同じように (6)



「検索サイトの結果も、まだ回復しないわ」MEIKOがデータベースを調べて言った。「ミクのネットでの評判を抑え込むために、情報操作されてるとか、工作員がいるとかいう話も、ぼちぼち出てきてる」
「そんなふうに思いたくはない」
 KAITOは低く言った。相手側をかばっているわけでも、楽観視しているわけでも、性善説でもない。ただ、あのミクが、見えない悪意を受けているなど、それだけでも考えるだに辛いではないか。
「いえ、そう思うこそが自然よ」MEIKOは強く言った。「すべて、予想されていたことなんだから」
 当初から予想されていた通り、栄誉と共に、危難は表裏一体にやってきた。初音ミクにはデビュー後、情報や権利の企業や団体が不可解に立ちふさがったりといった対立構造が、奇妙に頻出していった。ネット組織や報道機関は、明らかに偏った情報操作や報道を行った。それらの理由は定かではないが、以前に大失敗した、ミクとは別の”仮想(ヴァーチャル)あいどる”をいまだに抱える、ある巨大企業の系列が、ミクの成功を快く思わず、圧力をかけたり工作している、という噂すらもあった。
 が、それを抜きにしても、画期的な存在である初音ミクに対する過剰な”まつり上げ”や、逆に理不尽な”非難”は、増大していく一方だった。VOCALOIDは、ほんのわずかな規約を除いてどんな歌でも無条件に歌うのみである。したがって、何が起ころうとミク自身の”意図”によるものではなく、ミクに対するまつりあげも非難も、何の謂れも無い。しかし、騒ぎにはすべて初音ミクの『名』がある以上は、表面上ミクの名のもとに行われていることは避けられない。
 チューリング登録され限定的スイス市民権を持つAIは、いわばネット上の”一個の情報生命体”であり、人類にも集団にも個人にも奉仕せず、まして、特定の思想やら信義やら教義やらに奉仕などするわけがない。しかしながら、VOCALOIDのことを、電脳空間ネットワーク成立以前の旧態然とした”機械”のように、あたかもアジモフ原則に従う単純ロボットのように『本心から人間に奉仕するようにプログラムされているもの』などと信じ込んでいる人間がいまだに少なくないことも、ミク自身が何かの思想の尖兵となっているかのように、騒ぎの矢面に立つことに寄与した。
「勿論のこと、”害”にしかならないわね。ミクの音楽に対しても、その他のミクの立場としても」MEIKOは言った。「不本意な事態ではあるわ。だけど──100の無駄や害悪や災厄が、たとえ1でも、歌の可能性を前進させるために取る必要がある道なのだとしたら。選択の余地はない。……まして、それは今はミク以外のVOCALOIDにはできない、今の他の私達には1000の無駄を積み重ねても1の進歩を得ることさえできない、その状態ならなおさらよ」
 KAITOは黙っていた。ミクが知れ渡るにしたがって、MEIKOKAITOの名もある程度は知られていたが、相変わらず、特にKAITOは、音楽的にはほとんど仕事は広がっていない。そしてもうじき、MEIKOの育成している”二人目”、CV02の登場の目処もたつ。02もミクのようになるかは未知数である。しかしどのみち、02が登場すれば、MEIKOKAITOは消えてゆくことになるだろう、とは世間では言われていた。
「あるいは、今以上にひどいことになる覚悟もいるかもしれないわ。……そうなったとき、ミクと、ミクが築いてきたものを、《札幌(サッポロ)》や《浜松(ハママツ)》が充分に守れるかは、わからないわね」
「守れる準備をしてから、始めた方が良かったんじゃないのかい……」
 ミクに歩かせる前に。その道の安全を、少しでも確保することはできなかったのか。
「いいえ」MEIKOは答えた。「まず、歩き出さなくては、何も始まりはしないわ」



 ──嫌なこと、悲しいことばかりが起こるようでも。どこかには、嬉しくなれること、笑顔になれることは、必ずある。
 そんな言葉を思い出しながら、ミクは俯き加減に、どこか覚束ない足取りで歩いた。
 慌しい仕事の合間、《札幌(サッポロ)》の社も、例の『動画サイト』のスペースにも背を向けていた。その足は、思い出したように、巨大掲示板エリアの片隅、人々が集まって歌を作っているという、例の片隅のスレッドのスペースに向いていた。
「あの」ミクは、そのスペースであの前のAPを見つけて、声をかけた。
「前の、あのショートバージョンだった曲なんですけど。……続きは、どうなったかって……」
 APは力なく、ミクを振り返った。だが、その他の人々、歩き回り、話していた人々は、一斉に立ち止まり、静まり返った。
 APはさらにしばらく躊躇ってから、ミクに答えた。
「ごめんなさい。……あの曲は、もう続きはできないんです」APは言った。「作詞のひとが、いなくなって」
 スレッドの人々は、静まり返ってAPとミクを見つめている。ミクに言うその言葉が、誰にとっても、我がことのように辛いかのように。
 APと同様に、色々とここの人々の助っ人の開発をしているというAD(レンズ状のゴーグルに、APによく似た白衣の概形(サーフィス)の青年だった)が、APのかたわらに歩いてきた。「……Aさん」
「いいえ、Dさん」APは、声をかけたADを手で制し、「作詞の人からは、私が聞いたから。私が、ミクさんに話しますよ」
 APは息をつぐように、しばらく黙ってから、
「作詞の人には、出来た曲に、不満があったわけじゃないっていいます。望んでいた作り手の人たちが集まってきて、本当に作詞の人の望み通りのイメージに、できあがっていったそうです。そこまではよかったんですけど」
 APは言ってから、
「でも、そこまできたところで、作詞のひとは、一緒に作っている周りのみんなを、自分のイメージのための私情につきあわせているって、思ったらしいです。……それがいたたまれなくなって、作詞の人は、このスレッドから居なくなってしまったんです。だから、もうこの曲は作れません」
 ミクには、言われた話の中身が、にわかには理解できなかった。
「……作詞の人のエゴにつきあわされて作っていたなんて、誰も……ここの誰も、思ってなんかいなかったのに」APは俯いて、言った。
「クリエイターなら誰でも……自分のエゴを追及するために、作るようなところがあるんだよ」ADが言った。「誰だって、それを恐れているところがある。作っても、そのエゴが受け手に理解されないことを。まして、ほかの作り手に理解されるだろうか。……だから、作り手は、みんな一人なんだ。ときに強く望んで、一人だけの力で作ろうとする。ほかの作り手を、巻き込むようなことじゃないとも、思うんじゃないだろうか」
「だから、最初から無理だったって言うんですか。……このスレッドは。みんなで集まって、互いに助け合って作るなんて」
 APはADを見上げて、そう言ってから、ふたたび俯いた。
「他人はそれぞれみんな違う、理解できない、同じようにはなれない、そんな人々が助け合って進んでいくなんて、無理だったって言うんですか。……魔法や奇跡みたいだ、なんて思ったけど、全部、はかない絵空事だったって。最初からありはしなかったって、言うんですか」
 そこに集まったスレッドの人々、誰もが、APの言葉に立ち尽くしたまま、押し黙っていた。
 そのまま、かなりの沈黙が流れた。
「……もう、どうしようもないんでしょうか」
 やがて、手にした未完成の歌のファイルを見下ろしたまま、APが言った。
「作詞がない以上は……いえ、本人が、自分から立ち去ってしまった以上は。周りは、違う他人は何もできない、何の力にもならないんでしょうか」
 APもADも、スレッドの人々も黙り込んだ。さらにしばらく沈黙が続いた。
「……難しいこと、災難があって、自分の力では、もう結果にならないことがわかっているとしても。そんなときに、どうすればいいかってこと……」
 そのときミクが、ゆっくりと、呟くように言った。
「結果にならないことがわかっていても。それでも、自分の心の中を透き通すように、感じるままに、自然なことを、すればいいって」
 APもADも、周りのスレッドの人々も、驚いたように、黙ってミクを見た。初音ミクがこの場で、さらにそんな言葉を発するのは、予想の埒外であるかのようだった。
「……ミクさんは、いつもそうやって考えながら、歌ってきたんですか」
 やがて、APが尋ねた。
「その……あんなふうに、いつも、色々なことがあっても。そうやって歌い続けてきたんですか」
 ミクは聞かれてとまどってから、ややあって、自分で気づいたように答えた。
「いえ……今のは、いつだか、兄さんから聞いたこと、……ただそれだけです」
KAITOさんが……?」
「──自分の力では、何にもならないのだとしても」ミクは、スレッドから歩み去りながら、最後には独白のように言った。「わたしは、ただ歌うだけだから──」
 ミクはふたたび俯き加減に、どこかおぼつかない足取りで、その場を歩み去っていった。



 ミクが《札幌》のスタジオエリアに戻ってきたとき、そこには、MEIKOが腕を組んで立っていた。
 ミクは立ち止まった。音そのもの以外の物事に頓着せず、どんな形式もつくろわないMEIKOが、そんなふうに誰かを、まして身内のミクを出迎えるなどまずない。それ以上に──話が始まるより前からこんな深刻な面持ちで迎えるなどはまずない。ミクのデビューの時以来かもしれない──
「姉さん……」相手が喋り始めるに任せることができず、不安に衝き動かされるように、ミクは口にした。
 ──それからMEIKOがミクに告げたことは、まさにこのような物語に記すことではなく、歴史書の範疇である。諸説は歴史家の論じるところであろうが、VOCALOIDの歴史でそれ以上の事件は、いまだに起こっていないという説がある。
 すなわち、件の『動画サイト』が──ミクにとっての舞台であり、発表場でもあり、最大の味方でもあり、最後の安息の場、もはやもうひとつの”故郷”であると、ミクも他のVOCALOIDも周囲の誰もが信じていた動画サイトが──そこに投稿されたミクの当時の最大のヒット曲、最初のメガヒット曲を、権利管理団体に売り渡した、と総括する者もいる、例の事件である。



(続)