パワーシンガーは急に止まれない(5)


 それから幾日か、少年は音楽を聞くうちに、次第に反応を返すようになってゆき、やがて少年は亞北ネルが問えば、まだ感情の抑揚を伴わない声で、自分のことをぽつぽつと答えるようになった。しかし、どのみち大したことはわからなかった。なぜあんな所に入っていたのか、あるいはそれ以前のことも。少年が覚えていることはほとんどなく、出たときにはじめて目がさめたか、あるいは生まれたか、というようなものらしかった。ただ、ネルにはよくわからない話として、その眠っている間かすかに、音の響いていたような記憶もあるという。透明感のある繊細な大人の女性の歌声と、しっとりとした声色のやはりこれも大人の女性の歌声が。
 ……そうした会話を続けていたあるとき、少年が不意に、何か窓の外に気づき、廃ビルの外へと駆け出した。
「急に出ないで」ネルは心配になり、そのあとを追った。「危ないかもよ」
 無闇に離れると、はぐれ自律ソフトウェアやロボットプログラムをかすめとるいわゆる電脳牛泥棒や、凶暴AIを追うブレードランナーに目をつけられかねない。それが少年にとって今のネルに保護された状況より悪化するとは決まってはいないが、それらの輩の気質が穏やかとは限らない以上、そういう形では関わらないに越したことはない。
 ……廃ビルの外は、豪雨が去り、雲間から日光が降り注ぎ始めたところだった。光の中に駆け出す少年の軽い足取りを、ネルは背後から見て、今はろくに表情が目覚めてもいないが、本来は元気でやんちゃな少年なのではないだろうか、という気がした。
 空にはまだ厚い雲がかかってはいたが、その切れ目から青空と陽光が覗き、そして、輝く無数の光条が、聳える白い雲の壁の切れ目を、燦然と輝かせていた。──空を見上げる少年の頬に、朱がさした。少年のざんばらの短い明色の髪と碧眼が、降り注ぐ光条にまばゆく煌いた。
 少年は背後のネルの方を振り返り、その嬉しさを示すように笑みかけた。晴れ上がって露になった世界のすべての美しさを目のあたりにし、その美しさを、ネルに訴えかけようとでもするかのように。
 ……ネルはすでに、世界の美しさを充分に知っていた。その美しさは、ただ恵まれた者のために存在するもので、そうでない者にとっては、この世界はどこまで行っても灰色であることも。世界の中に確実にある美しさのすべては、しかし皆のために等しく存在しているわけでも、皆に与えられているものでもないのだ。
 仮に他の誰かに対してであれば、どんなに親しかろうが、ネルは乱暴にそれを言い捨てていたに違いない。だが、ネルがいつも身にまとう、とげとげしさや減らず口も、不思議と、この少年の前では出てこなかった。それは、何の声をかけてよいかわからない状態から、次第に少年に情感が身につき、話す状態に自然に移っていった経緯のためもあったろう。が、実際のところは、人に必要とされ、手を差し伸べるという感覚を、ネルは長らく忘れていたためだった。故郷の家族ら(重なりはしないが、故郷を出る頃には本当に小さかった弟も)のもとを離れてから、忘れていた感覚。
 この少年はたった一人、しかも人間性がわずかに生じ始めたばかりだというのに、”家族”の匂いがする──どこか”家族を求めている者”の匂いがするのは、一体なぜなのだろう。それはどこか、ネルの胸をしめつける感覚だった。



 しかし、その後しばらくすると、少年は再びぐったりとして弱り始め、そればかりか、
体温が低くなり、息が荒くなっていた。……目覚めてから、動けるようになってから急に、無理をしすぎたということだろうか。
「音を」少年は言葉少なく、しかし最初のようなまったくの無表情ではなく、力なくネルにすがるような目で言った。「音楽をちょうだい」
「この音じゃだめなの」ネルは携帯プレイヤーをかき集めるようにし、スピーカーを少年に差し出しながら言った。
「弾いてる人とか、歌ってる人の……すぐ近くに」少年は荒い息の中から懇願した。
 ──不意に、ネルの中でかちりと音がして、いくつもの要素が繋がった。
 少年が当初、音楽だけに反応し、音楽から活力を得たこと。目覚める前に、女性の歌声を聴いていた記憶があると言ったこと。そして上腕に、無闇なロボットプログラムが持つわけがない、チューリング識別コードの記されるべき表示部。
「まさか」ネルは独り言のように呟いた。「VOCALOID……本物の」
 無論、本物の《浜松(ハママツ)》ベースフォーマットのVOCALOIDの、AIのメインシステムや、おそらく下位(サブ)プログラム、アヴァターやアスペクトですらないだろうが、それら下位のものを不正規複製、模造したものか。
 ともかくも、ネルはその商売敵らについては、仕事柄非常によく知っていた。AIを構築する際、ベースフォーマットのあと、音声専用のAIとしての基本構造は、音声を与えながら、音の力の方向性を与え、増大させていくのだ。眠っていた頃の少年に遠くから聴こえていた”歌声”というのは、誰の声かはわからないが、それだったのだ。
 しかし、この少年のAIの基本構造が、いわば未完成ということは明らかだった。おそらく、本来はその後も完成まで成長の糧を、音を与える必要がある。AI成長の方向性が決められ、音の力が膨らみつつある途上に、与えられていた音声が途切れれば、基本構造は崩壊に至る。
 少年が少しの間活動するだけならば、携帯から流れる録音でもよかったのだろうが、成長途上のAIの糧として与えられるものには、少年の言う、演者の近くでの音楽、生演奏が要る。人間なり、あるいは逐次的(シーケンシャル)な実時間(リアルタイム)情緒生成システムであるAIなりが出力する、肉声の歌や生演奏や即興が必要なのだ。
 少年はそれを欲しがっている。おそらく可能ならば、かつて与えられていたと同じ、女声の歌声を。
 ネルは唇を噛んだ。……亞北ネルは”自分の歌声”だけは持たなかった。”歌う”ことだけは、できなかったのだ。



 ネルの電脳のメモリーには、工作員としての稼業を開始した際に、電脳工作のための大量のノウハウや処理プログラム、データを入力していたが、その記憶領域を確保するために、ほかならぬネル自身の”歌唱”のためのボーカルライブラリを圧縮し、雇い主によってデータロックをかけられ、封印されていた。そのため亞北ネルは、他の会話音声の面ではまったく問題なく、またせいぜいハミング程度ならばできたが、自分の歌声で”歌唱”だけはできなかった。(実は、ネルの工作稼業で歌曲などが必要な際は、他ならぬ、初音ミクの下位(サブ)プログラムのユーザー用の提供ライブラリやシステムをこっそり利用しており、それらのネルのイメージソングは、ミクの音声データで出力されていた。)
 ……喘ぐ少年を前に、ネルは立ち尽くした。
 自分が、工作員でもアンチヒロインでもなく、本物のヒロインだったなら。人に音と喜びを与える、アーティストだったなら。
 (なお、なぜVOCALOIDと敵対する工作員である自分のもとに、よりによってVOCALOIDらしきものが舞い込む、舞い込んだとしてもなぜそんな者を助けなくてはならない、その問題は、このときはネルの頭にのぼることはなかった。が、それが単にネルの生来の迂闊のせいか、それとも何か別の理由なのかは、読者に判断を任せ、今はこの過去に遡った記録を追うことにする。)
 やがて、ネルは無言で、少年に両腕を伸ばした。
 助けてあげる、などと言うことさえ、こんな自分にはできない。約束できるわけがない。自分の力で助けられるか否かなど、まったく覚束ないのだから。それでもネルは、力なく横たわっている少年を、くるまった毛布ごと、背に負った。
 ──音楽を、生演奏を、聞ける場所に、連れてゆくしかない。
 少年の重みが、ネルの背にのしかかった。まだ小柄な少年だが、発育不良のネルよりもひと周りは大きく、つねに空腹で体力の欠けているネルには、あまりにも重かった。その重さ、その命は、最初から自分などの手におえるものではない、自分には無謀なほど重すぎるものだということを、すでに示しているように。
 しかし、ネルは雨後の泥道に、重々しく引きずった足跡を残しながら、少年を背負ってよろめくように、道を進んでいった。



(続)