九頭龍の怒りは毘沙門をも揺るがすと知れ (前)

 《札幌(サッポロ)》の電脳空間エリアの片隅にある家、かれらの住居である大きな洋館に在留するAIプログラム、VOCALOID "CV03" 巡音ルカは、空模様が穏やかに見えないにも関わらず屋外へ、家の裏口に面した草地へと出た。その日は午前から、電脳空間(サイバースペース)の不穏な”気”の流れを感じ取っていた。デビュー直前までBAMA(北米東岸)にいたルカは、いまだ《札幌》周辺のネットワークの地理、もとい風水と天文(情報流・趨勢預言)にはさほど詳しくなかったが、外で空気を詠んでみれば、何か判ることがあるかと思えたのだった。
 が、それを調べ始めるまでもなく、屋外に出たとたん、初音ミクが駆け寄ってきた。
「ルカ! 兄さんが……」ミクはルカを見上げて言ったが、そのあとは言葉に窮したように、「その……大変なの……」
 ルカが無言でミクについてゆくと、家の裏の、微風の涼しい丘の上には、人の大きさほどの巨大な糸玉が転がっていた。
 それは細かい繊維からロープ、手首くらいの太さまで、さまざまな寄り具合や絡まり具合に寄り集まった”糸胞”が、がんじがらめに巻き固まったもののようだった。繭や、蜘蛛の獲物も思い出させるが、そうした自然の産物にしては不均一である。
「これがKAITO兄さんなのですか」ルカは、中にあるものが見えもしなければ、動きもせず声もしない、その人型大の糸玉を見ながら言った。なぜミクにはこれがKAITOだとわかったのか、あるいはミクだからわかるのかもしれない、とも思われたのだが、
「それは……あのね、兄さんがここで寝てたら、……周りをフワフワ飛んでた糸が、だんだん集まってきて」
「何故こうなるまで放っておいたのですか」
「兄さん、寝てたから、自分では気づかなかったんじゃないかしら……」ミクは指を唇の下に当てながら言った。
「いえ、ミクがです」ルカはその”義姉”を見下ろして言った。「なぜ、それを放ったまま見ていたのか、ということなんですが」
「だって、……見てたら、最初はフワフワしてて、ちょっと、気持ちよさそうだったから」ミクは思い出すように、さらに、少しはにかむような様子と共に、「そんな兄さん、見てるだけで……わたし、何か幸せで」
「九頭炉で焼き払います」ルカは無表情に言った。
 ルカの発するアディエマス語の口訣(スクリプト)に従って、その背後のエリアには、水平と垂直に分断線を持つ八つの直方体のオブジェクト・プログラムが組み上がり始めた。環状をなして配置された八卦炉は、指令線(コマンドライン)の光が伝い続けるゆらめく鋼線(コード)を、ルカの耳の電脳インカムに伸ばしつつ、急速に組みあがった。ルカがその八卦炉の中央に手をのばし、その中から引き出すような仕草に従って、異様な形状の刀身を持つ黒い長剣──グラットンソード──が、柄から切っ先に向かって実体化(マテリアライズ)した。ルカが剣を前方に差し伸ばすと、八卦炉は剣を”第九の極”として頂点に配するように垂直に突っ立ち、急速に回転して周囲の霊子網(イーサネット)の気脈を螺旋状に吸い込みつつ、ルカの背後に後光の輝きのように円陣をなした。
「逝ッテルミトゥrrrギストゥアァイル!」ルカは英語発音で、普段の口調からはとても信じられないほとんど怒号のような絶叫を発した。その英語発音は、日本語のVOCALOID音声ライブラリしか持たないミクにとっては、元の意味どころか、発音自体を強制的にまるで別の日本語の意味へと変換(註:いわゆる空耳)されて認識された。「オ取リ寄セェェエエエエエエ!!
 ルカの剣と八卦炉のなす”九頭炉”の駆式(プログラム)は、九条の噴出する劫火のように糸玉(に覆われたKAITOと思われるもの)に襲い掛かりそれを一気に飲み込んだ。炎が繊維を嘗め尽くすかのように、駆式が糸胞の構造を侵食し急速に分解昇華させた。そのまま九条の赤光は収束し、まばゆい白熱の火球と化し、ついで炸裂した。
 炎は生じたときと同様、瞬時にかき消えるように消失した。八卦炉とグラットンソードも、輝くレポートのログをマトリックスの宙空に陽炎のように残してから、順次火の粉となって宙に消えていった。
 炎が炸裂した箇所には、周りの糸胞は跡形も残さず焼き尽くされ、中には一応は跡形くらいは残っているKAITOが、マフラーもコートもボロ雑巾のようになって、うつ伏せにのびていた。
「兄さん……」ミクがその傍らに膝をつき、暖かく微笑みかけた。「無事に出られて、よかった……」
 到底『無事』にも『よかった』ようにも見えない姿のKAITOは、指先がわななくように痙攣する以外には、微動だにしなかった。
 ルカはそのミクとKAITOをよそに、周囲を見回し、焼け残って熱風に煽られ宙を舞っている糸胞の切れ端を見いだし、それに手を伸ばした。糸胞は寄り集まった状態では、周囲のマトリックス光で灰色に見えるようだが、細かい糸の状態ではほとんど透明に見えた。それは似非(グリッチ)システムの細かい繊維を発して、ルカの手に張り付いた。ルカが一言、呪(しゅ)をかけると糸胞は燃え上がり、消失した。
 この大気中にまばらに流れている糸胞状のプログラムが、繊維同士が絡まり、集まることで無作為に成長して、さきの状態になったと考えてよさそうだった。が、並大概のウィルスなら、先のようにKAITOやルカの攻殻(シェル;肉体構成プログラム)に張り付くより前に、AIが無意識に展開するセキュリティ結界に難なく防がれるはずである。この糸胞は、AIに影響を与えられるということは、人間が作ったような、ネットのそのあたりに流れているウィルスの類ではない。少なくともほかのAIが作ったものか、巨大企業(メガコープ)か軍用の電脳プログラム兵器だとしか考えられない。かといって、この無差別性は、KAITOやほかのVOCALOIDらを狙った──どこぞの企業か雇われたカウボーイ(攻性ハッカー)の手による攻撃とも思えない。
 ルカは、やはりアディエマス語の口訣を発しつつ、薄目で掌を上に向け、不穏な風模様の中の大気の流れを辿った。ルカの意識の中にマトリックスの霊脈、電脳空間の情報流の動きが捉えられ、そこに、さきほどのほとんど透明な糸がまばらに浮かび、散り流れているのがルカの目には映った。
「この糸胞の流れてくる先、出所を調べてみます」
 ミクに言い残し、ルカは《札幌(サッポロ)》のマトリックスの格子(グリッド)の道をたどって、電脳空間ネットワークへと歩み出てゆく。



 風に乗っている切れ端の流れを正確に辿ってゆくと、まばらだった糸胞は急速に密度を増した。ルカは小声で霊気を詠みつつ、密度の薄い経路を選択して歩き続いたが、長くは歩き続けられないとは思えた。
 ルカは立ち止まった。さきのKAITOのように黙って絡まれるままにでもなっていない限りは、ルカが糸玉になってしまうことはないだろうが、これ以上進んでよいものかどうか。もとい、果たして進む益はあるのか、あるいは、これから如何にすべきか。
 霊脈を読んでいた易算(情報流予測プログラム)の数式が、周囲の密度の増大にオーバーフローしていたので、ルカは小声のコマンドアレイを発し、CV03のAIシステムの副記憶から別の駆式を呼び出し、式を切り替えた。……途端、莫大な質量の情報奔流が複数、今立っている場所にまもなく交差するのが判った。霞がかったような繊維の雲の向こう側に見える、急速に迫る竜巻のような、糸胞を高密度で含む気流がそれのようだ。ルカは別の駆式を準備しようとしたが、はたして複数のそれをうまく逃れ得るか、どうか。
 そのとき、竜巻の暴風の低い轟音を切り裂いて、異常に倍音成分の多い弦のハウリングのような炸裂音が響き渡り、──目の前の竜巻の大樹の幹のような基部が、横一文字に真っ二つになった。
 ついで、横ざまに衝撃が襲い、ルカはその場から弾き飛ばされた。ルカの居たその場に、分断された竜巻が倒壊し、のたうつように暴走して地表を蹂躙した。
 実際には、ルカは弾き飛ばされたのではなかった。地上を直進してきた騎上の人物に横抱きにさらわれ、抱え上げられていた。
 その人物とルカを乗せた乗騎は、紫色の湾曲した長楕円体のような、驚くほど単純なオブジェクトだった。これも単純な檜の角柱のような脚部を四つ備え、そのいずれもが先端に激しい風雲を巻き起こし、マトリックスのグリッドを疾風のごとく駆け抜けていた。さきほどの複数の莫大な質量のうちひとつは、実はこの一騎だったのだ。
 騎上の人物の、ルカを抱える側とはもう片方の手にある刃が、刀身を駆け巡る輝く多彩の脈動に同調し、先ほどの朗々たる鋭い刃鳴りを上げた。糸胞を伴いまとわりつく大小の竜巻、風の陣が切り払われ、吹き散らされた。ルカが見上げると、それを揮うのは、白と紫の丈の長い装束の、驚くほどに秀麗な細面の若武者だった。
「手荒を許せ。大事ないか」武者は駒を進める先から目を離さないまま言った。
「ご心配なく」ルカは小さく答えた。「──あなたは」
「我は、神威がくぽである」
 ルカは黙って、横顔のままの武者を見上げ、ついで自分をかき抱く腕を見おろした。進む先のみを見つめる武者自身は、互いの胸を押し付けているその腕にこもっている力には気づいていないように見えた。



 巨大な茄子にこれも巨大なマッチ棒の柄を四本刺したように見える、異常に単純な形状の乗騎は、その脚の先端に旋風を起こし、マトリックスの天高くを疾駆した。電脳空間の象徴図像学(アイコニクス)では、異常なまで単純な色彩と形状というものは、むらや隙の見つからない、持つ要素全体の異常なまでの緻密性と統合性を表し、すなわち、その単純さこそがずば抜けて複雑なシステムを暗示している。精霊馬(ファントム・スティード)は、脚部に仙雲(ウィンドウォーク)と同原理の転送システムを備え、元来は特定の暦の巡り(盆節)に応じて、星幽界(アストラル間隙;ここでは衛星回線等の高々度高速マトリックスを指す)と地表とを行き来するための移動ドライバである。
 ルカは地表を見下ろしたが、糸胞を乗せた気流は地上にわだかまったまま、この上空には昇ってこないようだった。マトリックスのここまで上空に至るには、仙雲に乗るか、光遁(註:衛星回線転送システム)を借りなければならず、無論、それ未満の転送処理速度では、この精霊馬に追いつくこと自体できない。
「そなた、あの場に居たのは、何の用向きであったか」がくぽは尋ねた。
「この糸胞の流れと原因を調べるためです、霊脈を詠んで」ルカは答えた。「身内が襲われたので、放っておくわけにもいかず」
「左様か」がくぽは答え、「我はこの地で披露(収録)の儀ある故、上方(カミガタ)より下り来たのだが。まさしく、その演じようという演場(スタジオ)の上に不穏が立ち込めていた為、馳せ向かう中途であった」
 がくぽは精霊馬の上から、進行方向の一点を指差した。上空から見える、地表のちょうど建物のような構造物(コンストラクト)、ルカも何度か収録に訪れたことのある《札幌》のスタジオのひとつの電脳エリアを示す場所が見える。確かにそこに、糸胞を伴う高密度の気流が渦を巻いて覆い尽くし、また幾条もの同様の気流が出入りしているのが見えた。なぜそうなったかはわからないが、当面のこの周辺の糸胞の出所らしい。
 ”VA−G01”神威がくぽは《大阪(オオサカ)》のVOCALOIDであるはずだが、たまたま収録で《札幌》に来て、この事件にぶつかった、ということらしい。スタジオのトラブルならば、管理側のシステムや人間の技師らに任せることもできるのだろうが、収録が控えているならば待ってもいられないのだろう。
「こんな現象はBAMA(北米東岸)でさえ見たことはありませんが」ルカは言った。「この糸胞や、風に乗ってくる現象自体について、何か知っていますか」
「いささかも判らぬな。上方(カミガタ)からも遠州(注:ここでは浜松や磐田)からも、かほどに隔たった、この土地柄に起こる物事については、我は殆ど何も存せぬ」
「私も、《札幌》での活動の日は浅く」ルカは言った。「ここの地理や、特有の気象現象については」
「頼みとすべき心あたりの御方ならば、無きにしも有らずだが」がくぽは、思い出すように言ってはみたが、「いや、すでに打って出ている我らふたりのみで、当面は事を納むることを考えねばなるまい。畢竟、互いを身の頼みとする他にあるまいな」
 ルカはがくぽを見上げた。がくぽからは危機から助け上げた形に見えているかもしれないルカだが、守ることに固執するというわけではないらしい。あの危機の場に自ら居たという事実と、ルカのそれを調べていたという一言で、ルカの能力と自律をすでに認めているのだった。あたかもその日本文化の武士のイメージ自体の戯画化のようなその姿にも関わらず、絵空事の騎士なり紳士ではなく、BAMAのストリート用語の”サムライ”が指す、他者の能力と姿勢を確実に把握し認める眼力と主義を持つ存在と同じもののように見えた。
「演場の手前の、辻(結節点;ノーダルポイント)まで駆くるぞ」がくぽは手綱を引いた。やはりルカを抱く腕の力が強くなり、ルカは思わずがくぽを見上げたが、その表情を見る限り依然がくぽ自身は気づかないようだった。荒々しくはない真摯な剛さの印象のすべてが、他のあらゆる人間や知性は無論のこと、《札幌》やオクハンプトンの男声VOCALOIDらとも、まるで違っていた。その感覚が、その腕を通して、肌、体の芯へとじかに及んでくるかのようで、ルカは言いようのない不思議な感覚を覚えた。
 角柱の檜の脚がひときわ激しい旋風を巻き起こし、精霊馬(ファントム・スティード)は矢のように一直線に電脳空間(サイバースペース)を疾駆し、がくぽとルカの長い髪を背後になびかせ引きつつ、輝く格子(グリッド)を駆け抜けた。




(続)