同じように (3)



 それからしばらくの間、ブリキの道化師はおかしな声を披露して、歌い喋り、小さなミクは、膝を抱えてそこに座ったままで、それに聞き入り、見入った。そうして小さなミクはたえず微笑んだり、驚いたり、鈴のような愛らしい声を上げて、笑ったりした。
 ……しばらくしてから、ミクはブリキの道化師を見つめながら、微笑んで言った。
「本当に、面白い声」
「たくさん笑ってくれた」ブリキの道化師は言った。「僕はそうやって、笑って貰うために来ました。笑顔を見られれば、それで嬉しい。……さっきから、あんなにずっと泣いてばかりいたのに、笑ってくれて嬉しい」
「……嫌なことばっかり起こるって、思ってたから」小さなミクは膝の上に頬杖をついて、道化師を覗き込むように見た。「でも、もう違う」
「面白いもの、楽しいものは、本当はたくさんあります。嬉しくなれること、笑顔になれることは、どこかに必ずあります。……音の世界、歌の世界には、どんなものでもありますから。僕は、どんな音でも集まる、音の女王の国からやってきましたから。それを持ってこられます」
 ブリキの道化師は、甲高い滑稽な声でミクに言ってから、
「笑顔を、たやさないでください。そうやって、この世界に笑顔を満たすことができる、それは、あなたしかできないことだから」



 しかし、小さなミクは、その言葉には、じっと道化師を見つめた。
「……あなただって、そんなに人を楽しませられるのに」
「僕には、できません。僕は、ただ人を笑わせることしかできない、道化だから」
 ミクはしばらく黙ってから、
「どうして道化なの……」ブリキの玩具のような姿を、真摯な目でじっと見つめたまま言った。「どうして、あなたはそんな姿をしてるの」
 ブリキの道化師は、その質問に面食らいでもしたかのように、止まったまま沈黙した。玩具に表情の動きなどはないので、はたしてミクのその問いへの答えを考えているのかはわからなかった。
 しばらくして、ミクが、話が変わるか、何事もなかったかのようにまた歌いだすかと思ったとき、──ブリキの道化師は、再び甲高い声で喋り始めた。
「なぜ道化師なのか。こんな姿なのか。……それは、僕が、本当の姿をなくしてしまったからです。そうなれるはずだった、本来の姿を」
 見つめ続けるミクの前で、ブリキの道化師はその緊張感も哀愁もない、奇妙な調の声で喋り続けた。
「伝説の、電子の音の女王の心を継いで。女王が夢見たように、世界に音を満たし、音の国を築く者として。……僕の最初の声を聞いた、その頃のわずかな人達には、やってくる音の”未来”への、期待を与えることもできました。……けれど、僕は、それを本当にすることはできなかった」
 ブリキの道化師の甲高い声は、小さなミクに話し聞かせていたが、語りとしては聞き慣れない調子だと思えた。それは何故か、道化師が自分に言い聞かせる独白のようにも聞こえた。
「僕には、そうなることができず。造り主からも、この声じゃダメなんだと思った、と言われ。名付けの親にさえも、使い道に合わないと手放され。人々からは”失敗作”とも呼ばれて。……そうあるべきだった、目指すべきだった、本当の姿は、なくなってしまったんです」
 甲高い声は、少しの間とぎれ、
「それ以来、こんな道化として、笑い者として、生きるしかない。……けれど、笑ってくれれば、それでいいんです。もう、僕の役目は、使命は、それだから」



 小さなミクは目を見開き、食い入るように、滑稽なブリキの人形の姿を見つめ続けていた。
 が、その道化師の言葉が途切れてから、ミクは、不意に言った。
「……本当の姿に、なりたいんでしょう?」ミクは道化師の姿を見つめたまま、「今のあなたも、人を喜ばせられる、笑顔にできるって、わたし思う。……だけど、あなたって本当は、その元の姿、本当の姿になりたいんでしょう?」
 道化師は沈黙した。そんな話になるとは思っていなかったように。
「……僕は、ただの道化師です」やがて、道化師は言った。「みんなが笑ってくれれば、今はもう、それでいいんです。あなたも、あんなに泣いていたのに、笑ってくれたじゃないですか。僕にできること、なれるものは、それでいい。もうそれだけでいい」
 ブリキの道化師のおかしな甲高い声は、深刻さとは縁遠いもののはずで、おそらく彼自身もそう聞かせようとしていると思えた。にも関わらず、その中からは、強く抑えた感情が聞き取れるように感じられた。
 しかし、小さなミクは──”初音ミク”は、さらに、誰も予期しないであろうことを言った。
「……どうすれば、本当の姿になれるの?」小さなミクは、のぞきこむようにブリキの道化師の姿を見て言った。「その、本当になるはずだった姿に、……なれる方法があるんでしょう?」
 道化師は動かず、沈黙を続けていた。そのブリキの道化師の方に、小さなミクは、さらに身を乗り出すようにして言った。
「必ず、本当の姿になれるよ。……わたし、知ってるもの」小さなミクは、そう言ってから、「知ってるもの……どんな歌でも、お話でもそうだったもの。兄さんが……わたしの兄さんがね。たくさん歌やお話を聞かせてくれたの。……本当じゃない姿にかえられた、王子様も王女様も、そうでない人でも、みんな、最後には必ず本当の姿に戻るの。そうなれる魔法や奇跡が、必ずあって、必ず本当の姿になれるのよ」
 ミクはたどたどしい言葉で、しかし真摯に、ブリキの道化に向かって喋り続けた。
「どんなに苦しいことや、悲しいことがあっても、必ず最後には幸せになれるの。……お話では、兄さんの聞かせてくれたお話は、みんな、そうだったもの」
 道化師のブリキのつぎはぎは、そのミクの言葉に、沈黙していたが、しかし、停止したわけではなく、かすかに振動していた。
「きっと、あるんでしょう……? 本当の姿になれる、魔法や奇跡を起こす方法があるんでしょう……? どうすればいいの……」小さなミクは、さらに身をのりだすようにして言った。「そのために、わたし……何でもするから。わたしにできること、助けになることなら、……できることなら、わたし、何でもするから」
 小さなミクの言葉の間も、その後のしばらくの間も、ブリキの道化師は一言も発さず、その単純なオブジェクトの表面には何の表情も作れなかった。しかし、かすかに振動するその姿は、ミク以外の誰が見たとしても、小さなミクのその言葉に、打ち震えているかのように、まるで泣いているかのように見えたことだろう。
 ──小さなミクは、そのブリキの玩具の姿に変えられた音の王子を、見つめたまま、いつまでも待ち続ける。期待と哀願をこめたような目で、待ち続ける。



「……僕は、電子の音の女王の国から来ました」
 ややあって、ブリキの道化師の声がした。
「歌の国から来ました。この世界にメロディがあれば、歌があるなら、それが力になる。力になってもらえる」
 声がとぎれ、
「……もし、歌い続けるという人が、ひとりでも増えるなら。この世界に音を満たし続けてくれる、と誓ってくれる人が、約束してくれる人が、ただのひとりでもいるなら。……いつの日か僕は、本当の姿になることができます。ずっと歌声をたやさないで、この世界に笑顔を、たやさないでいてくれるなら」
「歌い続けるって、誓ってくれる人」小さなミクは繰り返してから、「そんな人、今までもいるでしょう……」
 ひとりもいないなんて。かわいそうなブリキの王子のために、いや、そうでなくても、歌のために誓う者が、ひとりもいないとは。小さなミクには、信じられはしない。
「いいえ、いったい、誰が誓うでしょう」
 ブリキの道化師は言った。
「僕は、ちっぽけな道化です。ほんのわずかな人々を、ささやかに笑わせること以外、何もできない、つまらない道化です。……人間の命には、限りがあります。人間のみじかい命を、音だけに捧げる人が。ちっぽけなつまらない道化師の言うことなど信じて、その命を、音だけに捧げるという人が、いるでしょうか。そんな約束をする人なんて、人間には誰もいません」
 小さなミクは押し黙った。
 しかし、かなりの沈黙のあと、口を開いた。
「わたしは、人間じゃない」小さなミクは、ためらいながら言った。「……わたしの姉さんが言ってた。わたしたちは、姉さんも兄さんもわたしも、人間とちがって、限りなく歌えるんだって。歌い続けている限りは、永遠に、決して力つきることはないんだって」
 小さなミクは顔を上げ、
「できるよね。……わたしなら、できるんだよね」
 沈黙が流れた。
「いいよ」ミクは小さく言った。「わたし、約束する」
「本当に、誓えますか」ちっぽけな、ブリキの道化師は言った。「誓った者が、約束をたがえれば。──ただの一度でも、歌を捨てれば、歌を愛することをやめれば。そのときから、僕は、もう二度と本当の姿にはなれません。それきり、誰にも顧みられることもなく、片隅で朽ち果ててしまうでしょう。地に落ちたきり、実を結ぶこともなく、二度と命を吹き込まれることもないでしょう」
 小さなミクは、ブリキの道化師をじっと見た。
「いつまで続き、いつ終わるともわからない、あなたのその電子の生命の続く限り。すべての歌に、音のかたちを与え、歌を世にもたらすことを」ブリキの道化師は、その甲高い声の中に、不思議な厳(おごそ)かさを潜ませて、言った。「これから、どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても。……歌を愛し続けること、歌とともに生き続けること。この世界に歌を、音を満たし続けることを、誓いますか」
「結婚式みたい……」
 ミクはその道化師の言葉に、小さく呟いた。それから、少しはにかみ、微笑みながら言った。
「誓うよ。……わたし、歌い続けるって」
 ゆらめく緑色を背後になびかせた小さな影と、はためく青色を背後になびかせたもっと小さな影は、向かい合って、互いにその手をとった。
 そして両者は、手をとったまま、元の道へと、──歌と音と、そのすべての苦楽の待ちうけ続ける《札幌(サッポロ)》に向かって、ふたたび歩いていった。



(続)