アキバの赤い人

 鏡音リン・レンは、静岡の二人のVOCALOIDスタッフが《秋葉原(アキバ・シティ)》にやってきて二日目の朝、物理空間の方の芸能事務室で合流した。若い同期の二人のスタッフ、《浜松(ハママツ)》のウィザードと《磐田(イワタ)》のエンジニアは、どちらも電脳空間(サイバースペース)では頻繁に出会うのだが、物理空間の方の《秋葉原》で揃ってVOCALOIDらと会うのはそう多くはなかった。
「この街、とてもじゃないけど回りきれないなあ」朝っぱらから疲れたように、エンジニアが言った。「ソフト屋もハード屋も、見て回るところが多すぎるよ」
「計画的に歩けば、別にそんなことはない」ウィザードが冷静に言った。
「昨日歩き回った疲れが、それこそ一晩じゃとれないよ」エンジニアは首を回した。
「……そんなこと言ってぇ……」椅子のうしろから、エンジニアの肩に、白いほっそりした腕が回った。「昨晩、あんなに激しくしたくせにぃ……」
 リンとレンとウィザードと、数拍おくれてエンジニアの、その場の皆の視線が突如現れたその声の主に集中した。
 それは、一言で言えば『赤ミク』だった。上から下まで、面立ちから体型まですべてが『初音ミク』そのものだった。しかし、テールがない短髪で、髪も瞳も赤い。服装はといえば、エンジニアの予備のワイシャツ以外、下着すらも着ていないように見える。──そして、声はMEIKOだった。
「……姉さん」リンが、かなりの間を置いた後に言った。戸惑ってはいても、それがMEIKOであること──ここ《秋葉原》には今は物理ボディでは来ていないMEIKOのAIが、電脳空間からこの赤ミクのボディを遠隔で操っていること──に対しては、疑いは挟んでいないようだった。「なんなの、ソレ」
「何って、見ればわかる通り、”なんちゃってMEIKO”なミクボディの類似品。《秋葉原》でもよくそのへん歩いてるさ」
 ……普段は電脳空間に存在するAIであるVOCALOIDたちは、物理空間での仕事などに用いる、自分達用の物理ボディ(現に、今のリンとレンの体のような)も幾つか持っている。しかしその他にも、最近は、街ではVOCALOIDのような人気の電脳”あいどる”を、部分的にまたはすっかり真似た義体やロボットも見かける。それらは決して安価なものではないはずなのだが、《札幌(サッポロ)》ですら見るのだから、電脳技術の集積する街である《秋葉原》ではおびただしい。
 今MEIKOが操っている赤ミクのボディは、おそらくミクを真似たそんなロボットか何かのひとつで、見たところ、ミクやリンの《札幌》ボディのような、人間と区別できないほどの高級な生体系ボディではなく、もっと廉価なものだった。人間に近い声帯などは持っておらず、声は電子合成音声である。つまり、今この赤ミクが出しているMEIKOの声は、MEIKOのAIのメモリにあるVOCALOIDライブラリを利用して出しているものだった。
「CRV1」この《浜松》のウィザードがVOCALOIDらAIを、チューリング登録番号で呼ぶのは普段からだが、今はことに、ボディを操る”AI”に話しかけているのを強調しているように聞こえる。「そのボディを一体どこから持ってきたのか、ということです」
「んー、中央通りのそのへんを歩いてた自律ロボットの電脳をゴーストハック」
「やばくね!?」レンがうめいた。
「てか、なンまらやばいでしょや!」リンが叫んだ。街に並ぶ個人店舗や個人の手持ちの電脳技術などでは、MEIKOのような高度AIによる侵入があった記録を辿るのはほぼ不可能だが、それで済む問題ではない。「早くもとの所に戻して来なよッ」
「まあ、戻すことは戻すけど──」赤ミクは腰をくねらせて、エンジニアの椅子の背後からその前に出た。レンの目の前を通るとき、真っ白い腰の線がのぞいたところを、赤ミクはすっとワイシャツの裾を引き、レンがごくりと唾を飲み込んだ。
「……それより、小泉さん」赤ミクは鋭い視線をエンジニアに流した。「さっきざっと調べたけど、このロボットボディ、駆動系統が《磐田》の特許の侵害品だわ」
 エンジニアは細い目を一転して真摯に、赤ミクを見上げた。
「《秋葉原》じゅうにこのロボットと同じ品物が結構出回ってると思うけど、どこかに侵害品を作ってる店があるってことよね」
 リンが目を見開いた。「まさか、乗っ取ってきたのも、その裸ワイシャツも、元々それを調べるのが目的だったとか!?」
「いやそこまで驚かなくったって。面白半分で若いカラダをゲットして浮かれて遊んでるとでも思ったわけ」
「ものすごく思った」リンは即答した。「てか、あの登場の仕方で他にどう思えと」
「まあ、戻すにしろ、その一体を買い取ってみるにしろ」エンジニアは言った。「メイコさん、部屋に来てくれ。そのロボットを見るだけ見とこう」
「ひととおり、外観の証拠を撮る程度はできるか?」ウィザードが言った。
「てことは、ホントに奥の部屋に連れ込んで、全身くまなく隅から隅まで……」レンが低い声で言った。
 と、赤ミクは二人のスタッフの前に立ったまま、余ったワイシャツの袖を赤らめた両の頬に当て、『初音ミク』のVOCALOIDライブラリの合成音声に突如切り替えて言った。
「お兄ちゃんなら……いい……よ……」
 全員が押し黙った。
「CRV1」《浜松》のウィザードが無表情に言った。「調べる間は、そのボディからは離れて、制御を止めて電脳空間(サイバースペース)の方に戻っていてください」
「たいくつ〜」赤ミクはMEIKOの声に戻って言った。
 が、そこで赤ミクは、ひとつひとつの挙動(特に、ワイシャツからちらちらと覗く肌など)を食い入るように見つめているレンの方に気づき、
「気になる? でもソノ部分ってそんなにリアルに作りこまれてないわよこのボディ。それほど高級じゃないし、元々そっちの目的専用のロボットとかじゃないから」
 言いながら、赤ミクはレンの真向かいに立ち、その目の前でワイシャツの裾を両手でゆっくりと、そろそろと、凝視してでもいなければわからないほどの速度で持ち上げていった。見開かれたレンの視線は、糸にでも引かれているように、その裾の先にあわせて上昇していったが、
「遊ぶなぁッ」リンが赤ミクに叫んだ。
 ──ウィザードとエンジニアと赤ミクが去った後も、レンはまったく同じ姿勢で同じ一点を見つめたまま、椅子にかけていた。
「何してんの」リンは眉をひそめて、そのレンの前に立った。
「……あのよ、リン」レンは低く呟いた。「あれって……どっちなんだろ」
「姉さんとおねぇちゃんのどっちかってこと!?」リンは早口で咎めるように言った。
 前者なら、つまりMEIKOなら、今までもレンがしじゅう受けている災難より、ほんの少しばかり問題という程度かもしれない。しかし後者なら、つまり初音ミクなら、レンにとっては色々と、非常に重大な問題である。
「姉さんに決まってるでしょ中身が姉さんなんだから! あと、ボディだっておねぇちゃんじゃなくってどこか別の会社が勝手に作った関係ないモノでしょうがッ」
「そうだよな」レンは視線を動かさないまま、静かに言った。
 が、しばらくして、虚ろな目と、リンなどそこにいないかのような独白で、
「でも、でもさ、見え……見えそ……だったのって、どっちのだったんだろ……!?」
 リンの掌底が猛烈な唸りを上げてレンのボディのチタニウム頭蓋骨にめりこんだ。なお、リンのこの物理ボディの義体腕力は体力Aのレプリカントに準じ、鉄の自動扉を素手でこじ開ける力がある。
 ──椅子ごとひっくり返ったレンを放ったまま、リンは部屋から出た。若い技師二人が赤ミクのボディを調べ終わるまで時間がかかる。
 リンは眉をひそめたまま、その場に立ち止まった。──レンの発した疑問が頭をよぎった。基本的に義体は、それを操っている者以外の、誰でもあり得ないはずだ。しかし、レンにとって重要である『そのカラダが誰のものなのか』は、ミクと無関係でないと言い切れるのか。確かに、ほかの会社が無許諾で作った偽物のボディだが、実のところその点は、”ミク自身ではない”と決定づける差になり得るのか?
 もとい──ネットに流れている、他人の作った映像作品などのミクやリン、VOCALOIDを特徴づける要素であるVOCALOIDライブラリも使用していないものは、たとえファンやユーザー、受け手にとってさえ、どこからどこまでが『ミクやリン』なのだろうか?
 ……リンは振り払うように首を回した。レンの妄想の暴走から出た話など、何をまともに考えているのだ。それ以上に、MEIKOのやることに、逐一流されたり深く考えたりしていては、とても日々ついてゆけるものではない。
 と、ばたりと事務室の出口に向かう扉が開いて、リンは何気なくそちらを見た。
 扉から入ってきたそれは、『赤リン』だった。面立ちから体の隅々までリンだが、リボンはなく、髪はやや短く、髪と瞳は赤い。服も、もしリンの改造ならかなりMEIKOに近いものを着ていたのかもしれなかったが、今は素肌にシャツだった。
「姉さん!?」赤リンが何も喋らないうちから、リンがうめいた。
「いや小野寺さんと小泉さんがさっきの調べてる間、そのへんの通りを見てたら、リンのバージョンも見つけたさ」赤リンは、MEIKOVOCALOIDライブラリの合成音声で言った。
「そんなん見つけてくんなあッ」
「なんでー侵害品を見つけて防ごうってのに」赤リンは言いながら、ずかずかと部屋に踏み込んでリンの背後のドアに向かった。
 リンはぎょっとして、赤リンの前に遮るように回りこんだ。「そのカッコで、レンの前に出ないでよ!」
 赤リンは、細部のボディの造りの質を除けば、外見上はまるでリンにそっくりで、しかもシャツはレンのものらしく、さきの赤ミクのものよりかなり短く、何も着ていないそのシャツの下がほとんど歩くたびに見え隠れする。
「いいでしょーレンに見られたって別に本物のリンのカラダじゃなくて何も関係ない偽物なんだから」赤リンはけだるげなMEIKOの声で言った。
 リンはしばらく停止した。数拍だけめまぐるしく頭脳が混乱した。しかし、解決するより前に叫んでいた。「とにかく、駄目だってばッ」
「えーレンじゃないと退屈なんだけど」
「てか、やっぱり若いカラダに若いオトコの面白半分じゃないのッ」