モヱヲン (前)

 僕は別にミュージシャンを目指しているわけでもないし、音楽にそんなに時間をとれるほど、仕事が楽なわけでもない。動画サイトに投稿したりすることはもちろん、自分の音を発する、作り出すという意識もなく、そんな時間もない。ただ、音楽の批評なんかできない誰だって聴くのは楽しいのと同じように、作曲や演奏のセンスもそれに傾けるほどの勤勉さがなくても、ただ音を作るのが楽しくたって、不自然ということはないと思う。そんなわけで、できる範囲の時間と費用で、音を作ること、機材を揃えること、それらを配分することや、選ぶことが、仕事に忙しい日常の中での楽しみだった。
 だから、女声ボーカルのパートを加えるための”電子音源”を導入した時も、そういう音の楽しみがひとつ増える、くらいに思っていた。……そうなるはずだったんだけれど。



 その日も、昨夜の仕事が遅くて文字通り倒れこむように眠ったあとだったらしく、目をさましたときは、僕は仕事帰りの服装そのままでベッドに寝転んでいた。
 ……ただし、柔らかい両腕が、首にすがりついていた。穏やかな息を立てる寝顔が視界の端にあって、その寝息は、だいたい僕の首のあたりにじかに触れている。息だけでなく、髪の匂い、躯の芳香、それらの温かさが入り混じった感覚が、鼻腔や吸気をくすぐってくる。寝息のリズムと一緒に、全身に押し付けられている柔らかみが波うっている。
 僕は昨日の疲れのためもあって、しばらくそのまま寝転んでいたような気がする。実は、しばらく何をどうしようか、迷ってもいた。……けれど、このままにしているわけにもいかないから、僕は勢いをつけて、がばと起き上がった。
 ベッドの上の下着姿の彼女は、僕に回していた腕が解けたためか、目をこすりながら緩やかな仕草で起き上がり、僕の横に座るようにした。
「ユーザーさん、おはようございます」かすかに微笑んで言った。
 ──これが、僕がさきに導入した”電子音源”だ。綺麗な女性の歌声の音源なんだから、綺麗な女性の姿をしているのは、発想としてはそう不思議じゃないんだろうけど──音源の姿については、他にも色々と疑問があるけど、話が進まないので置いておく。
 そんなことより、もっとずっと大きな問題がある。そっちは、今までは気のせいだと思っていた、というより、無理に思うようにしていたけど、さすがにもう限界だ。
 ……僕はそのあともしばらくの間、多分ぐったりと虚脱していたと思う。仕事の疲労が、ほかの疲れるような原因のためもあって、抜けないような気分だった。
 ”音源”は、さっきから僕のシャツのうち丈の長い一枚を羽織って歩き回っていて、やがて淹れたコーヒーのカップを持ってやってきた。
 僕はしばらく話す気力さえ起きなかったけれど、やがて、なんとか気を取り直して、その音源に声をかけた。
「……今みたいなことは、もうやめてくれ」
「『今みたいな』というのは何ですか?」音源は僕の前に立ち止まり、聞き返した。
 確かに、どこからどこまでなのやら。今しがたのこと、あるいは昨晩のことになるのか、だけど、僕が言いたいのは、もちろんもっと前からのこともだ。
「つまり、その……音楽に関係ないこと、全部だよ」
「コーヒーを淹れてはいけませんか……」音源はカップを両手に持って立ったまま、真摯な目で聞き返してきた。
 僕はこの流れにすごく後悔したけど、もうあとにはひけないじゃないか。僕は『今みたいなこと』のそれらの内容を、ひとつひとつ具体的に挙げることになった。
「……わざとすっかり隠れない場所で着替え始めたり、わざとこっちがドアを開ける時にあたるように着替え始めたり、着てるものをその場で全部脱いで洗濯しはじめたり、風呂場に入り込んできたり、全部隠れないバスタオルだけ巻いて歩き回ったり、わざと目の前でそのタオルを落としたり、シャツ以外何も着ないで歩き回ったり、さっきみたいに夜中にベッドに入って来たり、朝方にベッドに入って来たりだよ」
 ためらわないで済むように一気に言いながら思う。”電子音源”に向かってこんなことを喋らなくちゃいけない、この今の状況とか、僕とかは、いったい何なんだ。



 この音源は、普段のやりとりや会話では、かなり生真面目ではあるけれど、別に無表情や無感情なわけじゃない。例えば、音を合わせたりする時、自分から気をきかせて機器を動かしたり調整したり、それらの前後に今みたいにコーヒーを淹れてくれたりは、普通の人間とごく自然に会話するみたいに行ってくる。……問題は、上に挙げたような行動も、これらとまるで同じことのように、当たり前のように平然と行ってくることだ。
 そしてこれらの何ごとも、とんでもなく”無造作”なことだ。色気を見せるかけらもない。例えばさっき、僕は昨日の仕事帰りの服を着たままで寝ていた。つまり音源は、夜中だか朝だかに、僕の外出ままの服にも何も手もふれず、整えようともせずに、ただベッドに潜り込んでずっと半裸で抱きついていた、ということだ。ありえないちぐはぐさだ。
 よくその手のご都合主義な漫画だの何だのに出てくる女性型のロボットやらのように、音源ユーザーのことを『マスター』だの、『ご主人様』だの、気色悪い呼び方をしてくるわけでもない。こういうことをそれぞれ考えれば、女性の姿だからといって、特にその手の──なんて表現すればいいのか、愛玩だの、男性の欲望用だの、そういう機能や仕様を、きちんと正式には備えられていない、そういうこと用でないことは明らかだ。
 つまり、これは、あくまで音源のはずだ。売るほうも買う方も、音源としての目的を納得しているはずだ。なら、いくら女性の姿だからって、なんでこんなことをしてくるように出来ているんだ? そりゃあ僕だって、綺麗な女性が嫌いなわけがないけれど、それらの無造作さやちぐはぐさ、その不可解さには、とても喜んでいられる場合じゃない。それに、色々と差し引きをよく考えてみたけれど、僕が持っていたいのは”音源”であって、他の不可解な”面倒ごと”じゃないんだ。ただでさえ、僕には音楽やその機材に、余計な手間や負担をかけているような、余裕はないっていうのに。
「なんで、こんなことをするんだ」
 僕はそれらの抱えた問題を色々まとめてのつもりで、その音源を問い正そうとした。
「『萌え』のためです」音源は真摯な眼差しのまま答えた。「これまで”音源”というものには無かった、新しい設計思想です」



(続)