無限の業を重ねて生きよ(または世界で一番バカ殿様) (9)



「お腰のものを」森之宮先生が無表情にがくぽに言った。
 がくぽはそびえ立つような悪鬼の姿を前にして、丸腰となることをためらった。しかし、さきの森之宮先生の言葉からは、今のがくぽの力、今の『美振(ミブリ)』をもってしても、何ができるでもないのだ。がくぽはやがて、無言のまま、鞘ぐるみの『美振』を森之宮先生の方に差し出した。
 それを受け取ったとも見えぬままの森之宮先生の伸ばす手に沿って、『美振』は宙に浮かび、ひとりでに鞘から抜けた。工芸品(アーティファクト)プログラムの(処理の)重さは、到底手を触れずに並の手段で動かせるようなものではないにも関わらずだった。
 森之宮先生は、その宙に浮いた『美振』の刀身に手をかざした。撫でるように刃に沿って掌を動かすと、ぎらつく灰色のその刃紋は、そのかざす指に沿って、置き換えられるように色彩を変えていった。『美振』の刀身とその印象は、原色の入り混じった、異様に鮮やかな、とても武器とすら思えないような色にかわってゆくように見えた。刃紋から妖しく立ち上っていた湾れ乱れはそのままに、その刃の表面は、ひっきりなしに多彩に色が入り混じり輝くようになっていた。
「生野菜サラダ……?」レンが小さく呟いたが、悪鬼と『美振』の輝きが発するマトリックスの唸りにまぎれて、誰にも聞こえなかった。
 がくぽはその多彩に輝く『美振』をふたたび握り、眼前にささげ持つように見つめた。そして、悪鬼の姿を前に、刀身を自然に前におろす、翳ノ流で言う処の”無形の位”をとった。無意識にそうしていた。──がくぽの手のその刃、刀身のその紋様は、以前のように、みずからの剣気、裡なる拍子(ビート)が刃を伝って出てゆくものではなく、それと共に、むしろ周囲にあまねく存在する気、拍子がその刃を通じてがくぽに伝わり、あたかもその刀が媒介となって、がくぽと空間が一体化しているかのようだった。
 その『美振』の刃が、そびえ立つ巨大な悪鬼の影に向かって繰り出された。がくぽの構えもなく、振り下ろす動きの起こりも存在しない無形の位から、打つともなく、斬るともなしに、ただ奏で出されたように見えた。なぜならば、従前の剣技の、抜く刹那、初太刀の刹那にすべてが賭けられる技ではなく、打ち下ろすよりも、さらには剣を抜くよりも前から、すでに音の共鳴、周囲との共感は始まっていたからである。ただし、刃が繰り出されたその時に、前奏から導入に入るかのように、気は盛り上がり高まっていた。
 拍子(ビート)の鼓動をなして明滅する鮮やかな彩色が、巨大な悪鬼の霊体と共にがくぽとその周囲の空間を覆うように同調した。輝く空間に一体化し溶け込み、昇華され、悪鬼の姿を構成する無数の霊らは開放されていった。がくぽの周囲、その肩の上にわだかまり渦を巻いて集まっていた重い気も、がくぽ自身および周囲の空間と拍子が一体化するうちに霧散していた。
 あとには、怨霊のまがまがしい気を放つ霊子(エーテル)は抜けて、その輝きの名残だけが残っていた。
「凄い……」レンがうめいた。「なんて……なんていう胡散臭さ……へぶし!!」
 正面を向いたままのリンの裏拳がレンの鼻面にめりこんでいた。
「神午流、”転(まろばし)”の極意」がくぽは輝きながら霧散してゆく霊子の只中に、残心をとったまま呟いた。
 ──自らの芸を斬りつけ叩きつけるように押し付けるのでなく、拍子と音を切り込ませ、伝播させて聞かせるのではなく。己の裡、相手の裡、周囲の空間すべての裡に、拍子と音を共に呼び覚まし、一体となり、共にその芸の楽の音を”楽(らく/がく)”となすものだった。森之宮先生の新たな紋様と、それを刻まれた『美振』を振るうことで、神威がくぽはその楽の道を、今、体現したのだった。
 がくぽは血振いのような所作のあと、なぜか関西太秦(うずまさ)の古い大衆時代劇のように『美振』を激しく回転させてから、納刀した。それから、森之宮先生を振り返った。
「生まれ変わったこの『美振(ミブリ)』、我と共にあり生き方を導くこの刀を、──今日から我は、”楽刀(がくとう)”と名付くことに致そう」
 言いながら、がくぽは森之宮先生に両手を伸ばした。手を握ろうとしたらしいのだが、そのがくぽの背後で、ゴムひもが弾けたようなおかしな音がした。
 怨霊が消滅し、霊体によって緊張していた霊子網(イーサネット)にかかっていた力がなくなり、空間の網が一気に縮んだのである。そして、その反動を受けた格子(グリッド)内の霊子(エーテル)の粒子が炸裂した。巨大な悪鬼の形状を具象化(マテリアライズ)していた、膨大な質量の霊子が大爆発を起こした。
 がくぽの背中に遮られていた森之宮先生を除いて、その手を伸ばした姿勢のままのがくぽ、リン、レンの3者は、爆発に直撃されてその場から吹っ飛んだ。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!」リンとレンの甲高い悲鳴が爆音に紛れ、急速に遠ざかっていった。
「念を消し去るのではなく、転(まろば)し和らげるのですから、余剰の力は……」
 森之宮先生はその悲鳴の方向を振り返り、続けて説明しようとしたが、振り向いた時にはすでに視界には聞く者が誰もいなくなっていたので、そこで中断した。





 リンが目をさますと草原の上だった。起き上がってあたりを見回すと、自分の家の裏庭の丘の上のようだった。
 傍らに、うつぶせにレンとがくぽも倒れている。あの爆発の後、森之宮先生が手当てして神療所からこの家の近くに運んでくれたのだろうか。術(転移用プログラム)の類で全員を転送したか、それともがくぽの最初の時のように、まとめて腕で抱えて運んででも来たのか。
「兄さん! 見て!」家の方からミクの声がした。「リンとレンと坂東玉三郎さんが!」
木村庄之助さんじゃなくてかい……」KAITOの声がした。
 リンが草原に座り込んでじっとしている間に、家の裏口から、MEIKOKAITO、ミクの上の3姉兄が駆け寄ってきた。それまでに、レンとがくぽも息を吹き返していた。
 上の3姉兄は、心配げに歩み寄ってから、草原の上の3者を見回した。
 と、
「ばぶーーーーーーーーーーーーん!!!」MEIKOが噴き出した。リンは咄嗟に気づいて、がくぽとレンと顔を見合わせ、そして絶句した。リンとがくぽの額のど真ん中に、でかでかと墨で『肉』と書かれていたためである。
 しかも、それどころか、レンの額にはよりによって『にく』と書かれていた。
「リン……」ミクが悲しげに呟いた。「そういうことするのって、よくないと思うって言ったのに……今度はみんなに、しかも、自分の額にまで書くなんて」
「だから私が書いたんじゃないんだよッ」
 おそらく、森之宮先生が、霊体の爆発の余波を受けた三者を介抱したときに、先のがくぽの場合と同様に施した神療の術に違いなかった。しかし、上の3姉兄は、草の上の三者を、特にレンの額の『にく』の文字を、まじまじと眺めてから、疑わしげな眼差しでリンを見た。(なお、レンは、森の樹の霊符を剥がしたのがレンであることを森之宮先生はとっくに知っていたのだと、このときに確信した。)
「『森之宮先生』……」
 がくぽだけが、ひとり立ち上がり、思いを馳せるように呟いていた。
「予想とリンの言とにたがわぬ、北の神域の森での、得がたき体験であった。……そして、あの森之宮先生は予想をこえるほどに、すばらしき御方であったことだ」
 がくぽは高らかに宣告するかのごとく言ったが(仮に、それがたとえ額に『肉』などと付けた者の台詞でなかったとしても)おそらく、その場の誰も聞いてはいなかった。



(了)