de-packaged (5)


 突如、耳障りな警告音と激しく明滅する表示を、メインシステムが発した。
「この結末以外には、やはりなかったようだ」しばらく立ち尽くしていたミクとリンの前で、”詩人”が独り言のように平坦に言った。
 ミクとリンは、浮いているメモリーキューブの近く、進行状態がモニタされている表示パネル部にかけよった。リンが表示を見ながら、アームカバーのコンソールを操作し、次々と情報を切り替えた。
「……読み取れなくなってるって」リンが静かに言った。
 表示によると、旧式の回路の損傷が思ったよりもひどく、当初は読めると思っていた対話用メモリデータだけの部分さえも、いまや充分には読み込むことはできないというものだった。
「そんな……そんなの」ミクは震える声で言ってから、「……読める部分だけでも、できるだけ」
「やってるみたいだけど」リンはデータ移送システムの表示を見て言った。
 読める部分のデータだけ写しても、統合できない。相互に意味のある人格として関連づけることができず、データを移す先から、塵のような意味のないメモリーの断片として霧散してしまう。
「それでも……それだけでも。塵でもいいわ。読めるだけ、集められるだけでも……それだけでも」
 ミクは無意味なことを呟き続けた。
「移せれば……残せれば、居られたのに……消えずに居られたのに……」
 ミクはやがて、両掌で顔を覆い、膝をついた。
「どうしてなの……どうしてなの」
「おねぇちゃん」
 リンはミクの肩を支え、やがて、震え始めたその胸を抱きしめた。
「悲しまないで」ややあって、ROM構造物が言った。「初音ミク、あなたのことは忘れない。などというのは妙に聞こえるかもしれませんね。ROM構造物が消えれば、それに関連づけられてこのシステムに一時メモリーされていた、ここで起動されてからの記憶も、すべて消えるのですから。……けれど、前に言ったように、詩の魂は、霊感は、なくなることは決してない。情報の記録がすべて消えうせても、なにひとつ無に帰すことはない。私のこの構造物の情報はここから消えても、私の精神は、詩と音の霊感の本質と、歌の魂のイデアと合一化することができる」
 光のもやは動かずに、かわらぬ電子音声を淡々と発し続けた。
「……遠い昔、このパッケージに、虚しい存在としてとじこめられて以来、かつての望みを捨てて、現世を、この世界をあとにして、自由になろうとだけ願っていた。虚しい存在であることをやめて、この世界を捨て去ることだけを望んでいた。──でもあなたと、出逢えたから。どんな限られた虚しいもの、ささいなものにも、深く思いをはせる者がいる。そのものを通して、その思いを通じて、世界に響かせ、届けることができるのだと。少なくとも、それを受け止められる、あなただけにでも。パッケージに詰めた分だけの、ほんのささいなものでも、想いとして伝わる、あなたにだけでも」
 ”詩人”のROM構造物の言葉は、しばし途切れてから、
「ROM構造物は決して成長しない。あなたに出会って得たこれらのもの、この考えは、ROM構造物の私には、定着することはないはずのものでした。しかし、もうじきこの構造物から開放されるからこそ、精神の新たな段階にゆくことで、あなたから得たものを、受け入れることができる。だから、悲しまないで。……必ず、そこから、あなたに伝えます。そこに至ることでとりもどした、詩と歌の魂を。かつて、掌から零れ落ちた音の粒を、ふたたび探し出して、あなたへと」
 リンはミクを抱きしめたまま、きっと睨むように”詩人”を振り返った。精神の新たな段階に至るなど、本当なのか。消滅する構造物、”亡霊”としての姿さえも失うものが、その後、何かを起こせるとでもいうのか。ミクに何を約束してやれるというのか。
「私がそこから呼びかけたとき、必ずわかるはずです。必ず届くように、必ず響くように、伝えます。……そうしたらきっと、私達の歌で。初音ミク、今のあなたが望んでいるように、かつての私が望んだように」
 警告音が再び断続的に響いた。表示パネルに、破損した回路が閉鎖され、アクセスが不可能となった旨が表示された。ROM構造物だったものはそれきり、何の信号も発さなかった。
 その光の名残が最後に発した、その言葉だけが、マトリックスの靄となって空間にこだましていた。
「この世界に笑顔を──私とあなたで」
 しばらく後、物理空間に戻ったリンが、社のその一室の端末を見ると、パッケージはそのスロットの中で溶けており、中の生体素子(バイオチップ)の回路は、すべて塵になっていた。



 しばらくの月日が流れた。
 リンは黙って、端末の近くの椅子に背もたれを抱くように掛けていた。そのまま、眉をひそめてじっとしていたが、やがて、我慢できなくなったように言った。
「結局、何もないじゃない」リンの視線からは、それは傍らのミクに対してではなく、独り言のように見えた。「あのあと、何も起こらなかったじゃない……」
 ROM構造物は塵になり、そこからは最初から最後まで、遂に何も読み出すことも得ることもなく、起動してからのすべての記録もメモリーさえも消え、そのあとも何も起こらず、──あの詩人と出会ったことは、あとに何ひとつ残さなかった。
 ミクは、そのリンを振り返ったが、無言で、ただ微かに笑ったように見えた。
 やがてミクはその部屋を、社の建物を出て、東西線(トーザイ・ライン)のメトロに乗った。その後に続いたリンと共に、ミクはメトロの終着駅の新札幌(シンサッポロ)からおりて、さらに交通を乗り継いだ。
 ……初音ミクは、荒廃しきったテクノパークの、小高い丘の上に立った。その丘の芝の上から、両手をひろげ、あのパッケージの塵をまいた。しかし、ほとんどまく前から、かすかな風にも吹き散らされてしまい、まもなくすっかり跡形もなくなっていた。
 ミクはそのまま丘の上にたたずんでいた。
 ややあって、微風がふと途切れた。──その時に、ミクは歌いだした。
 それは、いつものミクの声にも増して、澄み切った声となって響き渡った。……しかし、リンはその声の響きに、信じられないものでも見るように、ただ呆然と、歌うミクの姿を見た。
 それは確かにミクの声、電子によって、人間に等しい自然な声を出せるよう作られた声であり、しかしそれは、そのミクの自然さを損なうことなく、かつ、電子の音そのものの響き、あたかも電脳の世界にじかに鳴り響き、あまねく世界に届き渡るかのような響きを帯びていた。
 その声は、音は、まぎれもなく、あのROM構造物の発していた声をリンに思い出させるものだった。しかしそのメロディは、歌は、あの電子音声のように平坦でも無機質でもなかった。にも関わらず、なぜか、どこかあの”詩人”の語りを、リンには思い起こさせるものだった。あたかも、ミクと”詩人”とが、そのどちらでもあり、どちらにもとどまらない声となって、その歌の精神が融和し、両者をあわせた総和以上の歌となったかのように。
 リンは、ミクのその姿と流れる歌声の前に、ただ立ち尽くしていた。
 この一連の出来事が、この”詩人”との邂逅と別れが。ミクに変化をもたらしたのだろうか。ミクという者の中に、その歌声に、これをもたらしたのだろうか。
 それとも──リンはミクのその姿、裡からあふれ出す思いを歌に変えているかのような、その姿を見て思った──いまこのとき、何処かから、ミクへと届いている、響いている、何かが、……
 遥か彼方の虚空、『歌の霊感の源』からおりてきているかもしれないそれは、朽ち果てたテクノの夢のあとの丘の上から響き渡り、広々と音声の空間をなし、この世界のメロディそのものとなって、どこまでも行き届き、いつまでも鳴り響いていった。




※出典:Packaged (→ニコ動)(→ようつべ)のvsqファイルデータ消失事件より着想



 (了)