地ミクdeメガネ haute couture (前)

 初音ミクはいつもの扮装ではない、長く伸びた髪を縛らずにおろしたまま、野暮ったいパーカーと長スカートに眼鏡という、おそろしく地味な姿で、裏の丘に面しているテラスの方に歩いてきた。足どりが若干おぼつかない様子で、一緒に歩いてくるKAITOの片腕に、しっかりとしがみついている。
 さらに、主に足音と思われるが、その動くミクの姿からは挙措ごとに、あえて表現するなら「みく みく」というような、奇妙な音が発せられていた。
 テラスの大きなテーブルに掛けていた鏡音レンは、そのミクがKAITOの手をかりつつも反対側の席に掛け、ついでそのKAITOが去るまでの、一連の姿を眺めていた。
 ミクのいつもとは違う、ひどく地味ながらもその裡から出るような楚とした空気や、伸ばした髪と眼鏡が与えるのかもしれない微妙な大人っぽさ──その一方で、いつもと同じ、いやいつも以上にミクと近い距離にその姿のあるKAITO──それらの光景は、レンにとって、『不条理』というほどのものではないが、どこか何か釈然としないような感情をかすかに呼び起こすものだった。
「ミク、色々と聞きたいことはあるんですが」レンと同様にすでにテーブルに掛けていた巡音ルカが、そのミクに言った。「その服装から何から、問題の整理が難しいので、一番優先度の高そうな質問をすると──まず、その”音”は何なんですか」
 この眼鏡に地味な姿のミクからは、止まっているときでさえも、さきほどの足音と似たような音が──あえて表現するなら「みくみくみくみくみくみく……」というような”音”がかすかに、エンジンのアイドリング音のように聞こえ続けていた。
 その音は、耳に障るというよりは、何か体の芯に響いてくるような、どことなく全身がむずがゆくなるような音で、レンらにとっては背筋を這い登ってくるような何とも形容しがたい奇妙な感覚を及ぼすものだった。同じテーブルのリン、レン、ルカが、そのミクを遠巻きにするような位置に掛けているのは、実はその音、そのノイズを、ほとんど無意識に避けるためだった。
「ええと……」ミクは片指先を頬に当てて口ごもった。ルカにさえも整理して質問するのが困難なことを、ましてミクが整然と答えられるわけがない。
「まずね、その眼鏡が、おねぇちゃんが家では普段着とかでリラックスできるように、視覚とかの感覚を補強するための補助電脳ツールなんだけど」鏡音リンが、そんなミクにかわってルカに事情を説明した。「んで、その眼鏡、元々KAITO兄さんの持ってた奇蓄眼鏡だとかBLグラスだとかいう……」
「ええ、どう見てもオノ=センダイ全感覚VL(ヴァーチャル・ライト)グラスですね」ルカが、ミクの眼鏡を見て言った。
「んで、その眼鏡に組み込まれてるオノ=センダイ社のエンジンと、おねぇちゃんのAIの《浜松(ハママツ)》の第二世代VOCALOIDエンジンが、システムが干渉して、どうしてもノイズが出るんだってさ。……あとは、今でも少しふらついてて兄さんが手助けしてるのは、結局眼鏡でも補強しきれない分だとか、干渉の不都合だとか」
「なるほど」ルカは、リンの説明に頷いてから、しばし言葉を切り、
「もうひとつ、これはエンジン音のノイズ自体と比べると、差し迫って解消、解決したい疑問というわけではありませんが──KAITO兄さんは、なぜミクと一緒に居ても、そのノイズに対して平気でいられるのですか」
 レンは思わず、思い出すようにKAITOの去った方に目を送り、ついで呟いた。
「そういえば……なんでなんだろ?」
 今まで、まったく気づかなかった。レンはあのミクとKAITOの光景に、いつも心騒ぐようなものを感じながらも、──いや、逆に、その点ばかりを憂いていたからこそ──そこから先には一切気づかなかった。確かに、ミクとああやって接触しているにも関わらず、KAITOがこの異様な響きのノイズに平気なのは不自然すぎる。いや、不自然というより不可解、レンにとっては『不条理』といっていい。
「脳味噌フラワーガーデン同士なら平気とかじゃないの」リンが眉をひそめて言った。
 ミクは、少し考えるようにしてから、やや俯いて、どこか嬉しそうに言った。
「きっと、このメガネが、元々兄さんのだからじゃないかしら……」
「ああ、そう」リンが、ミクから沸き出続けるノイズに青い顔をしたまま言った。



「何を調べているんですか」ルカは、居間でモニタスクリーンを展開してネット情報を調べているレンに近づいて言った。
「いや……」レンは、いつになくはっきりしない言を返した。何となく、VLグラスについて調べていたのだが、何の目的があるわけでもない。
 レンは、自分が”年上の男性”KAITOに、何があるというわけでもないのに普段から何かとおくれを取ってしまうことについては──あえて言葉にするならば、色々と細かく納得がいかない、色々と残念、というくらいの曖昧な表現しかできない。
 しかしながら、今回の眼鏡、VLグラスの話までゆくと、もっと理不尽、いや、はっきり言って『不条理』という言葉にさえできる。ミクの眼鏡のために、レンが音のせいでミクに近づけず、KAITOの方は平気で近づける。なぜよりにもよって、後押しされるのはその状況なのだ。
 レンにとって芸能の先輩であり”年上の女性”であるミクだが、設定年齢も、ロールアウト時期も、デビュー時期も、KAITOよりもレンの方がミクにずっと近い。つまり、ミクの近くに立っているのは自分であっても、一向に構わないはずではないのか。いや──それが当然だとか、必ずそうであるべきだ、とまでは、レンは思うわけではないのだが。
 しかも、AIのシステムとしても、上の姉と兄ら、MEIKOKAITOVOCALOIDエンジンが第一世代で、その下の、ミクとリン・レンとルカは第二世代である。つまり、ミクとレンはエンジンの世代、AIの基本構造物が同一で、KAITOは違う。そして今回の眼鏡のような、システムに関係することが絡めば、このエンジンの点は決定的な差になってもおかしくないはずだ。なのに、あの眼鏡の存在も、KAITOとミクの現状ばかりを後押しするのは、レンにとっては『不条理』としか思えない。
 何か、どこかにこの不条理の打開の手がかりが見出せないものか。もちろん、レンに心あたりがあるわけでもないし、ほとんど何にもならないことは自分でもわかりきってはいるのだが、それでもあてもないままに電脳ネットワークを、その問題の眼鏡、VLグラスについての情報の検索を続けている。
「VLグラス、感覚補助電脳ツールのことなら、《浜松》か《磐田(イワタ)》の人達に聞いてみては」ルカがモニタを見て言った。「《磐田》のエンジニア達、小泉さんあたりなら、感覚情報の仲介(インタフェイス)ウェアに関しても詳しいでしょう」



 (続)