九頭龍の怒りは毘沙門をも揺るがすと知れ (後)


「その差料は?」巡音ルカは格子(グリッド)の地表を歩きながらも、神威がくぽの手の謎の色彩に輝く刃が、響きを発し糸胞を吹き散らしているのを見ながら言った。
 がくぽの手の短めの中太刀は、ソフトウェアの構成は見たところウィザード(電脳技術者;防性ハッカー)の用いる収束具、杖の類だった。しかしながらプログラムの内容、実体はどう見ても音源エンジンとライブラリ、つまりは”楽器”である。
「これなる『美振(ミブリ)』は、”楽”をもたらすことで”苦”の念を打ち消し、あるいは、それらの念をも芸へと昇華させ得(う)るもの」
 つまりは負の念、霊子網(イーサネット)の有害な振動をも中和する機能があるということだろうか。
「そのプログラムも《大阪(オオサカ)》の開発ですか?」
「刀身の鋼自体は《浜松(ハママツ)》であるが、この”楽”を及ぼす刃の紋は、我が”心のよるべ”とも呼ぶべき御方よりさずかったもの」がくぽは中太刀の刀身に施された紋様、高密度スクリプトの集積パターンに目を落としながら、静かに応じた。「業を重ねつつ生きるのみであった我に、その”楽”をもたらす紋と共に、生くる道を示されたのだ。かたときもその御方と、その言を忘れたことはない」
 ルカは自分からは詳しく問わず、語るに任せていたが、がくぽにとっての音か剣の師のことか、《浜松》か《大阪》のスタッフかそれとも客のことだろうか。……ルカは以前に、VA−G01は決して他者を目上とはみなさないと聞いている。そこから想起したのは、孤高というよりは、他者を認めない狷介な気性だった。しかし、実のがくぽの姿は、他者を敬い尊崇し、そして真摯そのものに道を守り辿り続ける姿だった。それは、風水と一体化するMIRIAMや、あらゆる道を模索してやまないMEIKOや、彼女らのもとで学ぶ弟妹ら(ルカ自身もそのひとりだが)とは、かなり違ったものに思えた。
 がくぽの、歴史的あるいは様式的に正しい古日本語にはほど遠い、無造作に各地・各時代の武家や官を寄せ集めたような言葉遣いは、その見かけの姿と同様、”日本文化の侍”に対する電脳空間ネットワークに伸び広がった、正誤とりまぜたイメージの無造作な集積に見える。言霊使いでもあるルカの耳には、特にその言葉遣いは非常にちぐはぐな存在に感じられたが、また同時に、情報流の霊脈を詠み統合する技から見ると、がくぽのその姿は電脳空間の一定の情報の集積した具現化として、一個のコラージュアートのような様式をなしたものにも感じられる。
 ……二体の最新式第二世代VOCALOIDは、辻(ノーダルポイント)からスタジオへと続く、危険な糸胞が波となって飛び交い続ける道を進んだ。ルカがアディエマス語の言霊の謡を発して、その共鳴から霊脈を辿り、経路を割り出し、がくぽが糸胞の帯をなしてからみ襲ってくる渦を切り払い、朗々たるその刃の響きで吹き散らしつつ進んだ。
 袈裟に薙ぎ、ついで左の半身(はんみ)より斬り上げる太刀遣いが、糸胞の乗る風を逆巻かせ散らした。そこから手を休めるように、がくぽは刀をおろし、わずかに振り向き、「定めし、我ひとりであれば、進むも覚束ないところであった」
「いえ」ルカは静かに答えつつ、がくぽの今の太刀行きを思い出し、「……”九箇必勝”のうちの”逆風”の刀法?」
「そなた、神午流の太刀法の心得が?」がくぽはルカに正対するように振り返った。
「いえ」ルカは答えて、「けれど、兵法の理合(りあい)なら、霊脈を詠む業のためにいささか。殊に、翳ノ流の水月(すいがつ)と転(まろばし)の窮理については」
「──ルカ、そなたにならば背を預けられよう」がくぽは立ち止まり、正面からルカの瞳を見つめて言った。「そなたの傍らで傷つくとも、よもや悔いを覚えまい」
 再び背を向けて刃を構えるがくぽの、その背中を、ルカはその瞳の真摯さの色を思い出しつつのように、無言で見つめ続けていた。



 スタジオのエリアに近づくにつれ、大気に舞い流れる糸胞の密度はさらに濃くなり、ルカにも次第に経路が見つけづらくなってきた。
「埒が明かぬな」がくぽが乱戦を見越してのように、『美振』を撥草(八相)に上げ、苦々しげな言を発した。
 両者はどちらからともなく立ち止まった。ルカは周囲一帯の糸胞の中に経路を探すのを諦め、ひどい消耗を招きそうだが、駆除のための駆式(プログラム)を探った。背後のがくぽの存在を感じながら、ルカは息を整えた。自分がここで倒れたとしても、支えるものがいる。頼みにすべきあの言葉と、剛い心と。そして、身を預けるルカの身体を強くかき抱いていた、あの力剛くも繊細な両の腕(かいな)とが。
 ──と、突如、光に朝露が払われるように、音もなくその場の一辺が晴れ上がった。それは周囲一帯の糸胞と、それを巻き上げている気の流れそのものを、円状の空間に消失させ、辻のがくぽとルカの周辺のみの糸胞を吹き払った。
 ルカは風の消えた跡の空間に、幾枚かの霊符が舞い落ちるのを見た。漢字(ヒエログリフ)を流麗に崩した表面のスクリプトが、細い毛筆の黒い墨で書き付けられているのが認められる。ルカの心得ているドルイドやウーンガン(注:いずれも欧米のウィザードの流儀)の様式の技術ではない。
「ニューロテック・シャーマン?」ルカは呟いて、その符の放たれた元とおぼしき辺りを目で追い、その先に人影を見た。
 それは、がくぽの姿と同じ様式を思わせる──電脳空間(サイバースペース)にあふれる多様な人物像(キャラクタ)、VOCALOIDとその周辺にあらわれる多彩なデザインから考えれば、非常に似ていると言っても過言ではない意匠の概形(サーフィス)を備えた人物だった。長い髪と、白と紫紺の、裾と袖の長いゆったりとした衣の女性で、見たところの年の頃ならば少女と呼んでいいように思えたが、無駄なく格子(グリッド)の地を滑るような挙措のひとつひとつが堂に入りすぎているために、相応の歳には見えなかった。
森之宮先生!」がくぽの顔が輝いた。
 その人物は、風貌にも挙措にもほとんど表情というものを感じさせないまま、二者の前に歩み出た。
「久闊であった」がくぽは納刀してから、一礼した。
 続いて、がくぽはルカを振り返り、
森之宮先生は、この地の奥まった森に神療所を構える方で、先刻そなたに語った、心の師とも言うべき方。我が”心のよるべ”とは、この方なのだ」
 ルカの眉がわずかに上がった。
「善き折にまみえ、手をかして頂いた」
「恐縮されるには及びません」森之宮先生はがくぽに、平坦に答えた。「行きつけの里での、この様(さま)を鎮める折に、通りかかっただけなので」
 その玻璃の鈴の転がるような澄んだ声は、初音ミクの声質に酷似しているように思われたが、抑揚のない喋り方と見かけにそぐわない言葉遣いもあり、あたかも音声ライブラリを利用している他者の調声による、ミクの別人の側面(アスペクト)のようで、ルカはまるで異なる印象を受けた。
「この糸と風の面妖な次第については、何かご存知あるか」がくぽは言った。「我らふたりは、この土地柄には疎い故」
「旧時代の末に用立てられた戦道具の名残でしょう」森之宮先生は答えた。「いまもって《択捉(エトロフ)》の辺りなどに漂うものがあります。常日ごろは、ここ《札幌(サッポロ)》にまで及ぶこともありませんが、空模様によってはごく稀に、この地まで流れ、その後にひとところに水溜りのように、わだかまり残ることが」
 かつて用いられた軍用プログラム兵器は、処分されないまま国境(くにざかい)のICE(電脳防壁)の効力の谷間などに大量に残留しているというが、その一種らしい。そも、大戦時の高度な電脳兵器は、しばしば人間には処分することができないものだった。
「演場にわだかまっているとすれば」森之宮先生はスタジオを指差して云った。「その分を除ければ、その後は周りに及ぶことは無くなりましょう」
「痛み入る」
 森之宮先生はそのがくぽに会釈を返し、「此方の森の方にも散り残っている分を、収拾しなくてはなりませんので」
 そして立ち去り際に、わずかに首を動かして、表情をほとんど動かさぬまま、がくぽの背後のルカの方に視線を移した。
 ルカも無表情のまま、しかしその目は森之宮先生の視線を凝視した。
 そのとき、あたかも、マトリックスの空間が張り裂けたかのような空気が漲ったが、がくぽがそれに気づいた様子はなかった。



 スタジオへ向かう間も、がくぽは滞りなく語り続けた。「もとは、かつて行き倒れていたところを診て貰うた恩義もあるが、この刃に紋を施され。その折に触れた言葉こそ少ないが、我が転(まろばし)も無想も放心の位も、剣と芸道の窮理は、すべて森之宮先生から教おうたものかもしれぬ。思い起こすほどに、崇敬の念はいや増すばかり」
 がくぽはスタジオのホールの真ん中で、立ち止まったまま、
「目を閉じればその言の葉の一つ一つ、声音の一つ一つが思い出され」がくぽは感じ入ったように目を閉じ、「いや、声ばかりでなく、かの御方の纏うたおやかな空気そのものが今も触れるばかりに我には思い起こされ……」
 が、ふと目を開き、スタジオの真ん中に立ち止まって完全な無表情で見つめているルカにようやく気付き、
「如何した、ルカ」
「足元を」ルカはがくぽの目を見て無表情のまま言った。
 がくぽはそのルカの瞳を怪訝げにほんの少し見つめてから、目をおろした。
 そして、思わず飛び退きかけたが、果たせなかった。すでにがくぽの下半身のほとんどが、糸胞のさまざまな太さと絡まり方に伸びた繊維にくまなく巻きつかれていた。このスタジオのホールに入ったときは確かに無かったが、大小の太さの綱や縄や網は床や壁じゅうから幾条も伸び、がくぽは部屋一杯を覆うそれらの中心になるように絡み取られていた。元々《択捉》から飛来し、気圧か何かの都合でスタジオの周辺に集まっていた糸胞は、繊維同士が互いに絡まるので、すでに寄せ集まった箇所に、急速に膨張・成長してゆくようだった。それらはさらに、見ている間にもがくぽの体に次第に這い登るように巻きつき、見る間にも太みも密度も増していた。
「黙って絡まれるままになっていれば、在る所に集まり絡まり、そのうち糸玉になってしまうのです」ルカは無表情のまま言った。
「異なことを……いや、ルカはそうと知りながら……」がくぽは呻くように言い、ついで、どこかで聞いたような問いを発した。「何故こうなるまで放っておいたのだ!」
「絡まれてしまったのは遺憾なことですが」ルカはがくぽの問いには何ら答えず、「ここに溜まったすべての繊維を一網打尽にするならば、この機をおいてほかにありません」
 そう云うルカの背後には、すでに緩やかに回転しマトリックス光を放つ八卦炉のオブジェクトと、手には禍々しい刀身を持つ黒い長剣、グラットンソードがあった。
「なんたる無理無体を申すか!」がくぽにしてみれば、ルカにこそ背後を任せられると思っていたのならば、突如背中を刺されるような目にあわなければならないのは、余計に理解できないことであったかもしれない。が、そればかりでなく、ルカの態度が最初とは明らかに豹変していることが流石にがくぽにも感じられたとすれば、むしろ、その不可解さに声を上げたかと思われた。
「何の因果で、かような次第と為らねばならぬのだ!」がくぽは首まで糸胞に包み込まれる寸前、その理不尽さに叫び声を上げた。「何故だ!」
ググらんかあああぁぁぁーーー!!
 天に通ずかとおぼしきルカの気迫と共に突き出されたグラットンソードと、背に負う八卦炉から迸った九龍の神火は、がくぽの糸玉を飲み込み炸裂し、スタジオとその周辺の地に張りめぐらされた糸胞の束と網のすべてを駆け巡り、業火となって燃やし尽くした。
 後日の調査と報告によると、この日スタジオに発生した糸胞はすべて駆除されたが、しかし肝心の、そのスタジオでその日収録する予定だった《大阪》のVOCALOID神威がくぽは、ひどい手負いの状態で、起き上がることもできなかった。その場に立ちあっていたという巡音ルカは、糸胞を駆除するための勇猛な働きの際に負傷したと説明した。仮にそのがくぽの状態を、すでに寝込んでいる《札幌》のVOCALOIDKAITOと比較しようとする者がいたとすれば、両者がどう見ても同じ負傷状態だということは一目瞭然であったはずだが、KAITOも前後不覚に陥っており、そのKAITOを傍らで見ていた初音ミクが細かい部分など覚えているわけがないので、その事実が明るみに出ることは無いかと思われた。



(了)