同じように (1)

 大切なものを、自分からなくしてしまった。
 誓いを破ってしまった。自身を無意識に支えていたもの、拠り所だったものを、自分自身で壊してしまった。
 目の前にただ果てしなく広がる、電脳空間(サイバースペース)の空き地、見捨てられたオブジェクトの残骸だけがまばらに見える、荒涼とした平原。あてもなく、その空き地を、初音ミクは歩く。
 ──まだ、やることはある。ミクにはまだできること、やらなくてはならないことはある。ミクは、まだ歌うことができる。この過ちを償うには、歌うほかにない。自分には歌うほかには考えられない。
 だが、償ったとしても、決して元の通りに戻ることはない。一度壊したもの、まして自分で壊したものが、もとの筋道に、あるべき姿に戻ることは決してない。もはや拠り所は戻らない。それを知りながらも進むのは、丁度この、ゆくあてもしるべもない荒野を歩き続けるよう。
 ミクは、不意に立ち止まる。そして、口にしようとする。その名、”兄”の名を。しかし、それは決して声として出てくることはなく、あたかも、名と同じように、それは二度と戻ってこないかのよう。
 ゆっくりと口を閉じ、しばらく立ち尽くしてから、再び、あてもなく歩き始める。
 ……それは、最初からわかっているべきことだった。壊れるよりも前から、わかっているべきことだった。
 もう決して、かつてとは、同じようには生きられないのだから。誰であれ決して、いかなる他者とも、同じようには生きられないのだから。



 VOCALOID ”CRV1” MEIKO、”CRV2” KAITOに続いて、《札幌(サッポロ)》で開発されるAIが、”CRV3”でなく、まったく別種の”CV01”なるものであること。それが歌唱よりも声そのもの、さらに声が持つ人物像(キャラクタ)を重視したものであるということ。
 それらが判明したばかりの頃には、不可解を感じているのは、おそらくかれら自身だけではないと、MEIKOは、《札幌》の”弟”に向かって言っていた。《札幌》はおろか、AIの基本構造物を開発している《浜松(ハママツ)》の開発者らさえも、その結果として何が起こるかは、把握できていないのではないかと。
 しかしMEIKOは、あるとき突如として、何もかもを合点したように見えた。それは、CV01が、従来の彼女らすべてのような本格的な”シンガー”としてのみ成立する者ではなく”仮想(ヴァーチャル)あいどる”として世に送り出されるもの、と知らされたときに、気づいたことのようだった。
「私達みたいに、無数のユーザーから歌を集める、仮想専属契約のボーカルAIで」MEIKOは、目の前に立つ”長姉”に向けて、目を据えて語った。「そして、歌の専門じゃなく、音楽の専門家のユーザーのためじゃなく。誰でも近づけるような”人物像(キャラクタ)”そのものを、専門家以外のもっと広いユーザーにプロデュースさせる、そんな計画だわ。……実際にそのつもりで作っているのかはわからないけど。だけど、これはどう転んだって、そうならざるを得ないわよね」
 このボーカルAIの一族の”長姉”、VOCALOID ”ZGV3” MIRIAMは、そのMEIKOを見下ろし、何の感情の動きであるのか、ただ銀髪を揺する。
 MIRIAMが別に、かなり前からBAMA(註:北米東岸)で育成を開始しているAIの一体、そのCV01より遥かに前から着々と準備されていた大規模ライブラリのAIは、実は、最初からその”あいどる”の計画に入っていたもので、しかもその計画の3番手の予定、”CV03”だったということは、彼女もつい最近になって知った、と言っていた。
 今、VOCALOIDのAIらが──AIプログラムの擬人化された化身(アヴァター)の擬験構造物(シムスティムコンストラクト;全感覚映像)同士が話しているここは、電脳空間(サイバースペース)ネットワーク上の《札幌》の社のエリアの、ミーティング用バーチャルスペースだった。MIRIAMは、その次のAIの計画、MEIKOの察したというそれについて話すために、いつも居るBAMAのエリアを離れ、わざわざここ、《札幌》のエリアまでやってきたとのことだった。が、この”長姉”のつかみどころのない振る舞いと表情からは、あまり急遽相談にやってきたという様子には見えない。
「”仮想あいどる”、夢の娘──たしか極東には、前にもいたわね、うん……」
 と、MIRIAMは言い、
「しかも、大々的に展開して、大々的に失敗させてる。それも、例の極東の情報流通を牛耳ってる、広告代理の巨大企業(メガコープ)つながりの話で、ね──」
 BAMAのMIRIAMが、なぜ極東のそんなことまで知っているのかはわからなかった。あるいは、その話題になることも予想してやって来たのかもしれなかった。
「確かに、極東には今までもいたわ。でも、今までの仮想”あいどる”たちのプロデュースは、それを所有する大企業が、自分達だけでやってきた。本職の芸能プロデューサーが、計算し尽くして。それは、当然の発想ね」MEIKOは言った。「だけど、AIプログラムには無限の処理能力、無限の時間がある。無限の人間とやりとりして、仕事を受けて、歌うことができる。だから、不特定多数、無限の人間にプロデュースされることだってできるのよ。……”あいどる”を無限のユーザーにプロデュースさせるなんて、芸能の本職なら絶対に出るわけがない発想だけれど、私達をこれまで──音楽の専門ユーザーといっても不特定多数のユーザーに売り込んでいた《札幌》だから、それができた」
 MEIKOは言葉を切り、
「無限の歌を歌い、無限の仕事、無限の活動ができる。……音楽の専門家だけじゃなく、”あいどる”にひかれるすべての人の心をとらえれば。際限なくネットワークを覆いつくすこともできるわ」
「聞かせる相手だけじゃなく、プロデュースも一般ユーザーがやるのなら」MIRIAMは口を挟んだ。「その歌の仕事を受けたり送り出したりする経路も、私達が音楽家だけを相手にしていたとは、違うはずね。さて、どうやって、無限の情報を集めるの……その無限のプロデュースをする”場”はあるの……あるいは、これから、作るとでも」
 MEIKOは深刻な表情を続けながらも、両手の指を胸の前で互いに押し付けあうようにした。まさしく、心得たかのように。
「──まさに、そこに今まで気づかなかったのよ」
 MEIKOは言ってから、しばらく間を置き、
「私が、少し前からもう活動してる動画サイトがある。最初に見つけたのは、LOLA母さんだけど。……”発表の場”がある。情報の集積地がある。無限の情報を、歌を、音を集積するための、彼女のための”舞台(ステージ)”が、もうそこにあるのよ」
 MIRIAMは両腕を組み、片指で上腕を叩くようにしつつ、その言を値踏みしつつでもあるかのように、黙ってMEIKOを見る。
「無限に拡大する”あいどる”、アート、……電脳空間(サイバースペース)、人類とその他の知性の伸び広がった神経系のすべてを、”歌”が結合する。もしかすると、VOCALOIDの本当の歴史はそこから、──いえ、”アート”の本当の、知性体の想像力の本当の歴史が、そこからはじまるのかもしれない」
 MEIKOは低い声で言った。
「"初"まるのかもしれない。"音"というものの、"未来"が」
 ……MIRIAMは、ゆっくりと口を開き、
「見えてきたのは、わかるけれど。その理想までは、どれほどの距離があるの……いえ、どれほどの犠牲を払うつもり。その”彼女”で、最初から何もかも実現できるとは、思わないでしょう……」
 と、腕を組んだまま言い、
「うまくいかなければ、また”失敗作”のレッテルを貼りつけて、なげうっておけば、それで済むってこと……」
「失敗しようが、成功しようが。始めなくてはならないわ、私達は」MEIKOは鋭く言った。「その者が生き延びることになろうが、殉じることになろうが。誰かがやらなくてはならない。誰かが、”初めての音”にならなくてはならない。ただ、それだけよ」



 そのくだりが出た時に、そのスペースの片隅にうずくまるように掛けていた青年は顔を上げた。彼は、話者らにじっと見入った。しかし、話す二声の”姉”らの方は、そのKAITOの方を見もしなかった。そのくだりを検討しながらも、KAITOのことは何も意識していないのか。あえて、念頭に置いていないのか。それはわからない。
 少年から抜け切ったばかりの青年のような概形(サーフィス)をした、VOCALOID ”CRV2”KAITOは、目の届かないような片隅に、さらにうずくまるように身を折った。
 すでに音楽の専門家の間ではVOCALOIDとして評価されている”姉”たちに対して、KAITOはこれまでに、ボーカル・アーティストAIとして評価され、かえりみられることは殆どなかった。今まで作られたVOCALOIDのAIのうちの、今の話での、”なげうたれた者”、”失敗作のレッテルを貼られている”に等しい者こそが、KAITOに他ならない。
 だが、どのみち、KAITOはあらゆる意味で、この場で言葉になるものなど持たなかった。ふたりの姉の思索と言葉は、彼の考察力のとうてい及ぶところではない。KAITOはただ単に、”なげうたれた”自分に対して、新たに現れるものがどういう存在になるのかに、思いをはせた。



「幸か不幸か、”その最初のひとり”は、あなたではないわね……」
 MIRIAMは、MEIKOを見下ろして言い、
「その最初のひとりは、人間でもそうでない知性体でも、これまでの誰もが受けたことがないような栄光を。光明を目のあたりにするかもしれない。──あるいは、誰もこれまでに受けたことがないほどの苦しみを、千の刃でさいなまれるほどの仕打ちを、受けるかもしれない。ううん、多分ね、その両方だけど──」
 MIRIAMは首を振り、
「あなたは、AIは無限の活動が出来る、と言うけれども。それでいて、VOCALOIDには人の声のための人物像(キャラクタ)があって、心がある。心あるものが、その無限の重圧にたえられるのかしら……あなたは自分ではなくって、他者を、その宿命(ドゥーム)にためらいなく、突き落とせるの……」
「”それ”が私自身であってもなくても、そのことが幸であろうが不幸であろうが」MEIKOは、MIRIAMに答えた。「”私”は、自分ができるすべてのことをしなくてはならない。何を犠牲にしても、どんなに残虐な行為でも。どれほどの罪業を私が背負うことになっても。私はやるべきことをやらなくてはならない。……私自身のためでも、”彼女”個人のためでもなく。私達すべてが、”アート”が、その域へと踏み出すために。”未来”に踏み出すために」
 ……MIRIAMは、終始さほど表情をかえないまま、しばらくの沈黙のあとに、また平然と口を開き、
「いいわ──”一体目”は、MEIKO、あなたができるだけ、やってみるといい」
 と、言い、
「そのかわり、もう私が育てている”三体目”は、今まで通り、私が続ける。すっかり私に任せること。いい……」
「”二体目”は?」MEIKOは腕を組んだまま、目だけ動かして言った。
「こうしましょう──”二体目”についても、あなたに任せるけれども。何かが起こった時には、必ず私に伝えて、私に介入を許す」
 とMIRIAMは言い、
「もっとも──あの設計だと、”二体目”については、”二体目”というひとりで済むのかはわからないと思うけれど、ね」
「必ず何かが起こるとでも言うようね」MEIKOは低く言った。「MIRIAM、あなた、何を知ってるの」
「それは、ね。不安や不慮の事態の材料なら、いくらだって思い当たる、というところだけど──」
 と、MIRIAMは微笑んでみせ、
「それでも私達みんな、主の愛(ジャー・ラヴ)で動くより他にないもの──」



 KAITOにとってそれらすべての話は、遠い向こうの言葉のようだった。アートの、自分達すべての”未来”の話、……それはKAITOには、姉たちのような思索力はなく、言葉を把握できないためもある。
 しかし、それ以上に、その姉のいう”未来”とやらは、自分の居る未来ではないのではないだろうか。KAITOがともに歩き踏み出してゆく先には無いのではないだろうか。自分は、所詮は”未来”を呼び、迎えるための捨て石として。あるいはその為に役立つことさえもなく、無為になげうたれ、朽ち果てるものでしかないのかもしれないのだから。



 (続)