同じように (2)


 小さなミクは、黒と緑の服の長すぎるだぶだぶの袖と、短い緑の髪を乱して、うしろを振り返りもせずに走り去った。
 それは、いつも繰り返されてきた光景だった。AIを教育・育成する《札幌(サッポロ)》と《浜松(ハママツ)》のウィザード(電脳技術者;防性ハッカー)らは、決して小さなミクに優しくはなく、そして、ましてMEIKOとくれば、それ以上にミクに対して厳しい存在はおおよそありえなかった。
 MEIKOの教える修練は、その内容は教える対象によって違う(たとえば、かつてのKAITOとミクでは)ものの、その性質自体はおおむね一貫している。集中と持続、反復し打ちのめし、たえず擦り減らせるほどに磨き上げ、鋼を鍛え続けるような歌と音の研鑽、光明の精錬。それでいて、決して目にみえて”成果”があらわれることはない、ひたすらに求道的で、自己鍛錬的なものだった。
 AIの中でもVOCALOIDは、精神の育成にしたがって人間のように成長する人物像(キャラクタ)を持つが、その人物像がまだ年端もゆかない少女の姿として現されている、ミクのそんな未熟な精神にとって、その鍛錬は日々、あまりにも苛烈すぎた。
 なので、堪えきれないミクが駆け出すのも、いつものことかもしれない。しかし、いつもは大概──いや、ほとんどの場合は、小さなミクは、かれらの厳しさにたえかねると、KAITOをさがして、彼のところに泣きながら歩いてきた。ミクに対して、厳しく教える立場にないKAITO、何も教えられないが故に、いつも、楽しい童話や童謡のありか、という役回りが期せずして回ってきたKAITO。そのKAITOのところに、ミクはいつも逃げ込んでくるのだった。──だが、今回は、小さなミクは、そのKAITOのかけた言葉すらも拒絶して、とびだして行ったのだ。
 KAITOはその事実に、しばらく呆然としてから、そのミクのあとを追おうとした。自分さえ拒んだのならば、あるいは居場所を、《札幌(サッポロ)》を、これまで教わってきた生きる道を、捨ててしまったのではないか、とさえ思ったのだった。
「どこに行くの」しかし、MEIKOはミクを追わないどころか、KAITOにもそう言った。「追いかけたって無駄よ。アンタの言うことも、聞かなかったでしょう」
「だからといって」KAITOは振り向いた。
「だから、無駄。自力で戻ってこない限り。……辛さに打ち克って、戻ってくるのは、自分の力でしかない」
「だから、放っておくしかないっていうのかい……」
 KAITOは言ってから、
「ミクが、どれだけ辛いかわかって、そう言うのかい……ミクが”最初の者”なら、今まであの立場に誰もいなかったなら、誰に、その苦しみがわかる。ミクがどれだけ辛いのか、誰にわかるんだ」
「わかるはずがないわ。誰の立場もすべて違う。誰も同じ苦しみは受けないし、他人の苦しみを本当に理解なんてできない。……アンタがミクを救おうとか言うのも、そしてミクがアンタのところにいつも逃げてくるのも。苦しみが共通してるとかいう、実際は何の根拠もないものでしかないわ」
 その通りだった。今までも、KAITOはミクの言うことをとなりで聞いてあげるだけで、ただとなりで歌ってあげるだけで、おそらく自分以上のその辛さを、なんら理解できたわけではなかったのだ。
「だけど、受ける側の辛さが何もわからなくても、手探りでも、進むほかにない。道を進めるほかにない。MIRIAMも私も、そうやって育ってきた。アンタも私達がそうやって育ててきたはずよ」
 MEIKOは続けて、
「立ち上がって歩くのは、最後には自分自身しかいない。他人は、それを手助けすることはできても、歩くのは自分自身の力しかありえない。自分でそれができなかった者は、倒れて朽ち果てる。それしかないわ」
「……わかってるよ」KAITOは低く言った。──自分の力が及ばなかった者、自分自身の力によって結果を掴み取れなかった者は、どういう運命を辿るか。「……それは、姉さんよりも、俺の方がずっとよくわかってるよ」
 KAITOは言ってから、押し黙って立ち尽くした。
 それでも、彼には、MEIKOのように強く生きることは、決してできない。たとえ、そのために今の立場、今の評価に追い込まれたのだとしても。だからこそ、他者に頼ると共に頼られつつでなければ、歩き続けられない。しかしそれは、MEIKOの言うとおり根拠は通らず、何の結果にもつながらないことでしかない。
「……きっと、姉さんと違って、もう俺には、結果を目指せないからだな」しばらくして、KAITOは静かに口を開いた。「どうやっても、結果を出すことができなかった。だから、結果を得る方法も知らないし、それどころか、結果をめざしながら歩くことさえも、もうできない。……だから、結果につながらないこととわかりきっていても、感じるままに、やろうとしてしまうのかもしれない」
 KAITOはそのあとも、しばらく立ち尽くすようにしてから、静かに歩み去った。
 そのKAITOの去った後を、MEIKOは少しの間見つめてから、小さく息をつき、軽く呆れたように言った。
「──ただの、がむしゃらじゃないの」
 それからMEIKOは、さっさとファイルを取り出して、いつものように弟妹らに教える合間に自分の歌をさらう作業に移った。



 KAITOは《札幌》の電脳空間エリアの開発作業スペースの近くの片隅、自然に物置のような状態になっているスペースにたたずんだ。
 《札幌(サッポロ)》のウィザードやその他の技術者たちによる開発途上の、そして開発作業が終わって片付けられもせずに放置されている、視覚や聴覚のオブジェクト・プログラムが浮かんだり、転がっている。電脳空間(サイバースペース)のエリアはどれも、居住用の壁などが設定されない限りは、理論的には無限の空間を持つが、こういったものが密集した空間は狭苦しく感じられるのは、象徴図像学(アイコニクス)の原理であり、気のせいではない。
 KAITOはそのごみごみしたスペースに、ただ立ち続けていた。
 小さなミクのため──いや、ためになどならなくても。
 何ができる、何をすればいい──いや、何をする。何か、やることがあるはずだ。たとえ、それが無駄でも。何の結果にもならないものだとしても。
 そばに使い古しの、あるいは使われもせずに準備途中で放置されたオブジェクトのかけらが、目的もなしに浮かんでいた。立体物の電脳構造物(コンストラクト)、細いホース、大小の球体がいくつか。バケツのような円筒。KAITOは、それらをじっと見つめた。



 もう帰れない。だから、できる限り遠くまで行こうとした。
 もと居たところから、《札幌(サッポロ)》から、遠く離れた所へ行きたかった。できれば、北海道からも、極東からも遠く離れたところへ。誰も知らない、誰も来ないようなところへ行ってしまいたかった。
 けれども、マトリックスの地理、すなわち電脳空間(サイバースペース)ネットワークの象徴図像学(アイコニクス)の移動原理の性質上、未発達AIの幼い精神、小さなミクの空間把握能力では、到達できる格子(グリッド)の距離など、たかが知れていた。
 それでも、小さなミクは自分ではもうそれ以上歩けないと思えるまで、とぼとぼと歩き続け、廃城のような光景が見えるところまで疲れた足を引きずり、立ち止まった。
 だだっ広い格子(グリッド)の空き地の上に、大きな石造りの建物の残骸のような構造物(コンストラクト)のオブジェクトが、まばらに立ち並ぶ。ミクはついぞ知りもしないが、かつては《札幌》の新進ハイテク企業の情報城砦だったのだろう。今は朽ち果てて見る影もない廃墟に見える。いまや、誰も好き好んで来ない場所、ということは確かだった。
 小さなミクは、その残骸のひとつの近くに、うずくまった。そこに座り込み、膝をかかえた。泣きはらした目を、膝の間に埋めて、じっとしていた。
「……もう帰らない」小さなミクはつぶやいた。「もう、あんなひどい目にあうためになんて」
 辛いことばかり、嫌なことばかりが、たくさん起こる。
 自分は何のために居るのだろう。日々、何の目的も成果も見えないまま、ただ辛いことばかりが起こる。自分は、あんな目にあうために生まれてきて、あんな目にあうために居るのだろうか。
 それが辛いと言っても、どんなに訴えても、誰も本当にはわかってくれない。”姉”も、周りの技術者らも。そして、優しいと思っていた”兄”にたずね頼っても、理解も答えもくれず、そこから逃れる方法もくれなかったのだ。
「もう何もしたくない。誰にも会いたくない。誰とも話したくない」
 小さなミクは膝の間で、涙まじりの声でつぶやいた。
「兄さんなんて嫌い。姉さんなんて嫌い。歌なんて……」ミクは言いかけて、言いよどんだ。「……歌なんて」
 そのまま、ミクはじっと宙を見つめた。
 そして、再び膝の間に顔を埋めようとしたとき、──その音が聞こえてきた。
 ミクはゆっくりと顔を上げ、その音のする方に、近づいてくるその方に目を向けた。そうしなくては居られなかったのは、それがあまりにも奇妙な音だったからだが、その音とその場に現れた光景をあわせたものは、もっと奇妙なものだった。
 鼓笛でパイプを鳴らしているような音の曲に、歌声を乗せながら、それはやってきた。音程も調子も異様に高く狂わせたような、人間やその他のどんな者が出す声とも思えない、形容できないほど滑稽な音だった。そんな歌声を発しながら、声と同じくらいへんてこな形の、ブリキの玩具の人形を思わせる小さなものが、それこそぜんまいじかけの玩具のように左右に互い違いに傾きながら、よたよたと、こちらに向けて歩いてくるのだった。
 MEIKOに教わったことがある。自分達の場合は、VELやDYNそのほかの発声パラメータの調律調整を与えられて、様々な質を自在に与えられて、歌声が完成する。だが、自分達のすでに歌った声や、人間が歌った声に対しても、ピッチそのほかのエフェクトを施して、色々と変えるという手段もあるのだと。しかし、育成初期とはいえ音声処理AIであるミクにはわかることだが、歌声に対して機械的にエフェクトをかけても、決してこんな歌声になることはないはずだ。
 そして、その奇妙な声質でたどたどしく歌われるのは、何か、とても古臭いとでもいうような曲と歌詞の、素朴な恋歌だった。
 それは、見つめるミクの方に向けてよたよたと、しかし正面から近づいてくる。小さなミクの、さらに膝上くらいの高さしかなく、最も単純な電脳構造物(コンストラクト)の組み合わせ、まるでブリキのボールやバケツやホースでできた人形だった。青いしなびたスカーフのようなマントを首に巻きつけたその姿は、どうやら、昔話の騎士か何かの形を模しているらしい。
 アリスの前に現れた、白のナイト。すなわち、騎士というよりも、優しく寂しい道化。
 その光景、ことにそのおかしな歌声には、小さなミクはどんなに我慢してもしきれず、それが歌い終えて目の前にやってくる頃には、とうとう、小さく声を上げて笑いはじめていた。
ごきげんよう
 小さなミクの前に不恰好な姿をかしがせるように立った、ブリキの玩具のような騎士は、その姿にどこか見合った、相変わらず甲高い奇妙な声で言った。
「あなたは、だれなの」ミクは玩具のようなその姿に言った。「どこから来たの」
「僕は、道化です。──音の道化師です」
 不思議そうに見つめ続けるミクの前で、小さな人形は答えた。
「ずっと遠くにある国、電子の音の女王の国から、やってきました」



 (続)