モヱヲン (後)


 その『萌え』ってものは、一体なんなのか、僕はおぼろげにしか知らなかった。ネットではよく聞く単語だけれど、その定義について見かける説明は、どれもまるで要領を得なかった。ともかく、何となくだけれど、それはかなりわかりにくいもので、少なくともこんなにも”無造作”なもの、この音源の一連の行動みたいなものを指しているんじゃないことだけは、確かな気がするぞ。
 じゃあ、あんな無造作で身も蓋もない内容が『萌え』なんて、一体誰が音源に教えたか、あるいは設定したのか……メーカーの開発者か調整者か何かだろうか。いや、考えたのが誰かなんてことは、たぶん問題じゃない。何か、もっと差し迫っている問題がある。
「萌えだかなんだか知らないけど」僕はつとめて整理しようとしながら言った。「なんで、”電子音源”が、そんな設計思想だかを持ってるんだ。なんのためなんだ……」
「わたしが”歌声”の音源だからです」
 いったい、それに何の関係があるんだ。
「ほとんどの電子楽器は、愛をこめなくとも、鳴ることだけならばできます」音源は続けた。「でも歌声は、歌だけは、『愛』を伴わないと、決して歌うことはできません」
「……なんだそりゃ」
 そんな言葉しか出なかった。あまりにも歌曲、音楽というものに対して、一辺倒、大雑把すぎる、それ以前に俗すぎる捉え方だ。この時点で、どうも音源開発にたずさわった”技術者”の考え方との、ギャップを感じた気がした。
「で、君はその、愛をこめて歌うために、『愛』を持ってる音源ってわけ……」僕は呆れ返って、そう言った。
「わたしはただの音源です。ユーザーさんの入力する歌を、出力するだけです」音源は素っ気無く言った。「わたしは愛を持ちませんし、わたし自身の持つ何も、歌には反映されません。あなたの入力する内容が変わるのでない限り、わたしの歌声は決して変わりません。あくまで、わたしはあなたのかわりに”出力”するだけで、歌は全て、あなた自身のものです」
 それから音源は、僕の目を見つめるように、
「……だから、あなたの自身の歌に『愛』が伴うように。そのためには、あなたが『愛』を持つように」
 そんな言葉を、真摯に僕の方を見たままで言った。
「そのために、あなたが、わたしを愛するように。──歌を良くするため、音を良くするための、それが音源としての仕様です」
 ……僕は15分くらいは絶句していたと思う。
 そこまでかけて、ようやく頭にひとつまとまった感想が浮かんだ。──なんてばかげた仕様、なんてばかげた開発コンセプトなんだ。
「で……その、やることの中身も、開発側から教わったものなの……」僕はようやく言った。「ユーザーに愛を生じさせるためだか何だか、『萌え』だか何だか……」
「その中身は、自分で動画投稿サイトで調べました」
 どういうサイトとか動画だよ、それは。
 でも、音源はそう言ってから、はじめて見るくらいにとても嬉しそうに、目を細めて微笑んだ。
 ……そんな大仰で大上段な設計思想とやらを与えられたのに、そんなことを自分で調べてくることしかできない、そして、あんなどうしようもない、無造作なことしかできないなんて。なのに、そんなことを言う音源は、本当に嬉しそうだった。
「とにかく、そんなこと……さっき言ったようなことは、もうしなくてもいい」僕は無理に話をまとめようとするように言った。
 音源はその言葉に、戸惑いがまざった真剣な眼差しで、僕をじっと見つめた。
「どうすれば、愛を持ってくれますか……」



 良い音だの、本物の歌だの、僕は別にそこまでの音楽性を追い求めているわけじゃない。歌や音楽にのめりこむ、強い動機もなければ、暇もない。ましてや一体、愛がこもらないと歌えないほど凄い歌だなんて、そんな歌や、その世界に、何の縁があるんだ。
 けれど、万が一、仮にそんなことがあるとしての話だ。……僕が、この音源を、愛さずにいられなくなった、そんな場合の話だ。
 そのとき、僕の音楽は、変わらずにいられるんだろうか。ひょっとして、その愛とやらを、この音源の歌声に乗せて、世界のすべてに向けて叫び出したくなるんじゃないだろうか。愛に入れ込み、音に入れ込み、音源にのめりこみ、音にのめりこみ、発信する手段にのめりこみ──僕は、そうならずにいられるんだろうか。
 冗談じゃない。僕にそんな生き方ができるもんか。僕にはそんな生き方をすることが許される時間だって、もちろん、才能だってありゃしないんだ。
 ……僕のワイシャツを羽織って、ベッドの上に鳶座りをして、両手でコーヒーカップを持って飲んでいる、”音源”を見ながら、僕はそれらを、今度は真剣に考えてみる。もういちど思う──冗談じゃない。そんなことを始めようものなら、僕は、普通に働いて生活しているようなまともな人間には、二度と戻れやしなくなるぞ。