せめて君だけのヒロイン(後)


「その、ナ……ナミモ……ナハモミ……ナハミモギ仮面が、いったい、何の用だっていうんだ」長身の方の黒服の男が、かなり上ずった声で言った。
「”鏡音レンのファン”がやることは、ただひとつ──」
 ナモミハギ仮面が、そのGENを上げた鏡音リンに似た、艶と深みのある声色で言った。
「かれを応援し、困っていればその力となり、その助けとなること。……私のこの姿が、それ以外の何をしに来たように見える?」
 二人の男らは絶句した。ナモミハギ仮面の、その姿──布地の足りない珍妙な第二世代VOCALOIDのコスプレもどきに、超神ネ○ガーのお面、クラリネット──が、一体何をする姿だというのか、何の姿に見えると言い張るつもりなのか、正直言って聞きたいのはこっちである。
「……こいつを助けるって、この状態でどう助けるってんだ?」
 やがて、気を取り直したように、長身の男はレンを呪縛しているICEの起動スイッチをナモミハギ仮面に見せびらかすようにした。
 が、そのとき、ナモミハギ仮面の、クラリネットを持っていない方の手が下におりたかと思うと──不意に、魔術の印を切るかのように、その指がめまぐるしく動いた。
 そのスカートに組み込まれた、オノ=センダイ全領域汎用ウェアラブルコンピュータの操作卓(コンソール)上を指が駆け巡ったのだが、普通ならばそんなところに操作卓があると予期もしなければ、何が起こったのかすらも見当がつくものではなかった。
 突如、はじけるような音を立てて、レンを縛っていた鎖が急に半径を増した。その鎖の輪はゆるんだまま、緩慢にレンの周囲から宙に浮き上がったかと思うと──音もなく虚空に消えた。
 男らはその光景を呆然と見詰めた。当初は目にしていてさえ、一体何が起こったかもわからなかった。
 それから、長身の男が突然気づいたように自分の手のスイッチを見下ろし、慌てて繰り返し押し続けた。が、もう何も起こらなかった。
 男らは電脳戦では素人である。いくら強力なICEのソフトウェアを上から渡されていても、与えられたソフトウェアのスイッチを押して起動しただけだ。それでも、もし仮に、操作卓(コンソール)カウボーイ、すなわち国際級の電脳戦能力者などにかかれば、素人の起動していただけのプログラムの権限など、簡単に奪取されてしまうということくらいは薄々ながらわかる。今、現に目の前でそうしたのが──このネイ○ーのお面の人物が──少なくともキーボード能力にかけては、それに匹敵する腕の持ち主だということも。
 縛鎖から開放されたレンが、うずくまったまま男らを見上げた。二人の黒服の男らは、いちどきにあとじさった。今、かれらが対峙しているふたりは、非電脳戦用とはいえ超処理能力を持つCV02というチューリング認定AIの開放されたアヴァターと、そして、一体何者かはともかくも、カウボーイ級の能力の者なのだ。



 男らが逃げ去ったあと、うずくまるレンに、ナモミハギ仮面が歩み寄った。
「立てるかい」
 さしのべられた手を握ったとき、その感触、そのあずけるときの儚い力のかかり方に、レンは何か、どこかで覚えがあると思った。だが、思い出せなかった。
「あの……」レンは見上げながら、「……ありがとう」
 呟くように、ようやくそれだけを言った。
 ナモミハギ仮面は、少しの沈黙のあと、
「たくさんのファンが、君から喜びを貰っている。……そのファンが、いつでも君の力になりたいと思っている。君からの礼を必要とすることなく。君からこれからも貰える喜びだけを、その礼と感じて」お面の下の、ライブラリ利用の合成音声が、かすかに震えたように思えた。「じかに声をかけることはできなくても……その名もないファンが」
 ナモミハギ仮面は身を翻した。
「その、ファンのうち誰かが──いつでも君を見守り、どこでも君を助けることだろう」
 サイドシングルテールが風にたなびいた。その風に乗るように、ふたたびクラリネットの音が流れていった。その音色を路地裏に残して、後姿(見ると、布地が足りないかのように不自然に背中が2箇所あいていた)は、街路の彼方へと消えた。




 フランスパン
 ドリルコロネ
 SWEET餡パン
 JAMバンドサンド
 風林コッペパン
 タピオカパン


 重音テトはリストの項目にひとつずつチェックを入れると、それぞれのパンの数を確認しながら、今朝の仕込みに入ろうとした。ちょうどそのとき、パン工房にふらふらと亞北ネルが入ってきた。
「おはよ〜……」その挨拶の言葉自体に反して、ネルの声色と様子は、明らかに昨晩まったく眠っていないようだった。
 テトは別に驚きも、とがめもせず、何故なのか尋ねもしなかった。ネルは無数のバイトを掛け持ちしているので、珍しいことでもないし、頼りにもしていない。
「悪い、少し休ませて」ネルはふらふらと工房の隅のベンチに向かった。
「予想はしたけど来ていきなりかい」テトはそちらを振り返りながら言った。「パン屋のバイトで朝に役に立たないでどうするんだよ」
 そのテトの言に反応する気力もないように、ネルはベンチに寝転んだ。
「しょうがないなあ亞北くんは」テトはその背中に言った。「店長に説明するのは僕なんだぞ」
 ネルはベンチに横たわりながら、それでもほとんど無意識の仕草らしく携帯端末を取り出し、何かをチェックしているようだった。テトはそれを見てあっさりと諦めたように背を向け、作業に戻ろうとした。
「はひゅわいっ!?」
 そこで突如、今までの眠そうな様子にそぐわない叫び声をネルが上げたので、さすがにテトも眉をひそめた。
「なんだよ、おどかすない」テトは再び振り返って言った。
 起き上がったネルは、きまり悪そうに、携帯の画面、動画サイトのとあるタグの新着情報が表示されているのを見つめ続けていた。しばらくして、うめくように呟いた。
「あいつらの、最初に持ってた分のデータ没収すんの忘れてた……」



「ちょっと、レン! ランキング激しく除外されてるよ!」リンが動画サイトの新着情報を見てから、レンを振り返って叫んだ。
 あの黒服の男らか、あるいはその背後の上部組織は、一応、手元にある分だけのレンの恥ずかしい映像はネットに流してしまったらしい。もちろん、ミクの場合と同様、それくらいでVOCALOIDの多様な人物像(キャラクタ)が実害を受けることはない。多少はおかしなイメージが追加されたり、それをレン本人が気に病むかどうかだけである。
 しかし、当のレンは、そのリンの声にも上の空だった。
「ナモミハギ仮面……」レンはひとり窓際で、弾くでもなくショルダーキーボードを抱えたまま、静かに呟いた。「誰なんだろう……何者なんだろう……」
 レンは、じっと自分の手のひらを見つめた。あのどこか懐かしい、寄りかかるときの頼もしさを思い出していた。
「ボクのファンだって言ってた……」レンは呟いた。「ファンの皆が喜ぶように。そうなるように、ボクが頑張れば。これからも頑張っていれば」
 いつでも、見守り続けてくれる。
 レンはふたたび目を上げ、無意識に何かを思い出すように、窓の外を、雲の切れ目から漏れる光を見つめた。
「……きっと、また会えるよね」



※なんぞこれ