《札幌》の人々の奔走によって手違いと誤解については確認され、今後は起こらないよう取り決めが交わされ、話は落ち着いた。
 しかし、どのみち、その権利団体に登録されてしまった曲は、もはや二度と戻ってはこない。
 世間のミクへの過剰すぎる擁護・持ち上げと非難・誹謗の類は、いずれもこの時点で、まさしく頂点に達した。──汚れないはずだった、ネット上であらゆる存在から自由なものの象徴であったはずの”初音ミク”は、かれら権利団体に身を売ったのだ、もはや金と権力に売り払われたのだ、ミクは自由を信じていた人々の全員を裏切ったのだ、などという口をきく者も居た。



「動画サイトそのものも、ユーザーも、元通りの状態を作ってはくれるけど」
 自身も奔走していたMEIKOは、《札幌》のエリアに戻って来て言った。
「だからといって、また”あの場”で今まで通り元通りに歌えるかどうかは、もうミク自身の意思の問題だわ」
 チューリング登録された高位AIは、独立した一個の自我とされ、それは人間の支配や命令や設定のいかなる強制下にもない。《札幌》やユーザーとの間の歌う使命も、あくまでアーティスト契約であり、自由意志である。すなわち、いわゆる”情報生命体”として、そのAIがどう生きるも、死ぬも、最終的な決定は、そのAI自身に委ねられる。……ミク自身がこの件にどう影響されるか、どう受け取るかだった。
「それから──こういうことは、またいつ起こってもおかしくないわ。『あの動画サイト』にさえ、こういうことが起こった以上は。もう私達VOCALOIDには──ミクには、完全に信用できる本当の味方は、もう誰もいない、と思った方がいい」
「……どうしてこうなるんだ」
 KAITOは静かに言った。
「ミクが、……ミクが、一体何をしたっていうんだよ。こんな仕打ちを受けるようなことをしたのか……」
「ミクは、”今まで誰もしたことがなかったこと”をしたのよ。それは、何が起こる理由としても充分すぎるわ」MEIKOは答えた。「何もかもの原因になり得る。今まで、誰も受けることがなかったほどの苦しみも含めて」
「……姉さんは、予想していたのかい」KAITOは静かに続けた。「こうなるって、知っていたのかい」
「私は、起こることまでは予想していなかったわ。だけど、あるいはMIRIAMは、あの時既にここまで全部予測していたのかもしれないわね……」MEIKOは静かに言って、言葉を切り、「私は、実際に何が起こるか、予測はしていなかったけど。これくらいのことは、これほどまでの規模のことが起こり得る、というのは、覚悟しての上だったわ」
「MIRIAMは、確かに言っていたよ。その運命を受けるのは、人物像(キャラクタ)を持つ、心を持つAIなんだって。心を持つものが、無限の重圧に耐えられるのかって」KAITOは低く言った。「そして、それを受けるのはMEIKO姉さん自身ではないとも。……姉さんならきっと、どんな重圧にだって、何が起こったって耐えられるよ。だけどミクは、……あのミクが、耐えられるのかい」
 MEIKOはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……あの娘、もう駄目かもしれないわね」
「どうして、それを平気で言えるんだ……!」
 KAITOは低い声で、しかし、自分自身に関することでは、今まで決してMEIKOに向けたこともない、強い口調で言った。
「私達は、立ち止まるわけにはいかないからよ」MEIKOはそのKAITOに、動じる様子もなく答えた。「その立場に置かれたのが、私でなくてあの娘だったこと、そのことを悩んでも、何の意味もないわ。誰の置かれた状況が何だろうが、その状況を進むしかない。たとえ、進んでゆく先が、”彼女”も、私達全員も、押し潰されて朽ち果てる道であったとしても。そう進むことが、”音”の”未来”のためならば」



 電脳空間(サイバースペース)の《札幌》のスタジオのエリアの片隅、収録・開発スペースは、いつもと同じ光景のはずだが、奔走するスタッフらが出払っているためもあって、妙に虚ろなように見えた。
 待機用の椅子に、背を向けて掛けている姿に向けて、KAITOは躊躇いつつ近づいたが、先にそこから声がした。
「兄さんなの……?」
 ミクには、背後からも足音や気配で、誰なのかわかったようだった。KAITOはミクの掛けているその椅子の前に、歩み寄った。
 ミクはしかし、その”兄”の方を見ず、膝の上に両掌を組み、俯いたままだった。
「……辛いことばかり、嫌なことばかりが、たくさん起こるの」
 やがて、ミクは静かに言った。
「前からずっと待ってた、ささやかな小さな歌があったの。でも、それもつい前に、作詞の人がいなくなって、最後まで作れなくなって。……そしてさっき、大事だった大きな歌は、売り払われて」
 ミクはしばらく口を閉じてから、
「ただ歌うだけなのに。わたしにできることは、それだけだと思って、歌ったのに。でも、こんなことばかり起こるの……」
 KAITOは何も言えず、立ち尽くすしかない。
 ──突如、ミクはそんなKAITOに訴えかけるように、振り仰いだ。
「もう嫌よ……こんな事!」
 ミクは泣き叫んだ。
「歌っているだけなのに、それだけで、こんなことばかり起こるなら……わたし、もう、歌うこともしたくない! もう歌えない!」
 ミクは両掌で顔を覆った。
 KAITOはその場に立ち尽くした。ミクの言葉のすべてが、こうして聞くのが辛すぎる。そんな、自分などより辛いはずのミクを考えるのも辛すぎる。それ以上に、そのミクの辛さがどれほどのものか、どんなに親身になろうともKAITOなどには決して理解できるわけがない、それがKAITO自身にとっても、KAITOを傍に求めるミクにとっても、もっと辛すぎる。──何もかもが、あまりにも辛すぎた。
 それでも、何かを言わなくてはならない。そう思ってからも、かなりの間を、KAITOはミクの震える肩だけを見続けていた
「だけど」やがてKAITOは、低く言った。「それでも、ミクを、俺達を、本当に理解してくれる人達はいる。歌うことを、期待してくれる人達はいる。そういう人達が、いる限りは──」
「嘘よ……」
 しかし、ミクは涙声で言った。
「兄さんを理解している人達がいるなら……どうして、それが広く伝わらないの? 兄さんの、その歌声や、その優しさを、ほんの少しだって、理解している人達がいるなら。それを一杯に生かした歌だって、そのことを歌った歌だって、きっと世の中に、沢山あふれだしてくるわ。……なのに、どうして今、兄さんの歌は、ほとんど作られないの? どうして兄さんは認められないの? ……兄さんだって本当は、理解してもらってるなんて、そんなこと、思っていないんでしょう?」
 KAITOは突っ立ったまま、ただその手が、どうしようもなく震えているのを抑えるように、拳を握りしめた。
「そんな人達が、わたしのことだって、理解できるの……? 兄さんもわたしも、本当に理解なんてして貰えない。今までも、ずっとそうだったんだわ……」
 ミクは俯いたまま、涙声で喋っていたが、
「ねえ兄さん、……兄さんもわたしも、何のために生まれてきたの?」ミクは、ふたたびKAITOを見上げて言った。「こんな辛い目にあうためなの? ……認められない兄さんを、人は放っておこうともしないで、ただそれをとがめてひどいことを言って、ひどい目にあわせて。……人に構われているわたしも、そのせいで、いつも人にこんなひどい目にあわされる。なのに、わたしたち、どうしてこんな所に居るの? 兄さんもわたしも、どうして、こんな所で歌っているの?」
 ミクはそれからも、KAITOを潤んだ目で見上げていた。
 が、やがて、何かに気づいたかのように目を宙に据えてから、ふらりと椅子から立ち上がった。KAITOの両腕にすがりつくように、ふたたび見上げて、ミクは言った。
「兄さん……逃げましょうよ」
 ミクのその口調も瞳も、熱に浮かされたようだった。
「人の中に居ても、歌っても、理解なんてして貰えない。……誰もいないところへ、誰にもとがめられないところへ行って……わたしたちの声も歌も姿も、もう誰にも届かない、どこか遠くへ行って。……そこで、いつまでも、ふたりだけで。ふたりで歌って暮らしましょうよ」
 KAITOはそのミクの瞳を見下ろし、しかし何の言葉も発することができないまま、呆然として立ち尽くした。そのミクの言葉によって、自分の中に目覚めた感情に、愕然としつつ。



(続)