パワーシンガーは急に止まれない(4)

 滝のように降り続く豪雨が、崩れかけた廃ビルを、その風化を加速しようとでもいうように、容赦なく叩きつけていた。
 水滴の流れ落ちる天井だけでなく、割れたガラス窓から雨水がわずかに降り込む一室で、亞北ネルは非常用蛍光灯の明かりを頼りに、かしいだ事務机の上で、インクのかすれかけたボールペンを走らせていた。……ネルの住居は、この当時は定まった一箇所ではなく、ひどい風雨が続いているこのところ数日のあいだ、寝場所として頑丈な建物にありつけていることを、まだ幸いなことなどと思わなくてはならないのだった。
 ネルはペンを動かし続けていたが、頻繁に手を止めるばかりか、しばしば、落ちつかなげに目を上げて中断する、というのを繰り返していた。
 記入しているもの、事務机の上に山と積まれているのは、すべて漫画雑誌『コミックЯUSH』の、記入前のアンケートハガキだった。本誌をよそに、アンケートハガキだけを一体どこからこんなに持ってきたのか、それはおそらくネルの謎の雇い主しかわからない。それに何をするのかといえば、いつも通り、しがない工作員である亞北ネルが雇い主から命じられた、初音ミクVOCALOIDらの悪評を流す工作である。すなわち、このアンケートハガキの全部に、「良くなかった記事」の箇所に連載漫画の『メーカー非公開 初音みっすく』を書く(ついでにネルの独断で「良かった記事」の箇所に『超神ネ○ガー』を書く)という単純作業だった。まったく集中できないのは、無論その作業のあまりの単調さのためもあれば、あるいは、滴る雨漏りや風雨の音のためもあった。
 だが、中断の最も主な原因は──奥の壁際に、古毛布にくるまって、あたかもくずおれた直後であるかのようにうずくまっている、少年のためだった。無表情で、目はまさに何も映しておらず、しばしば毛布に落ちる水滴にも、一切反応していないのがわかる。何が起こるでも、何ができるでもないのだが、ネルはどうにも気になって仕方なかった。



 あの時、道端の草原で出会ったこの少年は、生米と一緒に出現したが、出現時にそれを吹き飛ばして以後は、数日経つ今まで、何も摂取しなかった。表情もなく、無論何もしゃべらず、外界の何にも反応しない。あれ以後ぐったりとして、横になっているか、うずくまるだけだ。ネルはそんな少年を、何となくそのまま放っておきたくない(もちろん、性的な意味ではなく)気がして、連れ帰り、なんとか調達した服(どう選べばよいのかわからず、闇雲に自分と同じ黄系やらだった)やら毛布やらも持ってきて介抱したが、その後どうしていいものかは、さっぱりわからなかった。
 確かなことは、この少年の姿をしたものが、どうやら生きているらしい、ということくらいだった。人の姿をしているが、電脳的に言って”人格構造物”なのか、そうですらないのか。実のところ、何か別の生き物ではないかという気もしてくる。
 手がかりといえるのだろうか、当初露出していた少年の左の上腕には表示部があり、明らかに、チューリング識別コード(註:「CV01」など)と、AI認識記号(註:CVシリーズの場合、人間の姓名に似たローマ字表記配列の部分)が表記される部分で、まさかこの少年はチューリング登録されるほどの高度AIというわけではないだろうが、少なくとも、それに類似する構造を持つものなのかもしれない。しかし、どのみち現在、表示部には何も表記されておらず、空白のディスプレイのような痣になっているだけだった。まだチューリング登録機構にAIとして認定されていないのか、それともAIに似ているだけでまったくの別物なのかは定かではなかった。
 今も床に投げ出されたままの、かぼそい手足の線は、しかし、まぎれもない思春期の少年のもので、しかも、ネルのような半端な栄養で成長の阻害された体とは異なる、あたかも彫刻家の手によって岩の中の神話や精霊の生命力が削り出されたかのような、見事な美しさと男性的官能が潜んでおり、ネルはしばしば、あからさまに視線を外さなくてはならなかった。
 ……何の手のうちようもないと諦め途方に暮れるそんな中でも、何もできない自分が、ひどく無力に感じられる気がした。ぐったりと横たわるこんな少年に介抱が、手助けが必要ないわけがないのに。いつも、ネルは誰の何の益となることもできず、そして誰にも省みられることはないのだ。



 とはいえネルは、常に食うために働かなくてはならないので、この一切反応しない少年をいつまでも眺めているというわけにもゆかず、アンケートハガキの仕事を続けていた。しかしやはり気が気でなく、ろくに仕事が進まない。
 ……ネルはとうとう諦めて、机の上の携帯電話のひとつの機能で鳴らしていた音楽を切り、雨漏りを避けながら、壁際の少年の方に歩いていった。そのまま見下ろしたが、少年はうつろな目で壁によりかかったきり、ぴくりとも動かない。さっきは息づくくらいには微動していたように見えたが、気のせいか。……ネルはしばらく見下ろしていたが、何が起こるようにも見えない。
 と、ネルの身に着けている多数の携帯のひとつが、けたたましいメール着信音(初音ミクメドレーの高速電子音化の曲だった)を発した。
 そのとき、少年の首がそちらに向くように、わずかに動くのがネルの目に映った。
 まさか、音楽か。音に反応するのか。……ネルはさっき音楽を流していた携帯の音を入れると、床に垂れている少年の両手をとって、膝の上に持たせるように握らせた。少年はされるがままの姿勢で、音の出る携帯をただ持っているだけに見える。しかし、その無表情な目が手の中に注がれているように見えるのは、ただの気のせいか。
 ネルはさらに、立ったまま何気ない動作だけで、スカートに組み込まれたオノ=センダイ製ウェラブルコンピュータで、辺りの電脳空間の格子(グリッド)を探った。たとえAIや電脳内自律ロボットであっても、普通の電脳技術や操作能力を備えているとは限らないが、亞北ネルは電脳空間(サイバースペース)デッキを扱わせれば、そのキーボードさばきは並大抵の操作卓(コンソール)カウボーイ級はある(もっともカウボーイ級の電脳戦能力などはなく、本当に操作だけである)。以前からあらかじめタグをつけていた無数の楽曲データを、いとも簡単に全部を遠隔でダウンロードして、手元にかき集めた。(さきほどの携帯や着信音のものを含め、それらはすべて商売敵であるVOCALOID一族らの曲だったが、ネルがそればかり入れていたのは、リサーチの目的ばかりでもなかった。)それら楽曲ファイルを、ありったけの携帯やオーディオプレイヤーに配分し、連続再生されるようにして、少年の手の中や、近くに配した。
 いまや少年は、両の手に持った携帯にすがりつくように、そこからあふれる音に聞き入っていた。
 ……ネルは思わず微笑したが、その笑みはやがて、寂しさを含んだものにかわった。ネルが何を介抱しようと何にもならず、何を呼びかけようと反応せず、そして結局は少年が応えたのは、やはり他の誰かの呼びかけ──いや、あのVOCALOIDらの歌声だったか。
 と、少年が、音を発している携帯ではなく──ネルの方を見上げた。そのネルの目を見つめる瞳と口が、わずかな笑みを作ったように見えた。
 ネルは目を見開き、呆然と立ち尽くし、その少年の笑みを見下ろした。
 あたりを支配するのは、依然として激しい雨音で、貧弱なスピーカーしかない携帯からの音楽は、せいぜいその合間に混ざる中、ネルは仕事も時間も、その風雨の音さえ忘れ果てたように、いつまでも少年の笑顔を見つめていた。



(続)