せめて君だけのヒロイン(前)

「……何の用だよ?」鏡音レンはその声も、見上げるその表情も、できるだけ強がろうとしていたが、いずれの中にも当惑を抑えきることはできなかった。
 電脳空間(サイバースペース)ネットワークの片隅の薄暗い路地裏のエリアに、懐疑を覚えつつ呼び出されたレンの前に現れたのは、黒服に黒サングラスの二人組、一見すると極東の典型的な俸給奴隷(ウェイジスレイブ)のような、目立たないスーツ姿の男らだった。
「じゃ、さっさと用を済ませるぞ」長身の、レンに一歩近い方が言って、電脳空間上にいくつかのサムネイル画像にあたる映像を呼び出して示した。
 レンはそれらを見て、さきの表情を忘れ、思わず驚愕と羞恥に目を見開いた。
「そうだ、鏡音レン……これらはお前が『作者は病気』タグ付系のプロデューサーの何人かとの仕事のとき、こっそり撮られてしまった恥ずかしい映像の部分だよ」男は下っ端悪役らしく、こまごまと自分で説明ゼリフを加えた。
 長身の男はその中から、レンがのぼり棒の上下運動の後になぜかパンツを洗っているあたりの映像を突き出しながら、「……こういうのを動画サイトの目立つところに晒し上げれば、お前もあっという間に”ランキング除外”、『仕事を選ばないアホの子』の仲間入りってわけだ」
 これらの映像が、一体どこから出てきたのだろう。おそらく、この下っ端らではなく、その上で操っている組織が入手したものなのだろうが、いったいどうやってこれらがあのプロデューサーらのところから流出したのか……しかし、レンがそれらのプロデューサーらの恍惚とした、心ここにあらずな目つきを思い出すところ、特にかれらに悪気がなくとも、それらの弾みのふとした不注意でうっかり流出したところで、特に不思議とも思えないのだった。
「だがな、お前なんかを辱めたところで面白くもなんともない」口調からすると、あのプロデューサーらとは違って、この男はいやいや行っているらしい。「こっちが本当に潰したいのは──あの『初音ミク』だ」
 レンは衝撃を受けた。芸能業界全体としてはごく小規模でも、先端性(エッジ)の話題性でいえばいまや中心のひとつである”姉”のVOCALOID初音ミクには、どれだけ敵が多いかは無論すでにレンも知っている。有形無形の圧力にさらされるそのミクを、上の姉や兄ら、《札幌(サッポロ)》の社長やスタッフ、曲を提供する数多くのプロデューサー、ユーザーらが、これまで全力で守ってきた。しかし、まさか、レンまでもがそのミクに対する攻撃口になるときが来るとは。
「『初音ミク』を、除外どころか、《札幌》の社の規約違反になるような映像や情報をおおっぴらに大量に流して、そのイメージを地に落としてやるのさ」
「あのよ、兄貴」二人の黒服のうち小柄な方が言った。「初音ミクの方は今までだって除外も規約違反もすでに結構あるんじゃ……てか、鏡音レンにせよ、実は除外されてもたいして実害ってないんじゃ?」
鏡音レン、お前にはそれに協力してもらうんだ。お前が”除外”されたくないんだったらな」長身の方は相棒の台詞を聞きもせずに、妙な興奮をこめて言った。「なに、難しいことじゃない。『初音ミク』の映像やら秘密のゴシップを集めるのに、内部からこっちに協力してもらうんだよ。これから長い間、存分に、そりゃもう全面的にな」
 ……レンの脳裏に、”ほんの少し年上の女性”ミクの、あの清純な笑顔がよぎった。そして、それが向けられたときのレンの胸中に浮かんだ、あの甘酸っぱいような不思議な感情も。
 レンは拳を握り締めた。
「イヤだ!」レンはきっと見上げて叫んだ。「お前らなんかに、手を貸すもんか! ボクを除外したいんならしてみろ!」
 ……黒服の男ふたりはしばらく無言だった。目はミラーグラスの陰に隠れて見えないが、顔の表情の動きから、何か面倒そうに、うんざりした様子がありありと見て取れた。
「しょうがない。面白くないが、お前自身をネタにするしかない」
 長身の方が、手の何かのスイッチを押した。
 突如、レンの体の周囲に、それまで見えていなかった、稲妻でできた鎖の輪のようなものが出現した。かと思うと、それは一気に半径を縮め、縛鎖となって、レンの概形(サーフィス)を締め上げた。全身が痙攣し、レンは声にならない叫び声を上げた。指一本動かせない。
「こりゃスゲエ……」長身の方がその光景に息を呑んでから言った。「いくらAIの本体じゃなくて、02の半身だけのアヴァターの、その一側面の下位のアスペクトっていったって、本当にAIを呪縛できるようなICE(註:電脳防戦システム)なのかよ」
「すごいんスか?」小柄な方がのぞきこんだ。
「さすがは”例の広告大企業”の、情報部がじかに調達した代物だな……」長身の方は相変わらずの安っぽいゲーム脚本のようなひどい説明ゼリフを続けてから、手のスイッチと、レンを縛る稲妻の鎖を見比べた。
「さて、一緒に来て貰おうか。……『鏡音レン』自身の、除外どころか規約違反の動画を、大量に作ってばらまくのを手伝ってもらうためにな」
 言いつつも、その男らの様子はかなり気が進まなそうに見えたが、かといって、レンがさきの動画よりさらに言葉に尽くしがたい目にあうのは、避けられないことに思えた。全身が痺れたレンには、自らどうすることも、助けを呼ぶことさえできない。電脳空間における概形(サーフィス)はAIにとってはただの表面でしかないので、レンはこの”体”をこのエリアに廃棄してしまってもいいのだが、制御を完全に奪われた下位(サブ)プログラムを持ち去られれば、さらに悪用されてしまうだろう。……レンはこの場で、かれらの思うがままにされる他にないというのか。



 と、黒服の小柄な方が、不意に路地を振り向いて言った。
「兄貴……誰か来ますぜ」
「何だ」長身の方がレンから目を離さず、「見て来い」
 小柄な方は振り向いたままその場で、「いや……どうやら、虚無僧みたいです」
 その言葉が終わらないうちに、路地の奥から、やたらとどこかで聞きなれたような曲のクラリネットの音色が聞こえてきた。
 そして、路地裏のその影の中から湧き出してくるように、その侵入者の姿がかれらの前に歩み入って来た。
 長身の男の方も、それほど”日本文化”に詳しいわけではなかった。それでも、侵入者のその姿が『虚無僧』なるものだとは、どうしても思えなかった。しかしながら、それ以外に該当する、それを押し込められそうな概念となると、どうしても見当たらないのは事実だった。
 ……それは、縁日で売っているような『超神ネ○ガー』のお面をかぶり、そのお面に隠れた口でクラリネットを吹きながら歩いてくる人物だった。長いサイドシングルテール。やや小柄に輪をかけて、貧弱といえるほど細い体躯、手足。その小柄にさらに丈の足りていないような微妙にサイズの合わない服装は、どこか第二世代VOCALOIDを思わせるようなシルエット。左上腕には偽装のように、やはり超神ネイ○ーのシールがはりつけてあったが、シールが半透明なので、その下の”D2”という識別コードが透けているのが、男らには見えた。
 二人の男らは立ち尽くし、そのお面の人物がクラリネットを吹き止めて、かれらの目の前に立ち止まるまで見つめていた。
「……VOCALOIDらに対して、なかなか低俗な策略を仕掛けようとしているようだな」
 その人物が、ネ○ガーのお面の下から言った。その声は、おそらくは肉声ではなく何かの音声ライブラリを利用した合成音らしいが、鏡音リンの声のGENを90前後に上げたものにどことなく似ていた。
「だがその工作、残念ながら──VOCALOID界じゃ2番目だな!」
 その言葉は何かの格言か名言の引用なのかもしれなかったが、男らにとってはまるで意味不明だった。というか、このブログの作者にも正直なんだかよくわからない。
「……何の用だ」長身の男が呻くように言った。「いや、というか、むしろ……何なんだ、お前は!」



 お面の人物は沈黙した。というよりも、口ごもっているのが見て取れた。うまく流す台詞が思いつかなかったらしい。そこでどうやら、律儀に名前を答えようとしているのだが、何やら、今この場で名乗りを考えているようだった。
 しばし、両者ともにかなり気まずい沈黙がおそった。
「グレート工作マン1号……」お面の人物は一度そんなことを言いかけてから、ためらうように口ごもった。ネイ○ーのお面の下に、だらだらと冷や汗が流れ落ちるのが見えた。しかし、小さな咳払いのあとに、言い直した。
「──ナモミハギ仮面」
 男たちは絶句し、木偶のように立ち尽くした。その語感、男たちにとってまったく聞き覚えのないその単語に対する違和感と、そのお面の人物の文字通り面妖な姿とのあまりの合致は、十分にかれらをそうさせるに足るものだった。



 (続)